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私と現在
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誰も自分を見ていない。
そんなことを思ったのは、中学生の時だっただろうか。
ある日の帰りのHRの時間、担任が来月行う予定の職場見学の候補地について話していた。給食袋を蹴飛ばしながら騒ぐ男子や、自分の派遣される職場に対して不満をいう女子を宥め賺しながら、自分の興味関心がある職場にいって、自分の将来について考えるんですよ、と語る彼は、私たちを見渡すと、こう付け加えた。
「皆さんには、皆さんそれぞれに自分にしかない可能性があります。
今回の職場見学の経験を、それを考える手掛かりにしてくさい。」
着任して半年がたった新任の彼の眼は、私たちの誰にも輝かしい未来が待っていることを信じてやまなかった。
あの眼に少なくとも私は映っていないのだろうなと、筆箱をカバンにしまいながら、そう思った。
現在の、あるいは彼が語った未来における私の姿も、熱意にあふれた新任の彼の眼には同様に映らないだろう。
廊下のドア下に置かれている白米とサケの切り身を自室の机に運びながら考える。卓上はPCやペットボトルが散乱しており、朝食の置き場がない。だから、ベッドの上でそれらを食べる。暗い室内は常にカーテンが閉め切られているせいだ。空気が悪い。よどんでいる。そんな中で思考を引き戻す。
彼の目には、このような生活をしている私が、希望に満ち溢れているようには見えないだろう。
尤も、今の私が偶然彼にばったり遭遇するなんて機会がないことは、引きこもって5年になる自分が一番わかっていることだった
彼だけに限った話ではない。かつての友人や家族にも、私の姿が晒されることは殆ど無い
最後に母の姿を見たのはいつだっただろうか。冷めた朝食を食べるたびに考えるが、時間の感覚が壊れた今となってはわからない。だから、母のことを考えるたびに、大学を中退し、実家に帰ってきた際の、私を見る母の眼だけが思い出される。なにを映しているでもない、無表情なあの目が、私を今まで見続けている。
朝食を下げると、西側の壁にあるエアコンのための換気口を外し、そこから、外の景色を眺める。
そうして、窓の外が完全に暗くなったら、自室のドアを開け、廊下に置かれている夕食を食べ、
眠りにつく。これが、私の一日であり、一週間であり、一か月あるいは一年、そしておそらく、母がいなくなるまでの一生だ。
家族が嫌いだった。三歳の私を置いていなくなった父も、父がいなくなった後すぐに再婚を決め、常々父への悪態と私への人格否定を行い続けた母も、そんな母を諫めもせずただ笑っていたあいつも、母とあの人が愛し、愛するためだけに生まれたあの娘も。
彼らが私を見る目は、決まって私を見ていなかった。私ではなく、私の後ろに巣くっている父や連れ子への侮蔑、軽蔑を捉えながら、それらが自分の目に移ることが心底たまらないような顔だった。
しかし、それもやがて変わった。私の姿、あるいはそれら憎悪が彼らの目に移ることはもうない。すべて彼らが望んだ結果だった。
引きこもりを始めたばかりのころは、その環境が新鮮だった。誰に何を咎められるでもない、自分がしたいことだけをできるような錯覚があった。そして、そうなった多くの人々がするように、私はインターネットにのめりこんだ。掲示板に張り付き、知ったようなことを言って、多くの人間と交流した気になれるその場所は、他者の目への嫌悪感を持っていた私であっても、人間としていられるような気がした。ここならば、私はいてもいいのではないかと安堵した。ここが私の居場所ではないのかと。残念ながら、そうはならなかった。モニターの向こう側には他者がおり、彼らも現実の人間と同様に、あるいはそれ以上の悪意を持っていると感じた瞬間に、私はパソコンの電源を切っていた。暗転したモニターには、憔悴している私の顔と、それを取り巻く無数の悪意が映っていた。
それ以来、パソコンを立ち上げることはなくなった。
