楽毅 大鵬伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
60 / 140
燕王

 三

しおりを挟む
 蘇代の話によると、現王の昭王即位直後は、国内はもっと殺伐としていたようだ。国内の騒擾そうじょうに乗じての、斉の派兵。
 領土は悉く奪われ、昭王が擁立され、滅亡の危機は逃れたものの狡猾なる楼煩ろうはん東胡とうこといった、蛮夷がこれ幸いと、幾度も国境線を侵した。 
 
 蘇代の兄、蘇秦そしんが燕に遊説した時、彼は燕をこのように称している。
「燕の土地は、包囲二千里を超え、武装の兵力数十万、戦車六百乗、軍馬六千匹、軍糧は数年を支えるに足ります。南には碣石けっせき雁門がんもん豊饒ほうじょうを控え、北にはなつめ棗、栗の収穫があり、民は田作せずとも自給でき、いわゆる天府の地である」
 
 蘇秦は燕で策士として用いてもらう為に、燕王の謁見を果たした訳であるから、言に誇張は含まれているだろう。それでも、内乱により荒れる前は、燕はそれほどに雄大な国であった。
 
 しかし、斉の北藩ほくはん藩屏はんぺいの意)と成り下がった直後は、昭王は若く、同時に国内の賢臣達は、内乱に巻き込まれ多くが命を落とし、長大な領土の半分以上は、斉の統治下にあった。
 
  蘇秦が締結させた、秦に対抗する為の六国合従は反故になっていたし、山東の覇者である斉の権威を懼れて、塗炭の苦しみの中にある、燕にどの国も手を差し伸べることはなかった。
 
 当時の昭王の心中を慮る。四肢を引き裂かれるような想いであったに違いない。しかし、成長した昭王の事績を辿れば、彼が如何に優れた為政者であるのか読み取れる。
 
 各地から貴賤を問わず、賢者、勇士を招聘しょうへいし、国力強化に努め、苦心させられたであろう、蛮夷への対応策としては、秦開しんかい将軍を北の国境線に派遣し、跳梁する蛮夷を剿滅そうめつした後、長城を築かせている。
 
 都に向かう道のりは、終始穏やかであった。道は整備され、集落には活力がある。並大抵の労苦ではなかったはずだ。昭王の執念が窺える。果たして、その執念の淵源えんげんには、何があるのか。
 
 蘇代の口ぶりから察するに、昭王は相当に斉を憎んでいる。さもありなん。斉によって、国を蹂躙されたのである。
 
 だが、楽毅は英邁な君主であっても、復讐の権化となった主に仕える気はない。畢竟。戦に善悪の概念はない。しかし、志は必要なのだ。志なき刃は、狂人が振るう刃と同義である。

「さぁ。見えてきましたよ」
 蘇代の驂乗そえのりを務める、従者が北の方角を指さして言った。

「あれが」
 沃野よくやに、突如として現れる、重厚な城壁に守られる都、けい。趙の邯鄲かんたんに負けず劣らず、壮大な都である。
 
 城郭内に住まう、人民の熱量が、潮を孕んだ風に乗って運ばれて来る。一見しただけでは、近しい過去に滅亡の危機に瀕した、国の都とは思えない。鞍上の上で唖然とする、三人を見遣り、蘇代はいさおを誇るように告げる。

「気に聡い、お前達三人なら感じるはずだ。之が燕という国が内包する熱量だ」
しおりを挟む

処理中です...