37 / 47
破燕
六
しおりを挟む
王の居室で、子之は鹿毛寿が齎した報せに耳を疑った。
「其れは本当か?」
相変わらず噎せ返るほど香が焚かれている。香炉から絶え間なく出る白煙に、居室内は曇って見えるほどである。
「はい。あの騒ぎの中、数人の兵士が確かに目撃したと申しておりまして」
鹿毛寿は視線を背けたくなるほど醜い顔を嬉々と歪めている。
「潜伏先は?」
子之の声は弾んでいる。裡に潜む餓狼が、唸り声を上げている。次の獲物を見つけ、ご満悦のようだ。あの巨きな獲物を喰らえば、この餓狼も飢えと渇きを満たし、己も永劫と熄むことのない苦痛から解放されるかもしれない。
「目障りな夜兎党が匿い、潜伏先は数か所に分けているようですが、大方目途はついております」
早急に兵を向かせますか?と鹿毛寿は問う。子之は思惟を巡らせた。どのように斉から脱出して来たのか分からないが、あの男のことだ。下手に手を打てば、逃げられる可能性がある。
「ふむ。公子職はやはり陽動であったか」
何処かきな臭さを感じていた。たったの三万の兵力で、十万を越える大軍勢に抗おうなど、土台無理な話であった。捨て鉢かと思ったが、やはり裏はあった。ならば、西の戦いは捨て置いて問題はない。そう刻をかけずとも、公子職の軍は壊滅する。
如何なさいますか?と 鹿毛寿が重ねて問う。
「面白いことを思いついた」
神妙な顔の鹿毛寿を手招きし、耳語する。鹿毛寿が欠けた歯を露わにし、醜悪に笑った。
「御神知で御座います。大王様」
「直ぐに探し出せるか?」
揖の礼をとった、鹿毛寿は手配致しましょうと、ほくそ笑みながら答えた。
退出する鹿毛寿の背を見ながら、手を叩いて侍中を呼んだ。
「あの男の元へ行く。支度せよ」
と告げた。
後宮の地下に、子之が作らせた地下牢がある。臣下の者達は、己が後宮にある寝所で女に胤を撒くことに励んでいると思っていることだろう。だが、子を成せない、己にとって後宮の存在は無価値に等しい。胤を残せない王は、為政者として相応しくないと云える。血の継承が途絶えれば、社稷も同じく絶える。だが、己にこの国の未来を憂う想いは微塵もない。己が死んだ後の未来などどうでもいい。
元々、子を成せない呪われた躰なのである。
手燭を掲げた宦官が先に、地下へと続く階段を降りていく。灯りが足許を照らす。手燭の灯りがなければ、地下室は一条の光も届かない暗黒に包まれる。階段を一段と降りる度に、じめりとした空気が這い上がり、腥い臭気を運んでくる。
「さがれ」
階段を降り終えると、手燭を奪い取り、宦官に冷たく告げた。
灯りに照らされた宦官の顔色は土気色に変わっている。血が腐ったような臭気にあてられたのであろう。御意と告げて、宦官は逃げるように階段を駆け上がって行く。
子之は一人になると、胸いっぱいに腥い空気を肺に送り込んだ。この匂いが好きだった。鼻腔にしつこく纏わりつく香気より、遥かに良い。子之は磚の床を踏みしめて、檻が並ぶ、地下室を歩く。檻は数にして十。突き当りに面する檻に、あの男はいる。立ち止まり、手燭を持ち上げ、灯りで檻の奥を照らす。
「んー。んー」
とこもった叫び声が轟く。懐から檻の鍵を取り出し、慣れた手つきで開ける。檻の中に入ると、更に血の臭気は強くなった。
「気分はどうだ?」
四肢を鎖に繋がれ、四つん這いで這いつくばる、かつての燕王噲の姿があった。彼は一糸も纏わず、汚穢に塗れている。
「んー。んー」
鎖が鳴り、彼は四つん這いのまま、子之の足許まで駆け付けてくる。さながら、調教された狗のようだ。
