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偽王
三
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姫平が斉に入って、四年目の春。
春が闌け、薛にある田文の館には、桜の木に満開の花が咲き乱れている。清籟が吹き抜ければ、鮮やかな桃色に天空が染まる。
温かな陽気に包まれた、館の中庭では昼間から酒盛りが行われ、二十名を超える酔漢達が車座になり、投壺の技を競い合う二人の若者に声援を送っている。
二つの壺が宴の場から少し離れた場に置かれ、二十歩ほど距離を取って、二人の青年が直線状にある壺を睨んでいる。彼等の手には一本の矢。一人は酔漢達に利星と呼ばれる青年。もう一人は、この館の主人の田文である。二人の表情は真剣そのもので、喧噪など耳に入っていない様子である。
「この一本で勝負が決まりますな。兄上」
蘇厲が一気に椀の酒を飲み干し言った。
蘇代、蘇厲兄弟は中庭の隅にある、四阿で二人の対決を見守っていた。
十本中共に九本の矢が壺に入っている。つまり、この一本で勝敗の行方が決まる。共に矢を壺の中に入れることが出来れば、同点であるし、どちらかが外せば、当然一方が敗者となる。
蘇代は答えず、固唾を飲む。常人には分からないだろう。二人から放たれる凄味が。投壺は所詮、娯楽の一種に過ぎない。だが、姫平、田文共に並の負けず嫌いではない。まるで命のやりとりをしているかのような緊迫感を肌で感じる。
蘇代は最後の一投に刮目した。
両者同時に振りかぶり、矢を投げる。放たれた矢が綺麗な曲線を描き、壺の口に吸い込まれるようにして、向かっていく。
(引き分けか)と思った刹那、姫平の投げた矢が壺の口に当たり、渇いた音を立てた。
「あっ」思わず声が漏れる。
田文の矢は壺にすっぽりとおさまっていた。
田文は感情を爆発させ、歓喜の雄叫びを上げた。欣喜雀躍の様相である。一方、姫平は心根から悔しがっているのだろう。切歯扼腕している。
酔漢達が彼等の健闘を讃えると、姫平は苦笑し、莞爾として笑う田文の背を叩いた。
「田文殿も随分と御変わりになられた。出逢った頃は、貼り付けたような笑みを浮かべる、何処か冷めた感じのする少年だったが」
蘇厲が甕から酒を注ぎながら言った。
「王子が田文殿の心を開いたのだ」
複雑な想いを噛み締めながら、蘇代は親友となった、二人の青年を見つめた。
四年前―。斉と燕の講和は成った。だが、所詮は弥縫策に過ぎない。天下の情勢はめまぐるしく動いている。特に西は淵藪となり、各国が昇竜の如き勢いで版図を拡げる、秦に対して大規模な軍事行動を起こしている。
趙の武霊王が盟主となり、趙、韓、魏、燕、楚の五か国合従が締結し、五十万以上の大軍勢で秦に迫った。之に対して、秦は西の玄関口とも云える天嶮の要塞である、函谷関で迎え撃った。
五か国から成る合従軍は、難攻不落の函谷関を前に成す術なく、呆気なく軍を退いた。戦巧者として、名高い武霊王は敗戦に悲憤慷慨し、王を名乗る資格はないとして、王号を取り下げるまでに至った。
しかし、武霊王はこの戦で、従来の戦に変革を齎した。武霊王は精兵一万に、これまで野蛮なる戦法とされていた胡服騎射を叩き込んだ。
彼は自ら北方の胡族の元まで赴き、礼を尽くし、麾下の為に胡服騎射の師を招聘したのである。従来の戦は、御者、槍兵、弓兵の三人が乗った戦車と大勢の歩兵を主とする戦の有り様だった。
胡族は軍に規律というものを持ち合わせていない。窮地に陥れば、体面など考えずに背を向けて逃げ出す。だが、武霊王は蛮族の技に、規律と統率を持つ、無敵の騎馬隊を創成した。
敗戦の鬱憤を晴らすように、北へと自ら軍を率いた武霊王は、林胡、楼煩と云った遊牧民族に撃ち勝ち、悉く勢力下においている。武霊王は天下に統率を持った、騎馬隊の有能性を示した。だが、其れよりも早く、姫平は自ら胡服を纏い、自身の麾下に胡服騎射を叩き込んでいた。武霊王より早くに、しかも若く蛮族の技に将来性を見出していた、姫平には先見の明がある。
此度は秦の東進を阻む為、趙を中心として、五か国が手を結んだが、今日の味方が明日の敵となる争乱の時代である。燕と斉の講和が、烏有に帰す可能性もある。斉の宣王は、北地を諦めた訳ではない。時宜を得れば、躊躇なく大軍を、燕に差し向けるだろう。その時、人質である姫平はー。
武霊王を凌ぐ開明的な思考を具える、姫平は間違いなく大器であった。宣王に姫平の侍中として仕えるように命じられてからと云うもの、誰よりも近くで彼を見てきた、今だからこそ分かる。思惟を巡らせるほどに暗澹とした心地にある。今、蘇代は深い後悔を覚えている。
「私はとんでもない過ちを犯してしまったのかもしれない」
「兄上?」
頬を赤く染めた蘇厲が、苦悶に顔を歪ませる兄を覗き見た。
「王子は燕に留まるべきであった。易王―。そして、護国の剣が正しかったのだ」
蘇代の声は悔恨で震えていた。見遣った蘇厲が姿勢を正し、椀を腰掛ける榻に置く。
「確かに王子は大器を具えておられます。しかしー」
蘇厲が言葉を濁す。
「庶子に過ぎませぬ。子之殿の仰る通り、王位を継ぐに相応しい資格をお持ちになるのは、公子職殿です。私は至当であったと思いますが」
蘇代の眉間に皺が寄る。今になって、巨大な不安が胸の裡で渦を巻く。
「私達は子之殿の器量を見誤っていたのかもしれん」
「何を申されます。子之は誠実な御方。赤心より社稷の安寧を願い、政務を放擲した燕王の代わりに、百官を見事に導いておられたではありませんか」
赭顔の蘇厲が、鬼気を漲らせて反駁する。
「だが、我々は王子と同様に、子之殿のことも良く理解していなかった。饗応に招かれ、数える程度しか顔を突き合わせていない」
蘇厲の云う通り、子之は清廉潔白な青年に見えた。饗応に招かれた日は、蘇兄弟と共に、燕に仕える臣下の一人として、その志を朝まで語り合った。
彼は熱情を迸らせながら、自身が見据える燕の未来について熱弁していた。彼は燕王に恩があり、誰よりも近く燕王を輔弼し、長年、武力で圧力をかけてくる斉に屈しない、強い国に燕を変えたいと語っていた。蘇兄弟も彼が放つ熱意に心を打たれ、感極まって涙を流した。燕は兄の蘇秦が命を懸けて、
仕えた国であるからだ。
しかし、子之が放っていた熱意は真のものだったのだろか。世には己が思っている以上に、自己韜晦の巧い者がいる。そういう者にとって、人を欺き、利用することなど造作もない。
姫平は燕を去る間際、蘇兄弟が子之に篭絡されたせいで、国は荒れると断言していた。その時は、うつけと揶揄される庶子の戯言だと聞き流していた。蘇兄弟も姫平同様に、今は薛から出ることを許されていない。そして、一帯に緘口令が敷かれているかのように、燕の情勢は聞こえてこない。燕はどうなっているのだろうか。もし姫平の云う通りなのだとしたら、彼は真の炯眼の持ち主であり、己達はとんだ愚か者ということになる。思惟が巡り、沈思が胸を満たす。
その時である。俄かに館の外が騒がしくなった。馬蹄の響きと鉄器の独特の音がする。
「何事だ?」
蘇厲が腰を上げる。
やがて、館の門が荒々しく開き、斧鉞を携えた兵士達が続々と中庭へと入ってくる。その数ざっと三十。物々しい雰囲気に、酔眼朦朧としていた男達の酔いが冷めていく。兵士達は酔漢達を無視して、姫平と田文を囲む。だが、兵士が向ける矛先は、全て姫平一人に向けられている。
「之はどういう料簡だ。この館が誰のものであるか知らぬ訳ではあるまい」
毅然と兵士達に言い放つ田文であるが、狼狽ぶりは隠せていない。
