楽毅 大鵬伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
54 / 140
空を求めて

 十三

しおりを挟む
 楽毅が客間に入ってきた。
 
 蘇代は長揖ちょうゆうする。長揖は目上の人に行う、挨拶であるから、通常ならば布衣の身に、過ぎない楽毅に、己が行う礼ではない。
 
 官位爵位など関係なく、己は楽毅に惹かれている。一人の男として、礼を尽くしたいという想いがあった
 楽毅は毅然とした姿勢で、同じく長揖を返した。

「楽毅殿。突然の訪問、御寛恕ごかんじょ下さいませ」
 手で勧められ、蘇代は楽毅と向かい合って座する。

「来意を御尋ねしても?」
 楽毅は警戒する様子を隠そうともしない。彼の眼が、蘇代の隣に座る、司馬炎と魏竜に向けられる。司馬炎は仏頂面で、腕を組み、黙している。魏竜はもぞもぞと、居心地が悪そうに、肩を動かしている。

「単刀直入に申し上げます。楽毅殿、貴方は魏王に仕えるべきではありませぬ」
 紺碧を湛えた、双眼が収縮する。

「何故、貴方がそのようなことを、私に?」

「失礼を承知の上で、楽毅殿の経歴を独自に悉皆調査しっかいちょうささせて頂きました」
 楽毅は不信感を露わに、眼を眇めた。

「何故です?」

「我が国の為です」

「我が国とは」

「私は各国の便宜を図る為、遊説して各地を巡っておりますが、私の真の主は燕の大王様のみで御座います」

「私と燕には、縁もゆかりもあるません」

「ええ。承知しております。今、我が国は各地から賢者、勇士を募り、富国強兵策に血道をあげております」

「斉の宣王のように。ですか?」
 楽毅の言は鋭い。

「はい。後塵こうじんを拝した感は否めませんが、かつて斉で起きた、百家争鳴ひゃっかそうめいが再び燕で起ころうとしています」

「つまりこういうことですか。蘇代殿は燕に、私を迎え入れたいと」
 蘇代は莞爾かんじとして笑う。

「何故、燕王は国を強くすることを望まれるのか」

「目下、斉への復讐の為です」

「復讐とは。では、私に燕王の私怨を晴らす、助力をせよといわれるのか」
 楽毅の顔が曇った。

(やはりそうか。楽毅は生来からの清廉の士なのだ。こういった、薄暗い話は好まないか)

「私も中山の民として、燕を襲った悲劇には同情しますよ」
 燕が跡継ぎ争いで乱れた折、斉の与国として、中山は燕に攻め込んで、略奪を働いた。

「ですが、私怨で戦をすれば、天下はみだれる」

「仰る通りで御座います。ですが、斉は閔王びんおうの代になってからというもの、周辺諸国を圧力で脅かしているのは、ご存知でしょう」
 斉は宣王、威王の代に、強盛となり、国そのものに大義があった。しかし、閔王の代になってからは、大義を失くし、傲岸不遜な国に成り下がった。
 
 中山を趙が攻めた時、中山王はしきりに斉へ救援を求めたが、閔王は中山を千乗の国の君主が、身の程を弁えず、王を号したという理由で、救援に応じなかった。また、燕を斉の隷属国とみなし、しきりに朝貢を要求してくる。その様は、まるで諸侯を治める、天子のようである。

「天下の一匡いっきゅうを望まれるのなら、西の秦と東の斉は伐たくなくてはなりません」

「燕王には、其れが可能だと確信しておられるような、口振りですね」

「可能です」
 蘇代は食い気味に言った。楽毅が眼を瞠る。

「燕王は、諸侯を束ね、泰平の世を創り出せるだけの王器が備わっている」
 自らの内に秘めた、熱量が発露する。

「其れはつまりー」

「天下統一です」
 楽毅の喉が鳴る。
「どれほど、私が言葉を尽くしても、燕王の器量を十全に語ることはできませぬ。だから、楽毅殿。一度、燕に来て頂けませんか?」長い逡巡があった。

「しかしー」

「懸念は理解しています。使用人も含めて、仕官されるまでの間、生活にかかる費用は全額私が負担致しましょう」
 楽毅の澄明な眸が、真っ直ぐに蘇代を見据える。蒼の先に視える。羽搏く、千里の翼が。

「魏王の元で、限られた生を無駄にしたいですか」
 駄目押しだった。 楽毅は深き息をつき言った。

「一日。考える時間を頂きたい」

 
しおりを挟む

処理中です...