「面白いことを教えてやろう」
子之は膝を曲げ、哀れな先王に視線を合わせた。
「貴様の子、平が斉から逃れ、この国を取り戻す為、都に戻ってきている」
力任せに姫噲の頬を鷲掴む。開かれた口を覘くと、其処にあるべき舌がない。
「貴様の縁者を悉く消し去ってやろうと思ったが、奴が起こした騒ぎのせいで取り逃がしてしまった。だが、まぁいい。おかげで一番憎い獲物がかかった」
失くした右耳の傷が疼いた。
「私は今日、頗る気分がいい」
乱暴に掴んだ頬を離し、立ち上がる。
「貴様の態度次第で、今日の所は許してやってもいい」
酷笑を浮かべ言うと、姫噲は狗のようにくるりとその場で一周し、穢れた顔を絹の沓に擦りつけた。登り詰める為に操を捧げた、哀れな男の変わり果てた姿は、飢餓状態にある心を慰めてくれる。こうして自尊心を満たしている間だけは、裡の餓狼は息を潜める。
だがー。同時に虚しい怒りも沸々と込み上げてくる。己はこの程度の男に諂諛し、人としての誇りも捧げてしまったのか。姫噲は荒く息をし、許しを乞うように、子之を仰ぎ見た。
「いや、よそう。気分を害した」
姫噲の顔が絶望に染まる。涎を垂らし、甘えるように擦り寄ってくる。
「目障りだ!」
蹴り上げる。
甲高い悲鳴が上がり、姫噲は檻の隅で震えている。
「貴様、捨てた己の子が助けにくれるとつまらぬ希望を抱いたな」
蓬髪を振り乱し、姫噲は否定する。子之は構わず、彼に詰め寄り、懐から笞を取り出した。
狂気に染まった赤い眦を見開き、笞を撓らせる。
「お仕置きだ。たっぷりと痛めつけてやる」
笞の撓る音と悲鳴が、隔絶された地下牢に響き渡る。
皮膚の裂ける音。弾ける血飛沫が、己を陶酔させる。子之の高笑いは、払暁の時まで熄むことはなかった。
「其れは本当か?」
相変わらず噎せ返るほど香が焚かれている。香炉から絶え間なく出る白煙に、居室内は曇って見えるほどである。
「はい。あの騒ぎの中、数人の兵士が確かに目撃したと申しておりまして」
鹿毛寿は視線を背けたくなるほど醜い顔を嬉々と歪めている。
「潜伏先は?」
子之の声は弾んでいる。裡に潜む餓狼が、唸り声を上げている。次の獲物を見つけ、ご満悦のようだ。あの巨きな獲物を喰らえば、この餓狼も飢えと渇きを満たし、己も永劫と熄むことのない苦痛から解放されるかもしれない。
「目障りな夜兎党が匿い、潜伏先は数か所に分けているようですが、大方目途はついております」
早急に兵を向かせますか?と鹿毛寿は問う。子之は思惟を巡らせた。どのように斉から脱出して来たのか分からないが、あの男のことだ。下手に手を打てば、逃げられる可能性がある。
「ふむ。公子職はやはり陽動であったか」
何処かきな臭さを感じていた。たったの三万の兵力で、十万を越える大軍勢に抗おうなど、土台無理な話であった。捨て鉢かと思ったが、やはり裏はあった。ならば、西の戦いは捨て置いて問題はない。そう刻をかけずとも、公子職の軍は壊滅する。
如何なさいますか?と 鹿毛寿が重ねて問う。
「面白いことを思いついた」
神妙な顔の鹿毛寿を手招きし、耳語する。鹿毛寿が欠けた歯を露わにし、醜悪に笑った。
「御神知で御座います。大王様」
「直ぐに探し出せるか?」
揖の礼をとった、鹿毛寿は手配致しましょうと、ほくそ笑みながら答えた。
退出する鹿毛寿の背を見ながら、手を叩いて侍中を呼んだ。
「あの男の元へ行く。支度せよ」
と告げた。
