楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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翕然

 一

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 趙の恵文王けいぶんおうは、快く楽毅がくきを迎えた。
 楽毅が趙に身を寄せていた頃、趙王は幼少であり、実権の大分を祖父である主父しゅほに握られていた。
 
 しかし、きざはしの上の玉座に座する、趙王は立派な青年に成長し、凛とした威容を漂わせていた。

(立派に成長されたものだ)
 感慨深くなる。恐らく沙丘さきゅうでの出来事が、趙王から甘さというものをこそぎ取ったのかもしれない。実の兄に危うく殺されかけ、父からは見放されたのだ。過去の後ろ暗い経験が、趙王に屈折を齎す可能性もあった。しかし、階に控える、忠臣達が心に疵を負った幼少の王を、うまく導いた。

「楽毅。久しいな」
 いったのは、高齢の宰相公子成こうしせい。趙王の大叔父にあたる。
 あと二人は奉陽君李兌ほうようくんりたい高信期こうしんき。共に沙宮の乱に深く関わっており、今や趙の重臣である。両名は楽毅に、好意的な笑みを向ける。

「連合の件、承諾した」
 二つ返事といってもよいほど、同盟はあっさりと締結した。

「同盟国である、我が国に対して、斉の対応は無礼千万なものであった。秦と組むこと自体、正直気が進まないが、其方の頼みである。無碍にできる訳もない。其方は弟しょうの刃として、孤を窮地から救い出してくれた。返しきれないほどの恩がある」趙王の皓歯こうしが光る。

「斯様な御言葉。幸甚こうじんの至りで御座います」
 目頭が熱くなるのを感じる。
 趙王の笑貌に、平原君へいげんくんの面影が重なる。
 彼もまた、風貌立派な青年に成長していることだろう。燕にいても、平原君の噂はよく耳にする。今では全盛期の孟嘗君もうしょうくんに並ぶ、三千人以上の食客を抱えているという。

「時機悪く、勝と廉頗れんぱは国を空けておる」

「そうですか」
 落胆の念が滲み出る。不思議な縁である。
 廉頗の一騎討ちで敗け、趙へ降った。中山、公子董こうしとうと共に、朽ちることが叶わず、切っ掛けを作った、廉頗を酷く恨んだ時期もあった。しかし、彼は紛れもない己の友となった。

饗応きょうおうを開き、盛大にもてなしてやりたい所だが、ゆっくりとしている暇もないのであろう」

「はい。早急に燕を戻り、軍備を整えなくてはなりません」

「機は宋攻略の終結―。であるか」
「斉王の気の緩みに付け込みます。目下、斉王の眼は宋攻略に注がれております。まさか、水面下で燕が、斉を伐つ準備を着々と進めているとは、夢にも思わないでしょう」
 その為に麾下達を、鉛をのむ想いで商丘しょうきゅうへと送ったのだ。全ては斉王の意識を、宋に傾けさせる為。肉を喰らわせ、骨を断つのだ。

「欲に塗れた王には、天譴てんけんが下る。孤も一人の王として、胸に刻もう」
 遅々とした口調で、趙王は自らの言葉を意識に落とし込んでいるようであった。


 
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