楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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宋攻略戦

 八

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 数日後。単父に駐屯する燕軍の元に、斉からの使者が来た。
「大王は一日も早く、単父を発ち、南下した後、燕軍には商丘攻めの先鋒を務めるよう望んでおられる」
 横柄な使者であった。細い眼から、蔑みが窺える。

「何故、此処より商丘近くに駐屯しておられる、斉軍が先鋒をお務めにならないのですか。斉軍は二十万と聞きます。まずは斉軍が攻撃を仕掛け、後に我が軍が合流する方が合理的なのでは。商丘の宋軍にいらぬ時を与えることになります」

「大王が望んでおられる」
 楽毅の理路整然りろせいぜんとした反駁はんばくを、その一言で使者は一蹴した。

「制圧した単父はどのように?我々が全軍で引き揚げれば、せっかく宣撫した民達が蜂起するかもしれません」
 内心、大いに気色ばんでいたが冷静を務めた。すすんで帰順を選んだ、単父の民が蜂起する可能性は低い。あえて、使者に大仰に危惧を伝えたのは、斉王の卑しい目論見が明確に見えるからである。いや、此方を属国と侮って、胸算用を隠そうともしていない。

「単父の地は、後続の我が軍が引き受ける」
 使者は権柄付けんぺいづくに答える。

(斉王め。犠牲が多く出る商丘の城攻めに、俺達を死に兵として遣い、おさえた単父を蹂躙するつもりか)
 怒りが沸々と湧き上がる。恐らく楽毅が軍を引き払い、商丘へ向かえば、後に単父に入った斉軍は、宋の民からあらゆるものを奪いつくすであろう。孟嘗君が去った、斉軍に統率はない。さながら匪賊ごろつきの集まりだ。

「楽毅将軍。拒否権は其方にはない」
 沈黙。居並ぶ将校達は、烈火の如き、怒りを双眸に宿している。

「相分かった」
 全員が楽毅の顔を見遣った。

「明日には、単父を発たれよ」
 使者は憫笑びんしょうを浮かべ、楽毅は喉に蟠る鉛のような不快感を嚥下えんげした。
 
 使者が去った後、不快感を露わにする将校達に、楽毅は告げた。

「劇辛。明朝、一万の兵を与える故、単父の投降兵と民を、燕へと移送せよ」

「楽毅殿。それは」

「斉の蹂躙を見て見ぬふりはできない。その分、南で働いてやれば、文句はあるまい」

「御英断です。楽毅殿」
 劇辛は一回り以上、年下の将軍の器量に、胸を強く打たれた。

「ですが、斉王は我等に先鋒を押し付け、死に兵として扱うつもりです。商丘で万が一にでも、殿が討たれればー」
 姫霊が言った。燕軍を数年で、七雄一の軍に鍛え上げたのは楽毅である。
 現今、北の蛮夷を駆逐できるだけの練度を有した軍は他にはない。

「やるしかあるまい。今はまだ、真っ向から斉と干戈を交える時ではない」
 強国斉へ対する、連合の約は未完成だ。
 燕王の意を汲み、蘇代そだい蘇厲それい兄弟が諸国を巡ってはいるが、時を要するだろう。

「商丘攻略戦は、単父を陥落させたように簡単にはいかないだろう。商丘は王を擁し、最後の砦として、軍も決死の覚悟で剣を振るうだろうからな。腰を据える戦になるだろう」
 商丘は十五万の兵を擁している。本来、攻城戦において、攻める側は守る側より、倍以上の兵力を有していなければならない。兵法の基本である。それを斉王も分かっている。燕軍は敵の疲弊を促す、態の良い捨て駒である。

「後ろで踏り反る、斉軍を前線に引き摺り出す策を練るしあるまい」
 その一言で、とりあえず軍議は解散となった。
 
 翌日。進発の支度を整える、楽毅を蘇代の使者が面会を求めた。使者は蘇代の従者であった。寡黙な男ではあるが、明晰な蘇代の右腕としての働きを卒なくこなす、切れ者だ。

「楽毅殿。至急、趙へ向かってもらいたいのです」
 従者は泰然と構えているものの、言は切迫した感じがある。

「趙だと」
 楽毅は眉根を顰めた。

「はい。趙へ行き、趙王と盟約を交わして頂きたいのです」

「趙を引き込む、好機であると?」
「左様。斉は同盟国である、趙から強引に、宋攻略戦へと引き摺りこみました。此度、宋攻略戦は、趙にとって旨味のない戦。正式に斉が同盟を結んだ楚と魏とは違い、明確な取り決めも成されていません」

「つまり、趙では対斉への機運が高まっていると」
 従者は頷いた。

「しかし、何故、俺なのだ。蘇代や蘇厲が行けばいい。俺は陣を離れる訳にはいかん」

「楽毅殿はかつて趙に身を寄せておられた。平原君へいげんくんとの縁も深く、沙丘さきゅう沙の乱で楽毅殿は、相応の働きを成され、趙王の覚えもめでたい」

「なるほど。蘇代は目聡いな」
 従者は微かに目笑した。

「事を急くのは、やはり宋攻略戦の後、間断なく斉を攻める為だな」

「はい。その為に主は動いておられます。今は秦へ行き、穣候魏冄と会見の最中です」

「秦は乗り気か?」
「帝号を捨てたことで、秦と斉は完全に袂を分かちました。互いに憎悪し、秦からすれば、面目を潰した、斉が宋を併呑し、更に力を付けようとしています。更に言えば、主は秦国内に、秦を除く六か国が、再び約従に向けて動いていると飛語ひごを流しています。秦は相当に焦っていますよ。合従軍の脅威は、記憶に新しいのですから。現在、主は秦に赴き穣候との会見に臨んでいます」
 事態は水面下でめまぐるしく動いている。蘇代が促す通り、己は趙へ向かい、同盟を締結させるのが最優先なのかもしれない。しかしー。前線を離れれば、宋との戦は全て麾下に投げることになる。

「行かれるべきです」
 幕舎の入り口が開く。入ってきたのは、姫霊であった。

「聞いていたのか」

「申し訳ありません。盗み聞きするつもりはなかったのですが」

「で、お前は俺に趙へ行けと?」
 姫霊は迷いなく、頷いた。

「当然です。殿には我々では果たせない大任があるのです。此度の戦など、所詮は憎き斉の走狗同様の役割。屈辱ですが、それでも耐えていられるのは、その先に大王様の悲願があるからです」
 姫霊は燕王の遠縁にあたる。燕王同様に、斉の侵略で一族を失い、斉を怨毒えんどくしている。

「軍は私が」
 姫霊の双眸の奥に、紅蓮の覚悟が見える。

「死ぬ気か」

「悲願の為ならば本望です」
 静寂が漂う。姫霊は唇を、色が失せるほどに強く結んでいる。

「分かった。その覚悟受け取った。しかし、生きることを諦めるな。生きて、また会おう」
 楽毅は破顔する。

「必ず」
 姫霊の眼には、涙が浮かんでいた。
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