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デパートデート 4
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コニーリアス・ヘイマー様からお手紙の返信が来たのは、手紙を出して翌日のことだった。
今日もクリフ様はお仕事で不在である。
お手紙には、明後日の午後、コニーリアス様がラザフォード公爵家に来てもいいかと書かれていた。
クリフ様曰く滅多に外出しないというコニーリアス様自ら足を運んでくださることに驚きつつも、わたしはすぐに了承のお返事を出す。
そして二日後。
ティータイムの時間帯にやってくる予定のコニーリアス様をおもてなしするため、ドロシアに頼んでサロンを準備してもらう。
ラザフォード公爵家にも執事がいるが、執事のヒューズは二十五歳。領地を任せている執事の息子で、クリフ様とわたしが結婚した際に執事見習いから執事に昇格した。
十七歳のときから執事見習いとして働いていたとはいえ、ラザフォード公爵家の使用人歴はドロシアの方が長く、そして現在ドロシアはわたしの専属のような形でついてくれているため、だいたいの手配はドロシア主導で行われる。
「ヒューズ、馬車が到着したら教えてちょうだいね」
「わかりましたドロシア。それから、茶葉と茶菓子の準備は終わっています」
ヒューズが、サロンに新しい花を生けていたドロシアににこやかに告げる。
わたしも手伝おうと思ったのだけど、こういう時は女主人としてどーんと構えていればいいと言われたので、呼ばれるまで大人しく部屋で待つことにした。
手持無沙汰なのでクリフ様のハンカチに刺繍を入れていると、三十分ほどしてヒューズが呼びに来た。コニーリアス様が到着したらしい。
お出迎えのために玄関へ降りると、ぼさぼさの黒髪にエメラルド色の瞳をした細身の男性が馬車から降りてきた。
アイロンをかけていない皺だらけの服の上に、魔法省の長官であることを示す黒いマントを羽織っていた。こちらも皺だらけだ。
病的なほど肌が白く、なるほど引きこもり……と変に感心してしまう。よほど日差しを浴びない生活をしているのか、馬車を降りて玄関をくぐるまでの短い距離を歩くだけでものすごく眩しそうに目をぎゅうっと細めていた。
クリフ様の魔法のお師匠のため、ドロシアとヒューズは面識があるのだろう。ヒューズは苦笑して、ドロシアはこめかみを押さえて眉間に皺を寄せていた。ドロシアが「怒るな怒るな」と自分に言い聞かせているような気がする。
「ようこそおいで下さいました、コニーリアス様。はじめまして、クリフ・ラザフォードが妻、アナスタージアと申します」
「はじめまして、コニーリアス・ヘイマーです。お会いできて嬉しいですよ、アナスタージア夫人。ヒューズもドロシアも久しぶりだね」
すると、それまで黙っていたドロシアが、キッとコニーリアス様を睨みつける。
「久しぶりだね、ではございませんよ! まったく、それが招かれる人の格好ですか! なんでそんなにしわくちゃなんです⁉」
「相変わらず口うるさいなあドロシアは。皺だらけなのはね、昨日試運転したアイロンがけしてくれる魔法道具があるんだけど、失敗しちゃったんだぁ。アイロンはかけてくれるんだけど、ほら、こんな風に皺だらけになるんだよ」
「それはアイロンをかけたとは申しません! マントだけならアイロンをかけてあげますから、おかしくださいませ!」
「助かるよドロシア」
ドロシアがやれやれと嘆息した。
コニーリアス様は伯爵家の次男だが、研究室に籠ってばかりで家に帰らないそうだ。せめて身の回りの世話をしてくれる使用人を一人研究室に入れろとドロシアが言ったけれど、「研究の邪魔になるからねえ」と言って笑っている。
……変わった人だわ。
あの生真面目なクリフ様と、研究以外にまったく興味がなさそうなコニーリアス様が師弟関係だったというのがピンとこない。当時はどんな様子だったのだろう。気になる。
ドロシアがコニーリアス様からマントを受け取り、あとをヒューズに任せて去っていく。
コニーリアス様をサロンにお通しすると、ヒューズがお茶を茶菓子を用意してくれた。
ヒューズが下がると、コニーリアス様がぱちんと指を鳴らす。
「遮音結界を張ったから、遠慮なくどうぞ? 相談があるのでしょう?」
さすがは魔法省長官。指を鳴らすだけで魔法が使えるなんてすごすぎる。
びっくりしすぎで反応が遅れたわたしは、慌てて居住まいを正した。
