瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

文字の大きさ
25 / 47
偽王

しおりを挟む
 姫平が斉に入って、四年目の春。
 
 春がけ、薛にある田文の館には、桜の木に満開の花が咲き乱れている。清籟せいらいが吹き抜ければ、鮮やかな桃色に天空が染まる。

 温かな陽気に包まれた、館の中庭では昼間から酒盛りが行われ、二十名を超える酔漢達が車座になり、投壺とうこの技を競い合う二人の若者に声援を送っている。

二つの壺が宴の場から少し離れた場に置かれ、二十歩ほど距離を取って、二人の青年が直線状にある壺を睨んでいる。彼等の手には一本の矢。一人は酔漢達に利星と呼ばれる青年。もう一人は、この館の主人の田文である。二人の表情は真剣そのもので、喧噪など耳に入っていない様子である。

「この一本で勝負が決まりますな。兄上」
 蘇厲それいが一気に椀の酒を飲み干し言った。
 
 蘇代そだい、蘇厲兄弟は中庭の隅にある、四阿あずまやで二人の対決を見守っていた。

 十本中共に九本の矢が壺に入っている。つまり、この一本で勝敗の行方が決まる。共に矢を壺の中に入れることが出来れば、同点であるし、どちらかが外せば、当然一方が敗者となる。
 
 蘇代は答えず、固唾を飲む。常人には分からないだろう。二人から放たれる凄味が。投壺は所詮、娯楽の一種に過ぎない。だが、姫平、田文共に並の負けず嫌いではない。まるで命のやりとりをしているかのような緊迫感を肌で感じる。
 
 蘇代は最後の一投に刮目した。
 
 両者同時に振りかぶり、矢を投げる。放たれた矢が綺麗な曲線を描き、壺の口に吸い込まれるようにして、向かっていく。

(引き分けか)と思った刹那、姫平の投げた矢が壺の口に当たり、渇いた音を立てた。

「あっ」思わず声が漏れる。
 田文の矢は壺にすっぽりとおさまっていた。
 
 田文は感情を爆発させ、歓喜の雄叫びを上げた。欣喜雀躍きんきじゃくやくの様相である。一方、姫平は心根から悔しがっているのだろう。切歯扼腕せっしやくわんしている。
 
 酔漢達が彼等の健闘を讃えると、姫平は苦笑し、莞爾として笑う田文の背を叩いた。

「田文殿も随分と御変わりになられた。出逢った頃は、貼り付けたような笑みを浮かべる、何処か冷めた感じのする少年だったが」
 蘇厲が甕から酒を注ぎながら言った。

「王子が田文殿の心を開いたのだ」
 複雑な想いを噛み締めながら、蘇代は親友となった、二人の青年を見つめた。
 
 四年前―。斉と燕の講和は成った。だが、所詮は弥縫策びぼうさくに過ぎない。天下の情勢はめまぐるしく動いている。特に西は淵藪えんそうとなり、各国が昇竜の如き勢いで版図を拡げる、秦に対して大規模な軍事行動を起こしている。
 
 趙の武霊王ぶれいおうが盟主となり、趙、韓、魏、燕、楚の五か国合従が締結し、五十万以上の大軍勢で秦に迫った。之に対して、秦は西の玄関口とも云える天嶮の要塞である、函谷関で迎え撃った。

五か国から成る合従軍は、難攻不落の函谷関かんこくかんを前に成す術なく、呆気なく軍を退いた。戦巧者として、名高い武霊王は敗戦に悲憤慷慨ひふんこうがいし、王を名乗る資格はないとして、王号を取り下げるまでに至った。
 
しかし、武霊王はこの戦で、従来の戦に変革を齎した。武霊王は精兵一万に、これまで野蛮なる戦法とされていた胡服騎射きふくきしゃを叩き込んだ。

彼は自ら北方の胡族こぞくの元まで赴き、礼を尽くし、麾下の為に胡服騎射の師を招聘したのである。従来の戦は、御者、槍兵、弓兵の三人が乗った戦車と大勢の歩兵を主とする戦の有り様だった。
胡族は軍に規律というものを持ち合わせていない。窮地に陥れば、体面など考えずに背を向けて逃げ出す。だが、武霊王は蛮族の技に、規律と統率を持つ、無敵の騎馬隊を創成した。

 敗戦の鬱憤を晴らすように、北へと自ら軍を率いた武霊王は、林胡りんこ楼煩ろうはんと云った遊牧民族に撃ち勝ち、悉く勢力下においている。武霊王は天下に統率を持った、騎馬隊の有能性を示した。だが、其れよりも早く、姫平は自ら胡服を纏い、自身の麾下に胡服騎射を叩き込んでいた。武霊王より早くに、しかも若く蛮族の技に将来性を見出していた、姫平には先見の明がある。

 此度は秦の東進を阻む為、趙を中心として、五か国が手を結んだが、今日の味方が明日の敵となる争乱の時代である。燕と斉の講和が、烏有に帰す可能性もある。斉の宣王は、北地を諦めた訳ではない。時宜を得れば、躊躇なく大軍を、燕に差し向けるだろう。その時、人質である姫平はー。

武霊王を凌ぐ開明的な思考を具える、姫平は間違いなく大器であった。宣王に姫平の侍中として仕えるように命じられてからと云うもの、誰よりも近くで彼を見てきた、今だからこそ分かる。思惟を巡らせるほどに暗澹とした心地にある。今、蘇代は深い後悔を覚えている。

「私はとんでもない過ちを犯してしまったのかもしれない」

「兄上?」
 頬を赤く染めた蘇厲が、苦悶に顔を歪ませる兄を覗き見た。

「王子は燕に留まるべきであった。易王えきおう―。そして、護国の剣が正しかったのだ」
 蘇代の声は悔恨で震えていた。見遣った蘇厲が姿勢を正し、椀を腰掛ける榻に置く。

