楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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決別

 八

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「後方二里の距離に敵影あり」
 西へ放っていた斥候が戻り、報告を終えた。

(あなたならそうすると思っていましたよ)
 先頭の田単は馬首を巡らせた。

「制止!」
 田単が合図を送ると、斉の旗が大きく翻る。布衣ほいの身であるが、騒擾に乗じて、主な軍の高官達が逃げ出したことで、いつしか田単は一介の将校に等しい権限を有していた。
 
 また、何処からか逝去した、孫師の秘蔵っ子であったことが漏れ、田単の権威は知らずに内に高まっていた。
 田単のもとに集った兵士達は、高官達が逃げ出そうとも、臨淄に残り、迫りくる連合軍と戦い抜くことを決意した、忠義に厚い清廉の士達である。
 
 臨淄の守兵は当初、五万が駐屯していたが、連合軍の脅威を前に約二万が逃散した。三万の内、一万は田単の麾下となり、二万は姜施と共に、臨淄に留まる。
 
 総帥であった田触でんしょくも姿を晦ました為、今は田達でんたつを名乗る、姜施が現状総帥であった。姜施と二万の兵は、己を犠牲にして、田単達が斉東で態勢を整える為の時を稼ごうとしている。彼等の尊い犠牲を無駄にする訳にはいかない。たとえ誰が相手でも、躊躇うことは許されない。

「田単殿。御下知を」
 傍らに馬を並べるのは、姜施の卒長を務めていた、若い将校だ。今や田単の副官を務めている。
 眼を眇めた。猛然と駆けて来る、蒼き一団。青地に鵬の紋様。そして、楽の文字。

「迎え撃つ。反転させ、陣を構えさせろ」

「御意」
 副官の甘章かんしょうが指揮刀を振るう。鼓の音に合わせて、一糸乱れることなく、反転して、陣を構える、動きで分かる。よく調練された一万だ。鍛え上げたのは姜施なのだろう。彼等の動きが、姜施の将校としての器が反映されている。
 
 しかし、大将である己と、一万との呼吸はまだ合っていない。大将と兵というものは、調練や幾つかの戦を乗り越えて、初めて渾然一体となれる。
 
 暁の光を浴びて、黄塵を散らし駆けてくる、楽毅の一万は、彼自身の麾下であろう。呼吸一つずらすことない、変幻の動きで仕掛けてくるに違いない。守勢に回れば、瞬く間にあの一万に蹴散らされる。あちらは一万全てが騎兵。加えてこちらは騎兵が三百。常套手段では、守りを固め、肉薄した騎兵を、歩兵で包囲し、馬の脚を止める必要がある。だが、当然、楽毅も兵法の常法は知悉ちしつしている。

(ならば)
 田単は甘章に指示を送った。
 甘章は眼を瞠ったが、すぐさま諾と頷き、指揮刀を振るった。

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