「お忙しいところ申し訳ございません。クリフ様が忘却の魔法をお使いになったのはご存じでしょうか」
「知っていますよ? 少し前にそれで叱ったばかりですからね」
「叱った? あ、あの、もしかして忘却の魔法は、使ってはならない魔法の一種なのでしょうか?」
コニーリアス様はにこりと微笑んだ。
「ええ。本来であれば使用制限がかけられている魔法です。ただ、他人に使用することへの制限しかかけられていないので、今回は法律に触れることはありません。自分に使う阿呆がいるとは思いませんでしたけどね」
わたしはちょっと血の気が引く思いだった。クリフ様はなんだってそんな危険な魔法を……。いえ、それだけ思いつめていらっしゃったのだとは思うけれど、それなら魔法を使う前にわたしに打ち明けてくれればよかったのにとちょっと思う。言えなかったのかもしれないけど。
……でも、法律に触れないのならよかったわ。
クリフ様はコニーリアス様に叱られたそうだが、逆を言えばお叱りを受けるだけですんだのだ。わたしは大事にならなくてよかったとホッと胸を撫でおろす。
「ご存じであれば、その、クリフ様が何を忘れたのかも知っていらっしゃいますか?」
「ええ」
「忘れた記憶を元に戻すことはできますか?」
コニーリアス様はきょとんとした。
「元に戻すって、あなたもクリフが何を忘れたのか知っているのですよね」
「はい」
「それなのに、記憶を元に戻したいんですか?」
「はい、そうです」
コニーリアス様はますます不可解そうな顔になった。
「失礼。確認なのですが、クリフは忘却の魔法で初恋の女性を忘れたようだと言いました。その人気であっていますか?」
「あっています」
「それなのに、クリフの記憶を戻したい?」
「はい」
コニーリアス様は長くて細い指でテーブルの上をこつこつと叩いた。
「どうして?」
まあ、不思議に思うわよね。
わたしはクリフ様の妻だ。その妻が、夫が忘れた初恋の女性の記憶を戻してあげてほしいなんて、普通は言わないだろう。むしろそのまま忘れていてくれと思うはずだ。
わたしは小さく口端を持ち上げた。もしかしたら自嘲めいた笑みになっていたかもしれない。
「クリフ様は、初恋の方を忘れましたが、その想いは胸の中に残っているのです。それではあまりにつらすぎます」
「であれば、普通はその想いを消し去る方法を教えてほしいと、妻であるアナスタージア夫人なら考えるのでは?」
「……そういう考えが頭の中に浮かばなかったのかと言えば嘘になりますが、わたしはそれを望みません」
わたしははっきりとクリフ様に「夫婦になれない」と言われた。
それほど強く初恋の女性を想っているクリフ様の気持ちを消し去るなんて残酷なことはできない。
「わたしの考え方は、古参貴族の方の考え方とは少し違うと思います。だけど、わたしは結婚は好きな方とすべきだと思うのです」
「つまり夫人は、クリフが好きではない?」
「いいえ」
わたしはきゅっと膝の上で拳を握って首を横に振る。
「わたしは……わたしはクリフ様を愛しています。だからこそ、クリフ様には幸せになっていただきたいです」
「自分が犠牲になってもいいから、クリフには好きな人と結ばれてほしい。そう言うことですか?」
「犠牲、という言い方はわたしにはふさわしくないと思います。犠牲という意味では、クリフ様とクリフ様の初恋の方の方がそうであると……」
「……ふむ。僕にはあまり理解できない考え方ですが、夫人が嘘をついているわけではなさそうですね。迷ってはいるようですけど」
コニーリアス様は人の表情の変化に聡いのかもしれない。
心の中にある迷いまであてられて、わたしは苦笑するしかなかった。
「クリフ様が好きですから、やはり迷いは生まれます。でも……クリフ様の幸せを願っているのは、本心です」
「人の心は変わるものです。夫婦を続けていれば、クリフの心が初恋の女性よりもあなたへ向かうこともあるでしょう。それでも?」
「……あまり、惑わさないでください」
わたしは覚悟を決めたけれど、その覚悟はぐらんぐらんなのだ。当然である。だってクリフ様のことが好きなのだ。好きな人と離れることに迷いが生じないはずがない。
コニーリアス様のエメラルド色の瞳は、わたしの迷いを簡単に見透かしそうだった。
わたしが目を伏せると、コニーリアス様がふう、と息を吐く。
「思い出させる方法がまったくないわけではありません。けれど、魔法省の長官としてそれは許可できません。その方法は、夫人、あなたにも負荷が……あなたの記憶が傷つく可能性がある。あなたは罪人ではない。そんなあなたに、この方法は勧められないし、してはならない。ご理解ください」
