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木村由紀に彼氏がいることさえ知らなかった。ましてや、今日がそんな大切な日だったとは。 彼女はいつも完璧に仕事をこなし、私情を一切見せなかった。だから高橋は、彼女にも「守るべき生活」があるという当たり前の事実を、今の今まで想像すらしていなかったのだ。
自分の姿をした由紀が、寂しげに、そして少しだけ恨みがましく呟く。
「『急な仕事が入った』って連絡したら、彼、すごく落ち込んでました。……社長のこの体で、スマホを握りしめて謝る私の気持ち、わかりますか?」
高橋は、胸が締め付けられるような罪悪感に襲われた。 先ほど女子会で聞いた「社長は私たちのことを駒としか見ていない」という言葉が、今度は自分自身の秘書から、自分自身の口を使って突きつけられた気がした。
高橋は、由紀の体で、深々と頭を下げた。
「すまん、木村くん! 本当に……本当に申し訳ないことをした!」
ハイヒールのバランスを崩しそうになりながらも、高橋は必死に続けた。
「君がこれほどまでに私を支えてくれていたこと、そして、その裏で何を犠牲にしていたか、私は何も分かっていなかった。……この穴埋めは、必ずする! 明日、いや、元の体に戻ったらすぐにだ。特別休暇でも、そのディナーの埋め合わせでも、何でも言ってくれ。私のポケットマネーで最高級の店を予約させよう。……いや、そういう問題じゃないな。とにかく、君の時間を奪ったことを心から謝る」
必死に謝罪する「秘書の姿をした社長」を見て、由紀(中身は高橋)は呆気にとられたような顔をした。 やがて、彼女はふっと表情を緩め、自分の(高橋の)顔で小さく笑った。
「……ふふっ。社長、私の姿で勢いよく謝られると、なんだか調子が狂います。……でも、今の言葉、忘れないでくださいね。録音しておけばよかった」
由紀は椅子から立ち上がり、高橋の傍らに歩み寄った。
「穴埋め、期待してますよ。……それから、女子会はどうでした? 社長の悪口、たくさん聞けましたか?」
高橋は苦笑いしながら、手元にあるスマートフォンの画面を見せた。
「ああ。……耳が痛い話ばかりだったよ。だが、それ以上に収穫があった。私が忘れていたものを、彼女たちはまだ持っていたんだ」
アプリの画面には、入れ替わり解除まで残り『5時間』の文字。
「あと5時間か。木村くん、最後に一つだけ付き合ってくれないか。社長室のパソコンじゃなくて、現場のフロアで……君の視点から、この会社の改善案をまとめたいんだ」
由紀は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの有能な秘書の顔――今は社長の顔だが――で頷いた。
「承知いたしました、社長。……あ、でもその前に」
由紀は高橋の足元を指差した。
「そのヒール、もう脱いでいいですよ。スリッパ、私のデスクの下にありますから」
「……助かる。正直、もう限界だったんだ」
二人は誰もいない夜のオフィスフロアへと、並んで歩き出した。 外から見れば、それは夜遅くまで働く社長と秘書の姿だったが、その内側では、新しい信頼関係が静かに芽生え始めていた。
午前三時。窓の外では、都会の不夜城もわずかに光を落とし、深い藍色の空が白み始めていた。
自分の姿をした由紀が、寂しげに、そして少しだけ恨みがましく呟く。
「『急な仕事が入った』って連絡したら、彼、すごく落ち込んでました。……社長のこの体で、スマホを握りしめて謝る私の気持ち、わかりますか?」
高橋は、胸が締め付けられるような罪悪感に襲われた。 先ほど女子会で聞いた「社長は私たちのことを駒としか見ていない」という言葉が、今度は自分自身の秘書から、自分自身の口を使って突きつけられた気がした。
高橋は、由紀の体で、深々と頭を下げた。
「すまん、木村くん! 本当に……本当に申し訳ないことをした!」
ハイヒールのバランスを崩しそうになりながらも、高橋は必死に続けた。
「君がこれほどまでに私を支えてくれていたこと、そして、その裏で何を犠牲にしていたか、私は何も分かっていなかった。……この穴埋めは、必ずする! 明日、いや、元の体に戻ったらすぐにだ。特別休暇でも、そのディナーの埋め合わせでも、何でも言ってくれ。私のポケットマネーで最高級の店を予約させよう。……いや、そういう問題じゃないな。とにかく、君の時間を奪ったことを心から謝る」
必死に謝罪する「秘書の姿をした社長」を見て、由紀(中身は高橋)は呆気にとられたような顔をした。 やがて、彼女はふっと表情を緩め、自分の(高橋の)顔で小さく笑った。
「……ふふっ。社長、私の姿で勢いよく謝られると、なんだか調子が狂います。……でも、今の言葉、忘れないでくださいね。録音しておけばよかった」
由紀は椅子から立ち上がり、高橋の傍らに歩み寄った。
「穴埋め、期待してますよ。……それから、女子会はどうでした? 社長の悪口、たくさん聞けましたか?」
高橋は苦笑いしながら、手元にあるスマートフォンの画面を見せた。
「ああ。……耳が痛い話ばかりだったよ。だが、それ以上に収穫があった。私が忘れていたものを、彼女たちはまだ持っていたんだ」
アプリの画面には、入れ替わり解除まで残り『5時間』の文字。
「あと5時間か。木村くん、最後に一つだけ付き合ってくれないか。社長室のパソコンじゃなくて、現場のフロアで……君の視点から、この会社の改善案をまとめたいんだ」
由紀は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの有能な秘書の顔――今は社長の顔だが――で頷いた。
「承知いたしました、社長。……あ、でもその前に」
由紀は高橋の足元を指差した。
「そのヒール、もう脱いでいいですよ。スリッパ、私のデスクの下にありますから」
「……助かる。正直、もう限界だったんだ」
二人は誰もいない夜のオフィスフロアへと、並んで歩き出した。 外から見れば、それは夜遅くまで働く社長と秘書の姿だったが、その内側では、新しい信頼関係が静かに芽生え始めていた。
午前三時。窓の外では、都会の不夜城もわずかに光を落とし、深い藍色の空が白み始めていた。