楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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平原君 

 三

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 田単は世話になった、宿舎の主人に丁重に礼を述べると、荷物で膨れ上がった行李を背負い、通りへと出た。
 
 結果、田単の逗留とうりゅうは二ヶ月続いた。元々、一か月程度の目途であったが、想像より遥かに邯鄲は見るべき所が多かった。
 
 後は、楽毅、司馬炎、魏竜といった、旅の最中で出逢った、友との別れが名残惜しかったのもある。旅の資金は、楽毅が平原君に取り次いでくれたおかげ、潤沢に残っていた。趙と斉は断交状態にあるが、田単自身は、趙という国。其処に住まう人々のことが、心から好きになっていた。

 邯鄲の城郭内は、普段と違う喧噪に包まれていた。
 具足を纏った、兵士達がひっきりなしに往来し、大通りでは荷馬車がながえをぶつけ合うほどに渋滞している。

「まだ居たのか?」
 人の波を縫って、具足姿の楽毅が現れた。腰には鵬の装飾を施された、煌びやかな剣を佩いている。柄に填め込まれた翡翠が、天上から降り注ぐ、蒼光を受けて、流星の如く明滅する。

「もう行くのですね」

「ああ」

「ご武運を」

「俺のことなどいい。お前は一刻も早く趙を去れ。此処も安全とは言い切れん」

「合従軍は西へ向かうのでしょう?」
 楽毅は何かを言おうとしたが、直ぐに口を噤んだ。

「之は忠告だ。趙に留まること。それと、北の沙丘さきゅう方面に向かうのは、やめておけ」
 沙丘と言えば、趙の離宮がある地域である。合従戦は秦を共敵としたものであり、戦端が開かれるとしたら、遥か西方であるはずだが。
 
 楽毅の口調は切迫したものだった。田単はだくと答えるしかなかった。

「田単」
 楽毅の火照りを宿した、手が田単の肩に置かれる。

「達者でな」
 悲しいほどに切なげな微笑だった。
 東垣の地で、初めて楽毅に会った時の眼を思い出す。

「楽毅殿」
 長身の楽毅を仰ぐ。

(これは言うべきではないのかもしれない)
 それでもー。此処に留まっていては、彼は永久に己への責難を続けることなる。悲しい生き方だ。



「貴方に地を這うような生き方は似合わない」
 勁い眼だった。
 
 楽毅の内に蟠る、慚愧の念を撃ち抜くような。
 だが。己に運命を選択できる権利はない。自由を許されているが、虜囚であることに変わりはないのだ。
 鳥が啼く。灰色の空を悠揚と翔けていく。田単の眸には、空が蒼く映っているに違いない。

「さらばだ」
 逃げるように背を向けた。

(お前と俺は違う)
 雑踏の中で足を止め、小さく告げる。

「お前は俺のようになるな。死んでも大事なものを守り抜け」
 立ち竦む田単から視線を薙ぎ、楽毅は人込みの中へと溶け込んで行った。

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