手持ち無沙汰になった私が、次に暇つぶしとして見出したのが読書だった。活字の中に身を投じ、物語の中の人物を演じている間は、現実をないがしろにしてもよいのではないかと考えた。
しかし、それも叶わなかった。登場人物の幸せや、何か暖かい感情に触れるたびに、私は自らの昏い部分をまざまざと見せつけられているような気がした。あるいは、物語が残酷な、悲惨な結末になったとしても、そうしたものに対して理性的であることができなかった。圧倒的な無力感の前に、私は登場人物の誰よりも打ちひしがれてしまい、物語を物語として楽しむことができなかった。そして何より、物語の展開が喜劇、悲劇のいずれであったとしても、魅力的で他者をひきつけてやまない文章が綴られていること、そしてそれを綴ることができる誰かが存在していることが、私にとってはひどく屈辱的だった。決して、私自身、作家を志望していたわけではない。それによる嫉妬ではなく、私よりも輝いているすべてに対して、私は畏敬と羨望、そしてそれらをはるかに上回る妬みを感じてしまうのだった。まるで、世界は美しく、そして素晴らしいものだと見せつけるかのような輝きを放つすべてのものを、私は私の目から追放したかった。そうすることが、私が私たりえる方法だと信じていた。
そうして、私が見つけた最後の暇つぶしが、外を見ることだった。これを見出したのは、偶然の産物と言っていいだろう。朝、寝ぼけて壁に頭をぶつけた際、その衝撃からか壁から何かが取れた。それはエアコンのための換気口の蓋だった。直そうと思って換気口を確認する。私がかがんで丁度の高さに換気口があり、それは私の目一つ分程度の隙間になっていた。ふと、そこから外をのぞくと、家のはずれにある公園が見えた。集合住宅のはずれにあるそれは、小さなブランコと、ジャングルジムからなっている粗末なものだった。人の姿は見えず、役割を見出されずに呆然とそこにある。その時私は、換気口から見る景色が不思議といたく気に入った。私が傷つかない程度に、世界の無情観、さもしさのようなものを具現してくれているように思えた。以降、換気口から誰もいない公園を眺めるのが、私の日課、あるいは生きがいになった。
そんなことを思ったのは、中学生の時だっただろうか。
ある日の帰りのHRの時間、担任が来月行う予定の職場見学の候補地について話していた。給食袋を蹴飛ばしながら騒ぐ男子や、自分の派遣される職場に対して不満をいう女子を宥め賺しながら、自分の興味関心がある職場にいって、自分の将来について考えるんですよ、と語る彼は、私たちを見渡すと、こう付け加えた。
「皆さんには、皆さんそれぞれに自分にしかない可能性があります。
今回の職場見学の経験を、それを考える手掛かりにしてくさい。」
着任して半年がたった新任の彼の眼は、私たちの誰にも輝かしい未来が待っていることを信じてやまなかった。
あの眼に少なくとも私は映っていないのだろうなと、筆箱をカバンにしまいながら、そう思った。
現在の、あるいは彼が語った未来における私の姿も、熱意にあふれた新任の彼の眼には同様に映らないだろう。
廊下のドア下に置かれている白米とサケの切り身を自室の机に運びながら考える。卓上はPCやペットボトルが散乱しており、朝食の置き場がない。だから、ベッドの上でそれらを食べる。暗い室内は常にカーテンが閉め切られているせいだ。空気が悪い。よどんでいる。そんな中で思考を引き戻す。
彼の目には、このような生活をしている私が、希望に満ち溢れているようには見えないだろう。
尤も、今の私が偶然彼にばったり遭遇するなんて機会がないことは、引きこもって5年になる自分が一番わかっていることだった
彼だけに限った話ではない。かつての友人や家族にも、私の姿が晒されることは殆ど無い
最後に母の姿を見たのはいつだっただろうか。冷めた朝食を食べるたびに考えるが、時間の感覚が壊れた今となってはわからない。だから、母のことを考えるたびに、大学を中退し、実家に帰ってきた際の、私を見る母の眼だけが思い出される。なにを映しているでもない、無表情なあの目が、私を今まで見続けている。
朝食を下げると、西側の壁にあるエアコンのための換気口を外し、そこから、外の景色を眺める。
そうして、窓の外が完全に暗くなったら、自室のドアを開け、廊下に置かれている夕食を食べ、
眠りにつく。これが、私の一日であり、一週間であり、一か月あるいは一年、そしておそらく、母がいなくなるまでの一生だ。
家族が嫌いだった。三歳の私を置いていなくなった父も、父がいなくなった後すぐに再婚を決め、常々父への悪態と私への人格否定を行い続けた母も、そんな母を諫めもせずただ笑っていたあいつも、母とあの人が愛し、愛するためだけに生まれたあの娘も。
彼らが私を見る目は、決まって私を見ていなかった。私ではなく、私の後ろに巣くっている父や連れ子への侮蔑、軽蔑を捉えながら、それらが自分の目に移ることが心底たまらないような顔だった。
しかし、それもやがて変わった。私の姿、あるいはそれら憎悪が彼らの目に移ることはもうない。すべて彼らが望んだ結果だった。
引きこもりを始めたばかりのころは、その環境が新鮮だった。誰に何を咎められるでもない、自分がしたいことだけをできるような錯覚があった。そして、そうなった多くの人々がするように、私はインターネットにのめりこんだ。掲示板に張り付き、知ったようなことを言って、多くの人間と交流した気になれるその場所は、他者の目への嫌悪感を持っていた私であっても、人間としていられるような気がした。ここならば、私はいてもいいのではないかと安堵した。ここが私の居場所ではないのかと。残念ながら、そうはならなかった。モニターの向こう側には他者がおり、彼らも現実の人間と同様に、あるいはそれ以上の悪意を持っていると感じた瞬間に、私はパソコンの電源を切っていた。暗転したモニターには、憔悴している私の顔と、それを取り巻く無数の悪意が映っていた。
それ以来、パソコンを立ち上げることはなくなった。
手持ち無沙汰になった私が、次に暇つぶしとして見出したのが読書だった。活字の中に身を投じ、物語の中の人物を演じている間は、現実をないがしろにしてもよいのではないかと考えた。
しかし、それも叶わなかった。登場人物の幸せや、何か暖かい感情に触れるたびに、私は自らの昏い部分をまざまざと見せつけられているような気がした。あるいは、物語が残酷な、悲惨な結末になったとしても、そうしたものに対して理性的であることができなかった。圧倒的な無力感の前に、私は登場人物の誰よりも打ちひしがれてしまい、物語を物語として楽しむことができなかった。そして何より、物語の展開が喜劇、悲劇のいずれであったとしても、魅力的で他者をひきつけてやまない文章が綴られていること、そしてそれを綴ることができる誰かが存在していることが、私にとってはひどく屈辱的だった。決して、私自身、作家を志望していたわけではない。それによる嫉妬ではなく、私よりも輝いているすべてに対して、私は畏敬と羨望、そしてそれらをはるかに上回る妬みを感じてしまうのだった。まるで、世界は美しく、そして素晴らしいものだと見せつけるかのような輝きを放つすべてのものを、私は私の目から追放したかった。そうすることが、私が私たりえる方法だと信じていた。
そうして、私が見つけた最後の暇つぶしが、外を見ることだった。これを見出したのは、偶然の産物と言っていいだろう。朝、寝ぼけて壁に頭をぶつけた際、その衝撃からか壁から何かが取れた。それはエアコンのための換気口の蓋だった。直そうと思って換気口を確認する。私がかがんで丁度の高さに換気口があり、それは私の目一つ分程度の隙間になっていた。ふと、そこから外をのぞくと、家のはずれにある公園が見えた。集合住宅のはずれにあるそれは、小さなブランコと、ジャングルジムからなっている粗末なものだった。人の姿は見えず、役割を見出されずに呆然とそこにある。その時私は、換気口から見る景色が不思議といたく気に入った。私が傷つかない程度に、世界の無情観、さもしさのようなものを具現してくれているように思えた。以降、換気口から誰もいない公園を眺めるのが、私の日課、あるいは生きがいになった。
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