「料簡も何もない。わし自身が庶子平を捕えるように、この者達に命じたのだ」
兵士達がつくる輪を割って、赩冠を被った男が姿を見せる。
「父上!」
田文が怨顔を向けたのは、斉の宰相田嬰であった。空疎な眼差しが、息子を捉える。
「姫平殿を捕えるとはどういうことでしょうか?」
平静を努めているが、田文の言葉の端々には怒りが滲み出ている。
「言葉通りの意味だが」
短く田嬰が告げる。声音からは、息子に対する情愛のようなものは感じない。
「理由もなく姫平殿を捕えるなど承服しかねます」
瞬間。田嬰の眦が開き、握りしめた拳を田文に向かって振り下ろした。鈍い音と短い悲鳴と共に、田文が膝をつく。
「賤しい女の餓鬼が!目けてやれば図に乗りおって!」
怒号は中庭一帯に谺する。田文の鼻から血が滴っている。
「おい。何だ、その言い草は。こいつはお前の実の息子だろうが」
田文を守るように、姫平が決然と田嬰と向かい、蛇蝎蛇蝎を見るかの如く睨み付けた。その動きに合わせて、兵士達は矛先を変える。しかし、田嬰と睨み合う姫平は、微動だにしない。
「馬鹿息子め。うつけに絆されおって」
田嬰は唾棄するように放った。
「訂正しろよ、じじい。俺はな、お前のように胤を撒くだけ撒いて、自分の餓鬼を蔑ろにする男が大嫌いなんだよ!」
常に飄然としている姫平が髪を逆立て、天地を裂くほどの怒気を放った。あまりの迫力に兵士達は後ずさる。だが、流石、一国の宰相である。田嬰は怒気を直で受けても、表情一つ変えない。眼差しには冷酷無比な、昏い翳を湛えている。
「今すぐ貴様の首を刎ねてやりたいが、大王がお許しにならない。だが、覚悟しろ、小僧。貴様に人質としての価値がなくなれば、わし自ら膾に斬り刻んでくれる」
一拍を置いて、
「目障りだ。今すぐこの生意気な小僧を檻の中に放り込め」
田嬰の合図で、兵士達が一斉に動く。
「父上!」
既に田嬰は踵を返している。
「虜囚が本来の役目を果たす時が来たのだ」
と怜悧に告げて、田嬰は去って行った。
その後、兵士に打ち据えられ、気を失った姫平が運ばれていく。田文、蘇兄弟は呆然と見送ることしかできなかった。
春が闌け、薛にある田文の館には、桜の木に満開の花が咲き乱れている。清籟が吹き抜ければ、鮮やかな桃色に天空が染まる。
温かな陽気に包まれた、館の中庭では昼間から酒盛りが行われ、二十名を超える酔漢達が車座になり、投壺の技を競い合う二人の若者に声援を送っている。
二つの壺が宴の場から少し離れた場に置かれ、二十歩ほど距離を取って、二人の青年が直線状にある壺を睨んでいる。彼等の手には一本の矢。一人は酔漢達に利星と呼ばれる青年。もう一人は、この館の主人の田文である。二人の表情は真剣そのもので、喧噪など耳に入っていない様子である。
「この一本で勝負が決まりますな。兄上」
蘇厲が一気に椀の酒を飲み干し言った。
蘇代、蘇厲兄弟は中庭の隅にある、四阿で二人の対決を見守っていた。
十本中共に九本の矢が壺に入っている。つまり、この一本で勝敗の行方が決まる。共に矢を壺の中に入れることが出来れば、同点であるし、どちらかが外せば、当然一方が敗者となる。
蘇代は答えず、固唾を飲む。常人には分からないだろう。二人から放たれる凄味が。投壺は所詮、娯楽の一種に過ぎない。だが、姫平、田文共に並の負けず嫌いではない。まるで命のやりとりをしているかのような緊迫感を肌で感じる。
蘇代は最後の一投に刮目した。
両者同時に振りかぶり、矢を投げる。放たれた矢が綺麗な曲線を描き、壺の口に吸い込まれるようにして、向かっていく。
(引き分けか)と思った刹那、姫平の投げた矢が壺の口に当たり、渇いた音を立てた。
「あっ」思わず声が漏れる。
田文の矢は壺にすっぽりとおさまっていた。
田文は感情を爆発させ、歓喜の雄叫びを上げた。欣喜雀躍の様相である。一方、姫平は心根から悔しがっているのだろう。切歯扼腕している。
