楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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 一

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 田単でんたん市掾しえん(市の属官)となっていた。つまり、下級役人である。与えられる仕事といえば、戸籍の整理など末端の官吏が行うものであった。
 しかし、田単に憂いや焦燥というものはない。軍人としてではなく、下級役人であったとして、漠然と自分が選んだ道は正しいという自負がある。
 
 臨淄りんしは七万戸を越える、大都市である。故に毎日、出生届や死亡届といった、書類の数は膨大であった。作業は、毎日夜更けにまで及んだ。田単は真面目一徹な男として、役所でも有名だった。雑多な仕事でも決して手を抜かず、その日の仕事をきっちりと終えるまで、夜中になろうと帰宅しない。同僚達は、融通の利かない彼を小馬鹿にしている風もあった。
 
 その日も田単は、明け方まで戸籍の整理に没頭していた。
 官衙かんが森閑しんかんとしている。田単以外、誰もいない。だがー。突如、荒い気息と共に、若い男が転がり込んできた。重たい瞼を擦る。

孫仁そんじん殿」
 面識がある男だった。孫師そんしの息子である。

「田単。父上が」
 孫仁の顔は蒼い。直感的に悟る。

「すぐ行きます!」
 眠気が吹き飛ぶ。田単は孫家塾に向かった。




「来てくれたか。私の愛弟子よ」
 臥所ふしどにある、孫師には残滓ざんしほどの生気しか残されていなかった。
 枯れ枝のような手が伸びる。田単は震える手で、強く握り返した。白濁した眼が、薄っすらと開けられる。

「願わくば、最期にもう一人の愛弟子の顔を拝みたかった」
 狭い室内では、孫師を慕う、数十人もの弟子達の啜り泣きが絶えることがない。

「先生、ずっとお聞きしたいと思っていました。中山で出逢った、兄弟子の名を教えて頂けませんか」
 色を失くした唇が震える。そして、嬉しそうに微笑む。

「名は楽毅がくき

「楽毅」
 田単は小さくその名を反芻はんすうする。胸に刻みつけるように。

「旅の最中、私は亡国の地で、ある青年に出逢いました」
 うっすらと見開かれた眼が、最期の力を振り絞るように大きく開かれた。

「名は?」
 何かを期待しているような、眼差しが向けられる。

「楽毅と。やはり、あの御方が私の兄弟子だったのですね」
 漠然と感じていたものがあった。筆舌では語れない、見えない宿命を本能が感じ取っていた。

「そうか。やはり、彼は生きていたのか」
 細い長い息を吐く。肺はゆっくりと上下運動を繰り返している。時が経つにつれ、動きが緩慢になっている。命の火が消えようとしている。

「田単。君は彼と違う道を選んだ。何が正しき道なのか、多くの弟子を輩出し、六十年生きた、私にも未だ分からない。だが、君達は同じ眼をしている。多少の迷いはあれど、魂の淵源えんげんでは、己の往く道が正しいと信じて疑わない者の眼だ。歩みとめてはならない。
たとえ苦杯をなめようとも、歩み続けるのだ。想いが相剋し、友に刃を向けることになろうとも、戦い続けるのだ。その先、光輝がある」
 光を失いかけていた、孫師の眼が煌々と光る。まるで、眼に見えない何かに憑りつかれているように。漲る生気を感じた。孫師が瞬いた。次に瞼を開くと、孫師から生気が失せていく。

「魂の淵源に導が刻まれた者には役割がある。楽毅、田単。其れが君達だ。道を見失いそうになったら問うといい。己の心に。きっと天が教えて下さる」
 ふっと孫師は微笑んだ。瞼が閉じていく。己の生気を送るように、強く孫師の手を握り返す。
 頬が涙で濡れる。孫師の最期の言葉が、心に纏わりつく。
 まるで、之から先起こるであろう、未来を予見しているような言葉であった。
 胸の動きがとまった。

「先生!」
 田単は師の胸に顔を埋め、慟哭した。
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