秘書と社長の秘密

廣瀬純七

文字の大きさ
9 / 17

9

木村由紀に彼氏がいることさえ知らなかった。ましてや、今日がそんな大切な日だったとは。 彼女はいつも完璧に仕事をこなし、私情を一切見せなかった。だから高橋は、彼女にも「守るべき生活」があるという当たり前の事実を、今の今まで想像すらしていなかったのだ。

 自分の姿をした由紀が、寂しげに、そして少しだけ恨みがましく呟く。

「『急な仕事が入った』って連絡したら、彼、すごく落ち込んでました。……社長のこの体で、スマホを握りしめて謝る私の気持ち、わかりますか?」

 高橋は、胸が締め付けられるような罪悪感に襲われた。 先ほど女子会で聞いた「社長は私たちのことを駒としか見ていない」という言葉が、今度は自分自身の秘書から、自分自身の口を使って突きつけられた気がした。

 高橋は、由紀の体で、深々と頭を下げた。

「すまん、木村くん! 本当に……本当に申し訳ないことをした!」

 ハイヒールのバランスを崩しそうになりながらも、高橋は必死に続けた。

「君がこれほどまでに私を支えてくれていたこと、そして、その裏で何を犠牲にしていたか、私は何も分かっていなかった。……この穴埋めは、必ずする! 明日、いや、元の体に戻ったらすぐにだ。特別休暇でも、そのディナーの埋め合わせでも、何でも言ってくれ。私のポケットマネーで最高級の店を予約させよう。……いや、そういう問題じゃないな。とにかく、君の時間を奪ったことを心から謝る」

 必死に謝罪する「秘書の姿をした社長」を見て、由紀(中身は高橋)は呆気にとられたような顔をした。 やがて、彼女はふっと表情を緩め、自分の(高橋の)顔で小さく笑った。

「……ふふっ。社長、私の姿で勢いよく謝られると、なんだか調子が狂います。……でも、今の言葉、忘れないでくださいね。録音しておけばよかった」

 由紀は椅子から立ち上がり、高橋の傍らに歩み寄った。

「穴埋め、期待してますよ。……それから、女子会はどうでした? 社長の悪口、たくさん聞けましたか?」

 高橋は苦笑いしながら、手元にあるスマートフォンの画面を見せた。

「ああ。……耳が痛い話ばかりだったよ。だが、それ以上に収穫があった。私が忘れていたものを、彼女たちはまだ持っていたんだ」

 アプリの画面には、入れ替わり解除まで残り『5時間』の文字。

「あと5時間か。木村くん、最後に一つだけ付き合ってくれないか。社長室のパソコンじゃなくて、現場のフロアで……君の視点から、この会社の改善案をまとめたいんだ」

 由紀は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの有能な秘書の顔――今は社長の顔だが――で頷いた。

「承知いたしました、社長。……あ、でもその前に」

 由紀は高橋の足元を指差した。

「そのヒール、もう脱いでいいですよ。スリッパ、私のデスクの下にありますから」

「……助かる。正直、もう限界だったんだ」

 二人は誰もいない夜のオフィスフロアへと、並んで歩き出した。 外から見れば、それは夜遅くまで働く社長と秘書の姿だったが、その内側では、新しい信頼関係が静かに芽生え始めていた。

 午前三時。窓の外では、都会の不夜城もわずかに光を落とし、深い藍色の空が白み始めていた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

あべこべな世界

廣瀬純七
ファンタジー
男女の立場が入れ替わったあべこべな世界で想像を越える不思議な日常を体験した健太の話

リアルフェイスマスク

廣瀬純七
ファンタジー
リアルなフェイスマスクで女性に変身する男の話

OLサラリーマン

廣瀬純七
ファンタジー
女性社員と体が入れ替わるサラリーマンの話

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

身体交換

廣瀬純七
SF
大富豪の老人の男性と若い女性が身体を交換する話

ストレンジ&デイズ

廣瀬純七
青春
ある朝、高校生の男女が入れ替わる不思議なお話。

バーチャル女子高生

廣瀬純七
大衆娯楽
バーチャルの世界で女子高生になるサラリーマンの話

兄の悪戯

廣瀬純七
大衆娯楽
悪戯好きな兄が弟と妹に催眠術をかける話