酔漢達が彼等の健闘を讃えると、姫平は苦笑し、莞爾として笑う田文の背を叩いた。
「田文殿も随分と御変わりになられた。出逢った頃は、貼り付けたような笑みを浮かべる、何処か冷めた感じのする少年だったが」
蘇厲が甕から酒を注ぎながら言った。
「王子が田文殿の心を開いたのだ」
複雑な想いを噛み締めながら、蘇代は親友となった、二人の青年を見つめた。
四年前―。斉と燕の講和は成った。だが、所詮は弥縫策に過ぎない。天下の情勢はめまぐるしく動いている。特に西は淵藪となり、各国が昇竜の如き勢いで版図を拡げる、秦に対して大規模な軍事行動を起こしている。
趙の武霊王が盟主となり、趙、韓、魏、燕、楚の五か国合従が締結し、五十万以上の大軍勢で秦に迫った。之に対して、秦は西の玄関口とも云える天嶮の要塞である、函谷関で迎え撃った。
五か国から成る合従軍は、難攻不落の函谷関を前に成す術なく、呆気なく軍を退いた。戦巧者として、名高い武霊王は敗戦に悲憤慷慨し、王を名乗る資格はないとして、王号を取り下げるまでに至った。
しかし、武霊王はこの戦で、従来の戦に変革を齎した。武霊王は精兵一万に、これまで野蛮なる戦法とされていた胡服騎射を叩き込んだ。
彼は自ら北方の胡族の元まで赴き、礼を尽くし、麾下の為に胡服騎射の師を招聘したのである。従来の戦は、御者、槍兵、弓兵の三人が乗った戦車と大勢の歩兵を主とする戦の有り様だった。
胡族は軍に規律というものを持ち合わせていない。窮地に陥れば、体面など考えずに背を向けて逃げ出す。だが、武霊王は蛮族の技に、規律と統率を持つ、無敵の騎馬隊を創成した。
敗戦の鬱憤を晴らすように、北へと自ら軍を率いた武霊王は、林胡、楼煩と云った遊牧民族に撃ち勝ち、悉く勢力下においている。武霊王は天下に統率を持った、騎馬隊の有能性を示した。だが、其れよりも早く、姫平は自ら胡服を纏い、自身の麾下に胡服騎射を叩き込んでいた。武霊王より早くに、しかも若く蛮族の技に将来性を見出していた、姫平には先見の明がある。
此度は秦の東進を阻む為、趙を中心として、五か国が手を結んだが、今日の味方が明日の敵となる争乱の時代である。燕と斉の講和が、烏有に帰す可能性もある。斉の宣王は、北地を諦めた訳ではない。時宜を得れば、躊躇なく大軍を、燕に差し向けるだろう。その時、人質である姫平はー。
武霊王を凌ぐ開明的な思考を具える、姫平は間違いなく大器であった。宣王に姫平の侍中として仕えるように命じられてからと云うもの、誰よりも近くで彼を見てきた、今だからこそ分かる。思惟を巡らせるほどに暗澹とした心地にある。今、蘇代は深い後悔を覚えている。
「私はとんでもない過ちを犯してしまったのかもしれない」
「兄上?」
頬を赤く染めた蘇厲が、苦悶に顔を歪ませる兄を覗き見た。
「王子は燕に留まるべきであった。易王―。そして、護国の剣が正しかったのだ」
蘇代の声は悔恨で震えていた。見遣った蘇厲が姿勢を正し、椀を腰掛ける榻に置く。
「確かに王子は大器を具えておられます。しかしー」
蘇厲が言葉を濁す。
「庶子に過ぎませぬ。子之殿の仰る通り、王位を継ぐに相応しい資格をお持ちになるのは、公子職殿です。私は至当であったと思いますが」
蘇代の眉間に皺が寄る。今になって、巨大な不安が胸の裡で渦を巻く。
「私達は子之殿の器量を見誤っていたのかもしれん」
「何を申されます。子之は誠実な御方。赤心より社稷の安寧を願い、政務を放擲した燕王の代わりに、百官を見事に導いておられたではありませんか」
赭顔の蘇厲が、鬼気を漲らせて反駁する。
「だが、我々は王子と同様に、子之殿のことも良く理解していなかった。饗応に招かれ、数える程度しか顔を突き合わせていない」
蘇厲の云う通り、子之は清廉潔白な青年に見えた。饗応に招かれた日は、蘇兄弟と共に、燕に仕える臣下の一人として、その志を朝まで語り合った。
彼は熱情を迸らせながら、自身が見据える燕の未来について熱弁していた。彼は燕王に恩があり、誰よりも近く燕王を輔弼し、長年、武力で圧力をかけてくる斉に屈しない、強い国に燕を変えたいと語っていた。蘇兄弟も彼が放つ熱意に心を打たれ、感極まって涙を流した。燕は兄の蘇秦が命を懸けて、
仕えた国であるからだ。
しかし、子之が放っていた熱意は真のものだったのだろか。世には己が思っている以上に、自己韜晦の巧い者がいる。そういう者にとって、人を欺き、利用することなど造作もない。
姫平は燕を去る間際、蘇兄弟が子之に篭絡されたせいで、国は荒れると断言していた。その時は、うつけと揶揄される庶子の戯言だと聞き流していた。蘇兄弟も姫平同様に、今は薛から出ることを許されていない。そして、一帯に緘口令が敷かれているかのように、燕の情勢は聞こえてこない。燕はどうなっているのだろうか。もし姫平の云う通りなのだとしたら、彼は真の炯眼の持ち主であり、己達はとんだ愚か者ということになる。思惟が巡り、沈思が胸を満たす。
その時である。俄かに館の外が騒がしくなった。馬蹄の響きと鉄器の独特の音がする。
「何事だ?」
蘇厲が腰を上げる。
やがて、館の門が荒々しく開き、斧鉞を携えた兵士達が続々と中庭へと入ってくる。その数ざっと三十。物々しい雰囲気に、酔眼朦朧としていた男達の酔いが冷めていく。兵士達は酔漢達を無視して、姫平と田文を囲む。だが、兵士が向ける矛先は、全て姫平一人に向けられている。
「之はどういう料簡だ。この館が誰のものであるか知らぬ訳ではあるまい」
毅然と兵士達に言い放つ田文であるが、狼狽ぶりは隠せていない。
「料簡も何もない。わし自身が庶子平を捕えるように、この者達に命じたのだ」
兵士達がつくる輪を割って、赩冠を被った男が姿を見せる。
「父上!」
田文が怨顔を向けたのは、斉の宰相田嬰であった。空疎な眼差しが、息子を捉える。
「姫平殿を捕えるとはどういうことでしょうか?」
平静を努めているが、田文の言葉の端々には怒りが滲み出ている。
「言葉通りの意味だが」
短く田嬰が告げる。声音からは、息子に対する情愛のようなものは感じない。
「理由もなく姫平殿を捕えるなど承服しかねます」
瞬間。田嬰の眦が開き、握りしめた拳を田文に向かって振り下ろした。鈍い音と短い悲鳴と共に、田文が膝をつく。
「賤しい女の餓鬼が!目けてやれば図に乗りおって!」
怒号は中庭一帯に谺する。田文の鼻から血が滴っている。
「おい。何だ、その言い草は。こいつはお前の実の息子だろうが」
田文を守るように、姫平が決然と田嬰と向かい、蛇蝎蛇蝎を見るかの如く睨み付けた。その動きに合わせて、兵士達は矛先を変える。しかし、田嬰と睨み合う姫平は、微動だにしない。
「馬鹿息子め。うつけに絆されおって」
田嬰は唾棄するように放った。
「訂正しろよ、じじい。俺はな、お前のように胤を撒くだけ撒いて、自分の餓鬼を蔑ろにする男が大嫌いなんだよ!」
常に飄然としている姫平が髪を逆立て、天地を裂くほどの怒気を放った。あまりの迫力に兵士達は後ずさる。だが、流石、一国の宰相である。田嬰は怒気を直で受けても、表情一つ変えない。眼差しには冷酷無比な、昏い翳を湛えている。
「今すぐ貴様の首を刎ねてやりたいが、大王がお許しにならない。だが、覚悟しろ、小僧。貴様に人質としての価値がなくなれば、わし自ら膾に斬り刻んでくれる」
一拍を置いて、
「目障りだ。今すぐこの生意気な小僧を檻の中に放り込め」
田嬰の合図で、兵士達が一斉に動く。
「父上!」
既に田嬰は踵を返している。
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