後宮の地下に、子之が作らせた地下牢がある。臣下の者達は、己が後宮にある寝所で女に胤を撒くことに励んでいると思っていることだろう。だが、子を成せない、己にとって後宮の存在は無価値に等しい。胤を残せない王は、為政者として相応しくないと云える。血の継承が途絶えれば、社稷も同じく絶える。だが、己にこの国の未来を憂う想いは微塵もない。己が死んだ後の未来などどうでもいい。
元々、子を成せない呪われた躰なのである。
手燭を掲げた宦官が先に、地下へと続く階段を降りていく。灯りが足許を照らす。手燭の灯りがなければ、地下室は一条の光も届かない暗黒に包まれる。階段を一段と降りる度に、じめりとした空気が這い上がり、腥い臭気を運んでくる。
「さがれ」
階段を降り終えると、手燭を奪い取り、宦官に冷たく告げた。
灯りに照らされた宦官の顔色は土気色に変わっている。血が腐ったような臭気にあてられたのであろう。御意と告げて、宦官は逃げるように階段を駆け上がって行く。
子之は一人になると、胸いっぱいに腥い空気を肺に送り込んだ。この匂いが好きだった。鼻腔にしつこく纏わりつく香気より、遥かに良い。子之は磚の床を踏みしめて、檻が並ぶ、地下室を歩く。檻は数にして十。突き当りに面する檻に、あの男はいる。立ち止まり、手燭を持ち上げ、灯りで檻の奥を照らす。
「んー。んー」
とこもった叫び声が轟く。懐から檻の鍵を取り出し、慣れた手つきで開ける。檻の中に入ると、更に血の臭気は強くなった。
「気分はどうだ?」
四肢を鎖に繋がれ、四つん這いで這いつくばる、かつての燕王噲の姿があった。彼は一糸も纏わず、汚穢に塗れている。
「んー。んー」
鎖が鳴り、彼は四つん這いのまま、子之の足許まで駆け付けてくる。さながら、調教された狗のようだ。
「面白いことを教えてやろう」
子之は膝を曲げ、哀れな先王に視線を合わせた。
「貴様の子、平が斉から逃れ、この国を取り戻す為、都に戻ってきている」
力任せに姫噲の頬を鷲掴む。開かれた口を覘くと、其処にあるべき舌がない。
「貴様の縁者を悉く消し去ってやろうと思ったが、奴が起こした騒ぎのせいで取り逃がしてしまった。だが、まぁいい。おかげで一番憎い獲物がかかった」
失くした右耳の傷が疼いた。
「私は今日、頗る気分がいい」
乱暴に掴んだ頬を離し、立ち上がる。
「貴様の態度次第で、今日の所は許してやってもいい」
酷笑を浮かべ言うと、姫噲は狗のようにくるりとその場で一周し、穢れた顔を絹の沓に擦りつけた。登り詰める為に操を捧げた、哀れな男の変わり果てた姿は、飢餓状態にある心を慰めてくれる。こうして自尊心を満たしている間だけは、裡の餓狼は息を潜める。
だがー。同時に虚しい怒りも沸々と込み上げてくる。己はこの程度の男に諂諛し、人としての誇りも捧げてしまったのか。姫噲は荒く息をし、許しを乞うように、子之を仰ぎ見た。
「いや、よそう。気分を害した」
姫噲の顔が絶望に染まる。涎を垂らし、甘えるように擦り寄ってくる。
「目障りだ!」
蹴り上げる。
甲高い悲鳴が上がり、姫噲は檻の隅で震えている。
「貴様、捨てた己の子が助けにくれるとつまらぬ希望を抱いたな」
蓬髪を振り乱し、姫噲は否定する。子之は構わず、彼に詰め寄り、懐から笞を取り出した。
狂気に染まった赤い眦を見開き、笞を撓らせる。
「お仕置きだ。たっぷりと痛めつけてやる」
笞の撓る音と悲鳴が、隔絶された地下牢に響き渡る。
皮膚の裂ける音。弾ける血飛沫が、己を陶酔させる。子之の高笑いは、払暁の時まで熄むことはなかった。
0
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる