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空を求めて
五
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鳥獣宛の一角で、饗応が開かれた。
人工の草原に、赤い毛氈が敷かれ、魏王が酒肴を命じると、次々の豪勢な料理が運ばれてくる。酌を進めてくれるのは、魏王の寵愛が厚い妃妾である。
「よくぞ参られた。蘇先生」
数杯しか飲んでいないが、魏王は酔眼朦朧としている。
「之も貴国と燕の友好の為。たとえ千里の道のりであったとしても、苦など感じませぬ」
「おう。それは何より」
相当に酔いが回っているようで、うまく呂律は回っていない。
それでも、上機嫌だということは分かる。
早く本題に入りたかったが、魏王がこの調子では、今日は無理だろう。
蘇代が仕える、燕は七雄の中でも、最北に位置している。
それ故、北地で跳梁する、匈奴を始めたとした蛮族から、国境を侵されることも多く、文明の華が咲き乱れる、中原諸国より一歩出遅れている感がある。
また、燕内で内乱があった折に、斉の侵攻によって、一度滅亡の危機に瀕している。現今の燕王。昭王が王として践祚し、富国強兵策に血道を上げ、国力を回復さしめた。
だが、軍事力も国力も、諸国と同等なものを有しているかと問われれば、そうではない。斉は燕を、付庸国として扱い、朝貢を強いている。
燕の昭王にとって、内乱に乗じて、一族を悉く葬り去った、斉は怨敵である。しかし、斉の強圧的な支配に、敢然と反攻する力は、燕にはまだない。だからこそ、昭王は血反吐を吐く想いで、斉の隷属に耐えている。
目下、燕の悲願は、強国斉の支配からの脱却。そして、燕土を灰燼と帰した、斉への復讐である。故に蘇代は、魏に限らず、舌峰を武器に、諸国を渡り歩いている。
蘇代は、兄の蘇秦が締結させた、六か国合従を再び成そうとしている。蘇秦が秦以外の六か国を渡り、各国の宰相として迎え入れられ、秦の東進を数年間も阻んだ。
当時の敵は秦であった。今も秦は強盛であるが、蘇代は燕に仕えている。
王の悲願が、斉を伐つことにあるならば、この舌先を遣って、再び斉を除いての合従を現実のものとして、齎すのが臣下の務めである。
元来、説客には信義がないといわれることが多い。実際、戦国時代では、人口に膾炙する、紛れもない真実である。
武官のように忠義を尽くさず、高い禄を払い、重用してくれる、主君の元で弁舌を振るう。しかし、蘇代は違う。燕王の器量に、芯根から惚れ込んでいるのだ。目先の悲願は、斉への復讐。
言い換えれば、斉の桎梏から、燕の民草を解き放つ、#匡救事業__きょうきゅうじぎょう__である。
だが、燕王はその程度の悲願を叶え、終わる男ではない。
彼には天下を統べるだけの王器がある。
兄の蘇秦が、生前、趙の粛候に説いた言葉がある。
「名君は疑惑を絶ち、讒言を去り、流言の道を除き、朋党の門をふさぐ」
燕王は蘇秦の言葉を、体現したような男なのである。
蘇代は信じている。王の可能性を。
故に身命を賭して、蘇代は燕王に忠義を尽くしているのだ。
「大王様。さきほどの入れ違いになった御仁は?」
酩酊状態の魏王に、軽く水を向ける。
未だあの蒼き具足を纏った、青年に興味を喚起している。
「楽毅のことですな」
馴染みのない名であった。
だか、楽毅という青年から、漲っていた覇気は、勇者の其れであった。
「父祖文候に仕えた、楽羊の末裔ですよ」
「あの楽羊ですか」
中山攻略の際に、赫赫たる功績を挙げ、怒った中山王から人質に出していた、息子の肉が入った羹が送り付けられ、魏の重臣達の面前で、平然と飲み干した逸話は、あまりにも有名である。
「しかし、楽氏は中山に根を張ったはず。中山の滅亡と共に、とうに滅んだものと思うておりましたが」
「楽毅は趙に身を寄せていたとか」
魏王は微睡みに、意識を委ねようとしている。
「趙に?何故です」
熱い好奇心が湧き上がる。間髪入れずに、蘇代は訊いた。
「先生は随分と、楽毅に感興をそそられているようですな」
「ええ。まぁ。大層立派な青年だったので」
嘘ではない。だが、彼と擦れ違った時に、見えた蒼い空、千里の翼が、記憶の核に焼き付いて離れない。
「楽毅殿は何故、魏に?」
魏王が白目を剥き始める。
「ひっく。我が国で仕官する為ですよ」
「なるほど。祖国を失くし、在野の士となり、父祖誕生の地に、官を求めた訳ですね。では、大王様は楽毅殿を御取立てに?」
豊かな頬を紅に染めた、魏王は馬鹿笑いし、後ろで控える妃妾の膝に擦り寄った。
「まさか」
熟柿臭い息を巻き上げて、魏王は哄笑する。
「大王様?」
「奴は趙からやってきたのです。趙に与する間諜ということもありえる。まぁ、器量は良いので、近習として遣ってやろうとは思っていますが。孤の近くに置いておけば、間諜であったとしても、下手な動きはできますまい」
「大王様は、彼に疑心を抱いておいでか」
「如何にも。そもそも中山と共に死なず、仇敵であるはずの趙に身を寄せていたような男です。官吏としても、軍人としても禄を食ませるに値しない。せいぜい、孤の近習として、有事の際に、孤の盾として死んでもらう。奴に与える職務など、その程度で良いのですよ」
本当にそうであろうか。楽毅の相貌を目の当りにしたのは、ほんの一瞬であった。しかし、彼から魏王が言うように、外連に満ちた気配は感じなかった。
あの青年が、この愚王の盾として、限りある生を終える。
寂寥たる思いになる。ふと思う。燕王なら、楽毅と会い、彼の中に、何を見出すのだろうか。
魏王は妃妾の膝の上で、寝息を立てていた。蘇代は退出すると、直ぐに従者が駆けてきた。
「調べて欲しいことがある」
「というと?」
従者が顔を近づけ、耳語する。
「亡国の士。楽毅。今、魏に逗留している。彼の経歴を洗ってもらいたい」
従者は首肯した。何故?と訊き返してこない所が、この従者の有能な所である。
訊かれた所で、蘇代としては曖昧模糊とした答えしか返させない。
天の啓示とー。説客は一様に、天譴思想に基づいた、言説を用いやすい。
天を盲信し、縛られた、諸侯を操る上で、覿面の効果を発揮するからだ。
しかし、大分の説客は、徹頭徹尾現実主義者である。そして、蘇代もその一人だ。
だがー。楽毅と出逢い、視界いっぱいに広がった空を、目の当りにした時、己の近くに天を感じた。
「この私に天意が降りるとはな」
蘇代は独語して、鋭い眼に不敵な光を湛えた。
人工の草原に、赤い毛氈が敷かれ、魏王が酒肴を命じると、次々の豪勢な料理が運ばれてくる。酌を進めてくれるのは、魏王の寵愛が厚い妃妾である。
「よくぞ参られた。蘇先生」
数杯しか飲んでいないが、魏王は酔眼朦朧としている。
「之も貴国と燕の友好の為。たとえ千里の道のりであったとしても、苦など感じませぬ」
「おう。それは何より」
相当に酔いが回っているようで、うまく呂律は回っていない。
それでも、上機嫌だということは分かる。
早く本題に入りたかったが、魏王がこの調子では、今日は無理だろう。
蘇代が仕える、燕は七雄の中でも、最北に位置している。
それ故、北地で跳梁する、匈奴を始めたとした蛮族から、国境を侵されることも多く、文明の華が咲き乱れる、中原諸国より一歩出遅れている感がある。
また、燕内で内乱があった折に、斉の侵攻によって、一度滅亡の危機に瀕している。現今の燕王。昭王が王として践祚し、富国強兵策に血道を上げ、国力を回復さしめた。
だが、軍事力も国力も、諸国と同等なものを有しているかと問われれば、そうではない。斉は燕を、付庸国として扱い、朝貢を強いている。
燕の昭王にとって、内乱に乗じて、一族を悉く葬り去った、斉は怨敵である。しかし、斉の強圧的な支配に、敢然と反攻する力は、燕にはまだない。だからこそ、昭王は血反吐を吐く想いで、斉の隷属に耐えている。
目下、燕の悲願は、強国斉の支配からの脱却。そして、燕土を灰燼と帰した、斉への復讐である。故に蘇代は、魏に限らず、舌峰を武器に、諸国を渡り歩いている。
蘇代は、兄の蘇秦が締結させた、六か国合従を再び成そうとしている。蘇秦が秦以外の六か国を渡り、各国の宰相として迎え入れられ、秦の東進を数年間も阻んだ。
当時の敵は秦であった。今も秦は強盛であるが、蘇代は燕に仕えている。
王の悲願が、斉を伐つことにあるならば、この舌先を遣って、再び斉を除いての合従を現実のものとして、齎すのが臣下の務めである。
元来、説客には信義がないといわれることが多い。実際、戦国時代では、人口に膾炙する、紛れもない真実である。
武官のように忠義を尽くさず、高い禄を払い、重用してくれる、主君の元で弁舌を振るう。しかし、蘇代は違う。燕王の器量に、芯根から惚れ込んでいるのだ。目先の悲願は、斉への復讐。
言い換えれば、斉の桎梏から、燕の民草を解き放つ、#匡救事業__きょうきゅうじぎょう__である。
だが、燕王はその程度の悲願を叶え、終わる男ではない。
彼には天下を統べるだけの王器がある。
兄の蘇秦が、生前、趙の粛候に説いた言葉がある。
「名君は疑惑を絶ち、讒言を去り、流言の道を除き、朋党の門をふさぐ」
燕王は蘇秦の言葉を、体現したような男なのである。
蘇代は信じている。王の可能性を。
故に身命を賭して、蘇代は燕王に忠義を尽くしているのだ。
「大王様。さきほどの入れ違いになった御仁は?」
酩酊状態の魏王に、軽く水を向ける。
未だあの蒼き具足を纏った、青年に興味を喚起している。
「楽毅のことですな」
馴染みのない名であった。
だか、楽毅という青年から、漲っていた覇気は、勇者の其れであった。
「父祖文候に仕えた、楽羊の末裔ですよ」
「あの楽羊ですか」
中山攻略の際に、赫赫たる功績を挙げ、怒った中山王から人質に出していた、息子の肉が入った羹が送り付けられ、魏の重臣達の面前で、平然と飲み干した逸話は、あまりにも有名である。
「しかし、楽氏は中山に根を張ったはず。中山の滅亡と共に、とうに滅んだものと思うておりましたが」
「楽毅は趙に身を寄せていたとか」
魏王は微睡みに、意識を委ねようとしている。
「趙に?何故です」
熱い好奇心が湧き上がる。間髪入れずに、蘇代は訊いた。
「先生は随分と、楽毅に感興をそそられているようですな」
「ええ。まぁ。大層立派な青年だったので」
嘘ではない。だが、彼と擦れ違った時に、見えた蒼い空、千里の翼が、記憶の核に焼き付いて離れない。
「楽毅殿は何故、魏に?」
魏王が白目を剥き始める。
「ひっく。我が国で仕官する為ですよ」
「なるほど。祖国を失くし、在野の士となり、父祖誕生の地に、官を求めた訳ですね。では、大王様は楽毅殿を御取立てに?」
豊かな頬を紅に染めた、魏王は馬鹿笑いし、後ろで控える妃妾の膝に擦り寄った。
「まさか」
熟柿臭い息を巻き上げて、魏王は哄笑する。
「大王様?」
「奴は趙からやってきたのです。趙に与する間諜ということもありえる。まぁ、器量は良いので、近習として遣ってやろうとは思っていますが。孤の近くに置いておけば、間諜であったとしても、下手な動きはできますまい」
「大王様は、彼に疑心を抱いておいでか」
「如何にも。そもそも中山と共に死なず、仇敵であるはずの趙に身を寄せていたような男です。官吏としても、軍人としても禄を食ませるに値しない。せいぜい、孤の近習として、有事の際に、孤の盾として死んでもらう。奴に与える職務など、その程度で良いのですよ」
本当にそうであろうか。楽毅の相貌を目の当りにしたのは、ほんの一瞬であった。しかし、彼から魏王が言うように、外連に満ちた気配は感じなかった。
あの青年が、この愚王の盾として、限りある生を終える。
寂寥たる思いになる。ふと思う。燕王なら、楽毅と会い、彼の中に、何を見出すのだろうか。
魏王は妃妾の膝の上で、寝息を立てていた。蘇代は退出すると、直ぐに従者が駆けてきた。
「調べて欲しいことがある」
「というと?」
従者が顔を近づけ、耳語する。
「亡国の士。楽毅。今、魏に逗留している。彼の経歴を洗ってもらいたい」
従者は首肯した。何故?と訊き返してこない所が、この従者の有能な所である。
訊かれた所で、蘇代としては曖昧模糊とした答えしか返させない。
天の啓示とー。説客は一様に、天譴思想に基づいた、言説を用いやすい。
天を盲信し、縛られた、諸侯を操る上で、覿面の効果を発揮するからだ。
しかし、大分の説客は、徹頭徹尾現実主義者である。そして、蘇代もその一人だ。
だがー。楽毅と出逢い、視界いっぱいに広がった空を、目の当りにした時、己の近くに天を感じた。
「この私に天意が降りるとはな」
蘇代は独語して、鋭い眼に不敵な光を湛えた。
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