「確かに王子は大器を具えておられます。しかしー」
 蘇厲が言葉を濁す。

「庶子に過ぎませぬ。子之しし殿の仰る通り、王位を継ぐに相応しい資格をお持ちになるのは、公子しょく殿です。私は至当であったと思いますが」
 蘇代の眉間に皺が寄る。今になって、巨大な不安が胸の裡で渦を巻く。

「私達は子之殿の器量を見誤っていたのかもしれん」

「何を申されます。子之は誠実な御方。赤心より社稷の安寧を願い、政務を放擲した燕王の代わりに、百官を見事に導いておられたではありませんか」
 赭顔しゃがんの蘇厲が、鬼気を漲らせて反駁する。

「だが、我々は王子と同様に、子之殿のことも良く理解していなかった。饗応に招かれ、数える程度しか顔を突き合わせていない」
 蘇厲の云う通り、子之は清廉潔白な青年に見えた。饗応に招かれた日は、蘇兄弟と共に、燕に仕える臣下の一人として、その志を朝まで語り合った。

 彼は熱情を迸らせながら、自身が見据える燕の未来について熱弁していた。彼は燕王に恩があり、誰よりも近く燕王を輔弼し、長年、武力で圧力をかけてくる斉に屈しない、強い国に燕を変えたいと語っていた。蘇兄弟も彼が放つ熱意に心を打たれ、感極まって涙を流した。燕は兄の蘇秦が命を懸けて、
仕えた国であるからだ。

しかし、子之が放っていた熱意は真のものだったのだろか。世には己が思っている以上に、自己韜晦の巧い者がいる。そういう者にとって、人を欺き、利用することなど造作もない。

 姫平は燕を去る間際、蘇兄弟が子之に篭絡されたせいで、国は荒れると断言していた。その時は、うつけと揶揄される庶子の戯言だと聞き流していた。蘇兄弟も姫平同様に、今は薛から出ることを許されていない。そして、一帯に緘口令かんこうれいが敷かれているかのように、燕の情勢は聞こえてこない。燕はどうなっているのだろうか。もし姫平の云う通りなのだとしたら、彼は真の炯眼の持ち主であり、己達はとんだ愚か者ということになる。思惟が巡り、沈思が胸を満たす。

 その時である。俄かに館の外が騒がしくなった。馬蹄の響きと鉄器の独特の音がする。

「何事だ?」
  蘇厲が腰を上げる。
 
 やがて、館の門が荒々しく開き、斧鉞ふえつを携えた兵士達が続々と中庭へと入ってくる。その数ざっと三十。物々しい雰囲気に、酔眼朦朧すいがんもうろうとしていた男達の酔いが冷めていく。兵士達は酔漢達を無視して、姫平と田文を囲む。だが、兵士が向ける矛先は、全て姫平一人に向けられている。

「之はどういう料簡だ。この館が誰のものであるか知らぬ訳ではあるまい」
 毅然と兵士達に言い放つ田文であるが、狼狽ぶりは隠せていない。

「料簡も何もない。わし自身が庶子平を捕えるように、この者達に命じたのだ」
 兵士達がつくる輪を割って、赩冠かくかんを被った男が姿を見せる。

「父上!」
 田文が怨顔を向けたのは、斉の宰相田嬰でんえいであった。空疎な眼差しが、息子を捉える。

「姫平殿を捕えるとはどういうことでしょうか?」
 平静を努めているが、田文の言葉の端々には怒りが滲み出ている。

「言葉通りの意味だが」
 短く田嬰が告げる。声音からは、息子に対する情愛のようなものは感じない。

「理由もなく姫平殿を捕えるなど承服しかねます」
 瞬間。田嬰の眦が開き、握りしめた拳を田文に向かって振り下ろした。鈍い音と短い悲鳴と共に、田文が膝をつく。

「賤しい女の餓鬼が!目けてやれば図に乗りおって!」
 怒号は中庭一帯に谺する。田文の鼻から血が滴っている。

「おい。何だ、その言い草は。こいつはお前の実の息子だろうが」
 田文を守るように、姫平が決然と田嬰と向かい、蛇蝎だかつ蛇蝎を見るかの如く睨み付けた。その動きに合わせて、兵士達は矛先を変える。しかし、田嬰と睨み合う姫平は、微動だにしない。

「馬鹿息子め。うつけにほだされおって」
 田嬰は唾棄するように放った。

「訂正しろよ、じじい。俺はな、お前のようにたねを撒くだけ撒いて、自分の餓鬼を蔑ろにする男が大嫌いなんだよ!」
 常に飄然としている姫平が髪を逆立て、天地を裂くほどの怒気を放った。あまりの迫力に兵士達は後ずさる。だが、流石、一国の宰相である。田嬰は怒気を直で受けても、表情一つ変えない。眼差しには冷酷無比な、昏い翳を湛えている。

「今すぐ貴様の首を刎ねてやりたいが、大王がお許しにならない。だが、覚悟しろ、小僧。貴様に人質としての価値がなくなれば、わし自らなますに斬り刻んでくれる」
 一拍を置いて、

「目障りだ。今すぐこの生意気な小僧を檻の中に放り込め」
 田嬰の合図で、兵士達が一斉に動く。

「父上!」
 既に田嬰は踵を返している。

「虜囚が本来の役目を果たす時が来たのだ」
 と怜悧に告げて、田嬰は去って行った。
 
 その後、兵士に打ち据えられ、気を失った姫平が運ばれていく。田文、蘇兄弟は呆然と見送ることしかできなかった。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

処理中です...