「そう……ですか」
「それに、夫人。よく考えてください。クリフが忘れたのは初恋の女性の記憶だとして、その女性とクリフが両思いであったとは限らないでしょう。すでに相手は結婚しているかもしれない。恋人がいるかもしれない。その状態でクリフの記憶を戻してどうします」
確かに、その可能性は考えていた。もし相手が結婚していたり恋人がいたりするのならクリフ様にそれを伝えるのは逆に酷なことになる。
けれどわたしはクリフ様の初恋の相手をもう見つけてしまったのだ。ビアトリス・アストン侯爵令嬢。彼女は独身で、先日デパートで会った時の様子から考えると、クリフ様に気持ちがあるように思える。
だから、クリフ様の記憶が戻ればクリフ様とビアトリス様は幸せになれると思うのだ。
わたしが黙り込んでいると、コニーリアス様がティーカップに口をつけ、ゆっくり飲み干してから幼子に言い聞かせるように柔らかい声で言った。
「アナスタージア夫人。クリフの妻はあなただ。恋愛感情だけが夫婦の絆ではありません。妻帯していない僕が言うのもなんだけど、ゼロから信頼と愛情を築いていくのも、また夫婦だと思います。あなたたちはまだ結婚したばかりだ。クリフと二人で年月を重ねながら、絆を強めていくのもいいのではないでしょうか」
コニーリアス様の言うことも一理あるだろう、
クリフ様が単純にわたしに恋愛感情を持っていないだけならばその方法も考えた。
でも、クリフ様はほかに想う方がいるのだ。
その気持ちは、永遠にクリフ様の心に残り続けるかもしれない。
そしていずれ、わたしがいたから初恋の女性と結ばれなかったのだと――わたしを恨み、憎むかもしれない。
結局のところ、クリフ様のためといいながら、わたしが怖いのだ。
彼に愛されないことが、彼に憎まれることが。
彼がわたし以外の女性を想い続けることが。
そしていつか、嫉妬でわたし自身がおかしくなってしまうかもしれないことが。
「すぐには気持ちが整理できないのは仕方がないでしょう。僕の弟子は本当に朴念仁で、言っていいことと悪いことの区別もつかない愚か者ですが、そこまで悪い人間ではありません。もう少し夫婦でいてやってください。そうすることで、クリフも夫人も、何かが変わるかもしれませんよ」
わたしはその言葉に曖昧に笑うしかできなかった。
今日もクリフ様はお仕事で不在である。
お手紙には、明後日の午後、コニーリアス様がラザフォード公爵家に来てもいいかと書かれていた。
クリフ様曰く滅多に外出しないというコニーリアス様自ら足を運んでくださることに驚きつつも、わたしはすぐに了承のお返事を出す。
そして二日後。
ティータイムの時間帯にやってくる予定のコニーリアス様をおもてなしするため、ドロシアに頼んでサロンを準備してもらう。
ラザフォード公爵家にも執事がいるが、執事のヒューズは二十五歳。領地を任せている執事の息子で、クリフ様とわたしが結婚した際に執事見習いから執事に昇格した。
十七歳のときから執事見習いとして働いていたとはいえ、ラザフォード公爵家の使用人歴はドロシアの方が長く、そして現在ドロシアはわたしの専属のような形でついてくれているため、だいたいの手配はドロシア主導で行われる。
「ヒューズ、馬車が到着したら教えてちょうだいね」
「わかりましたドロシア。それから、茶葉と茶菓子の準備は終わっています」
ヒューズが、サロンに新しい花を生けていたドロシアににこやかに告げる。
わたしも手伝おうと思ったのだけど、こういう時は女主人としてどーんと構えていればいいと言われたので、呼ばれるまで大人しく部屋で待つことにした。
手持無沙汰なのでクリフ様のハンカチに刺繍を入れていると、三十分ほどしてヒューズが呼びに来た。コニーリアス様が到着したらしい。
お出迎えのために玄関へ降りると、ぼさぼさの黒髪にエメラルド色の瞳をした細身の男性が馬車から降りてきた。
アイロンをかけていない皺だらけの服の上に、魔法省の長官であることを示す黒いマントを羽織っていた。こちらも皺だらけだ。
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クリフ様の魔法のお師匠のため、ドロシアとヒューズは面識があるのだろう。ヒューズは苦笑して、ドロシアはこめかみを押さえて眉間に皺を寄せていた。ドロシアが「怒るな怒るな」と自分に言い聞かせているような気がする。
「ようこそおいで下さいました、コニーリアス様。はじめまして、クリフ・ラザフォードが妻、アナスタージアと申します」
「はじめまして、コニーリアス・ヘイマーです。お会いできて嬉しいですよ、アナスタージア夫人。ヒューズもドロシアも久しぶりだね」
すると、それまで黙っていたドロシアが、キッとコニーリアス様を睨みつける。
「久しぶりだね、ではございませんよ! まったく、それが招かれる人の格好ですか! なんでそんなにしわくちゃなんです⁉」
「相変わらず口うるさいなあドロシアは。皺だらけなのはね、昨日試運転したアイロンがけしてくれる魔法道具があるんだけど、失敗しちゃったんだぁ。アイロンはかけてくれるんだけど、ほら、こんな風に皺だらけになるんだよ」
「それはアイロンをかけたとは申しません! マントだけならアイロンをかけてあげますから、おかしくださいませ!」
「助かるよドロシア」
ドロシアがやれやれと嘆息した。
コニーリアス様は伯爵家の次男だが、研究室に籠ってばかりで家に帰らないそうだ。せめて身の回りの世話をしてくれる使用人を一人研究室に入れろとドロシアが言ったけれど、「研究の邪魔になるからねえ」と言って笑っている。
……変わった人だわ。
あの生真面目なクリフ様と、研究以外にまったく興味がなさそうなコニーリアス様が師弟関係だったというのがピンとこない。当時はどんな様子だったのだろう。気になる。
ドロシアがコニーリアス様からマントを受け取り、あとをヒューズに任せて去っていく。
コニーリアス様をサロンにお通しすると、ヒューズがお茶を茶菓子を用意してくれた。
ヒューズが下がると、コニーリアス様がぱちんと指を鳴らす。
「遮音結界を張ったから、遠慮なくどうぞ? 相談があるのでしょう?」
さすがは魔法省長官。指を鳴らすだけで魔法が使えるなんてすごすぎる。
びっくりしすぎで反応が遅れたわたしは、慌てて居住まいを正した。
「お忙しいところ申し訳ございません。クリフ様が忘却の魔法をお使いになったのはご存じでしょうか」
「知っていますよ? 少し前にそれで叱ったばかりですからね」
「叱った? あ、あの、もしかして忘却の魔法は、使ってはならない魔法の一種なのでしょうか?」
コニーリアス様はにこりと微笑んだ。
「ええ。本来であれば使用制限がかけられている魔法です。ただ、他人に使用することへの制限しかかけられていないので、今回は法律に触れることはありません。自分に使う阿呆がいるとは思いませんでしたけどね」
わたしはちょっと血の気が引く思いだった。クリフ様はなんだってそんな危険な魔法を……。いえ、それだけ思いつめていらっしゃったのだとは思うけれど、それなら魔法を使う前にわたしに打ち明けてくれればよかったのにとちょっと思う。言えなかったのかもしれないけど。
……でも、法律に触れないのならよかったわ。
クリフ様はコニーリアス様に叱られたそうだが、逆を言えばお叱りを受けるだけですんだのだ。わたしは大事にならなくてよかったとホッと胸を撫でおろす。
「ご存じであれば、その、クリフ様が何を忘れたのかも知っていらっしゃいますか?」
「ええ」
「忘れた記憶を元に戻すことはできますか?」
コニーリアス様はきょとんとした。
「元に戻すって、あなたもクリフが何を忘れたのか知っているのですよね」
「はい」
「それなのに、記憶を元に戻したいんですか?」
「はい、そうです」
コニーリアス様はますます不可解そうな顔になった。
「失礼。確認なのですが、クリフは忘却の魔法で初恋の女性を忘れたようだと言いました。その人気であっていますか?」
「あっています」
「それなのに、クリフの記憶を戻したい?」
「はい」
コニーリアス様は長くて細い指でテーブルの上をこつこつと叩いた。
「どうして?」
まあ、不思議に思うわよね。
わたしはクリフ様の妻だ。その妻が、夫が忘れた初恋の女性の記憶を戻してあげてほしいなんて、普通は言わないだろう。むしろそのまま忘れていてくれと思うはずだ。
わたしは小さく口端を持ち上げた。もしかしたら自嘲めいた笑みになっていたかもしれない。
「クリフ様は、初恋の方を忘れましたが、その想いは胸の中に残っているのです。それではあまりにつらすぎます」
「であれば、普通はその想いを消し去る方法を教えてほしいと、妻であるアナスタージア夫人なら考えるのでは?」
「……そういう考えが頭の中に浮かばなかったのかと言えば嘘になりますが、わたしはそれを望みません」
わたしははっきりとクリフ様に「夫婦になれない」と言われた。
それほど強く初恋の女性を想っているクリフ様の気持ちを消し去るなんて残酷なことはできない。
「わたしの考え方は、古参貴族の方の考え方とは少し違うと思います。だけど、わたしは結婚は好きな方とすべきだと思うのです」
「つまり夫人は、クリフが好きではない?」
「いいえ」
わたしはきゅっと膝の上で拳を握って首を横に振る。
「わたしは……わたしはクリフ様を愛しています。だからこそ、クリフ様には幸せになっていただきたいです」
「自分が犠牲になってもいいから、クリフには好きな人と結ばれてほしい。そう言うことですか?」
「犠牲、という言い方はわたしにはふさわしくないと思います。犠牲という意味では、クリフ様とクリフ様の初恋の方の方がそうであると……」
「……ふむ。僕にはあまり理解できない考え方ですが、夫人が嘘をついているわけではなさそうですね。迷ってはいるようですけど」
コニーリアス様は人の表情の変化に聡いのかもしれない。
心の中にある迷いまであてられて、わたしは苦笑するしかなかった。
「クリフ様が好きですから、やはり迷いは生まれます。でも……クリフ様の幸せを願っているのは、本心です」
「人の心は変わるものです。夫婦を続けていれば、クリフの心が初恋の女性よりもあなたへ向かうこともあるでしょう。それでも?」
「……あまり、惑わさないでください」
わたしは覚悟を決めたけれど、その覚悟はぐらんぐらんなのだ。当然である。だってクリフ様のことが好きなのだ。好きな人と離れることに迷いが生じないはずがない。
コニーリアス様のエメラルド色の瞳は、わたしの迷いを簡単に見透かしそうだった。
わたしが目を伏せると、コニーリアス様がふう、と息を吐く。
「思い出させる方法がまったくないわけではありません。けれど、魔法省の長官としてそれは許可できません。その方法は、夫人、あなたにも負荷が……あなたの記憶が傷つく可能性がある。あなたは罪人ではない。そんなあなたに、この方法は勧められないし、してはならない。ご理解ください」
「そう……ですか」
「それに、夫人。よく考えてください。クリフが忘れたのは初恋の女性の記憶だとして、その女性とクリフが両思いであったとは限らないでしょう。すでに相手は結婚しているかもしれない。恋人がいるかもしれない。その状態でクリフの記憶を戻してどうします」
確かに、その可能性は考えていた。もし相手が結婚していたり恋人がいたりするのならクリフ様にそれを伝えるのは逆に酷なことになる。
けれどわたしはクリフ様の初恋の相手をもう見つけてしまったのだ。ビアトリス・アストン侯爵令嬢。彼女は独身で、先日デパートで会った時の様子から考えると、クリフ様に気持ちがあるように思える。
だから、クリフ様の記憶が戻ればクリフ様とビアトリス様は幸せになれると思うのだ。
わたしが黙り込んでいると、コニーリアス様がティーカップに口をつけ、ゆっくり飲み干してから幼子に言い聞かせるように柔らかい声で言った。
「アナスタージア夫人。クリフの妻はあなただ。恋愛感情だけが夫婦の絆ではありません。妻帯していない僕が言うのもなんだけど、ゼロから信頼と愛情を築いていくのも、また夫婦だと思います。あなたたちはまだ結婚したばかりだ。クリフと二人で年月を重ねながら、絆を強めていくのもいいのではないでしょうか」
コニーリアス様の言うことも一理あるだろう、
クリフ様が単純にわたしに恋愛感情を持っていないだけならばその方法も考えた。
でも、クリフ様はほかに想う方がいるのだ。
その気持ちは、永遠にクリフ様の心に残り続けるかもしれない。
そしていずれ、わたしがいたから初恋の女性と結ばれなかったのだと――わたしを恨み、憎むかもしれない。
結局のところ、クリフ様のためといいながら、わたしが怖いのだ。
彼に愛されないことが、彼に憎まれることが。
彼がわたし以外の女性を想い続けることが。
そしていつか、嫉妬でわたし自身がおかしくなってしまうかもしれないことが。
「すぐには気持ちが整理できないのは仕方がないでしょう。僕の弟子は本当に朴念仁で、言っていいことと悪いことの区別もつかない愚か者ですが、そこまで悪い人間ではありません。もう少し夫婦でいてやってください。そうすることで、クリフも夫人も、何かが変わるかもしれませんよ」
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