楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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相剋

 六

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「楽毅の野郎。巧く父王に取り入りおって」
 太子戎人たいしじゅうとは酒宴の賑わいを、王族の為に拵えられた宴席の一角から、昏い眼で睨み付けていた。悪態をつきながら、酒が注がれた椀の表面に映る、自分の顔を見遣る。鼻梁は右に歪み、醜い顔が余計に醜く映る。この歪な鼻を眼にする度に、新鮮な怒りがいつも総身に火照りを齎す。
 
 折れた骨は治っているはずなのに、怒りが蘇ると、激しい鈍痛に襲われる。
 席を連ねる公子達は、純粋に酒盛りを愉しんでいた。

(この国には、俺以外莫迦しかおらん。見てみろ。楽毅と話す父王の顔を。どういう訳か、あの余所者を息子である、このおれより愛しておられる)
 楽毅に殴られた、あの日。戎人は従者を燕の都けいへと走らせた。
 持たせた書簡には、将校の一人に過ぎない楽毅が、太子である己と、傅役の郭蔵かくぞうを殴りつけたことを、経緯は伏せてしたためた。
 
 戎人は父王に、楽毅が厳しく罰せられる様を望んでいたが、返ってきた書簡には、父王の戎人に対する、激しい怒りが文面から滲んでいた。軍吏が単父ぜんほでの、戎人の行いを余すことなく報告していた後だったのだ。
 
 楽毅の行いを正当であるとし、太子の身でありながら、無辜むこの少女を惨殺した、戎人と、傅役でありながら、諫止しなかった、郭蔵を父王は強く責難した。それからというもの、戎人は父王に疎んじられるようになった。未だ太子の座にあるももの、父の興味を喚起するのは、常に血の繋がりもない、余所者の楽毅であった。
 
 顔を合わせる度に、「楽毅の人となりを手本とせよ」と父王は喝破かっぱする。
 
 父の眼は太子である、俺を見ていない。かつて、燕に起きた悲劇の発端が思い出される。
 
 祖父である燕王かいが、幸臣であった子之ししに禅譲したことで、燕国内は大いに乱れた。

(まさか。父上は楽毅に位をお譲りなるつもりなのでは)
 いつからこのような想いが先立ち、強迫観念を駆り立てられるようになっていた。確かに楽毅は、軍の抜本的な改革を行い、燕軍を中国一の精強なる軍へと変えた。蛮夷、宋、斉との戦で、楽毅の挙げた功績は数知らず。今や、楽毅は人民、官吏、王族の厚い支持を得ている。楽毅自身が王位を望めば、手の届く距離に、それはある。

(楽毅が王になれば、おれはどうなる)
 太子として廃嫡され、奴の子が太子に冊立されるに違いない。
 となれば、一生を楽氏の日陰のもとで、死んだように生き続けなくてはならない。
 
 讌座えんざし、酒を酌み交わす、父王と楽毅を見遣る。

(父王は楽毅に騙されている。あの男は、恬淡ていたんの皮を被った、狼心狗肺ろうしんくはいな男だ)楽毅に対する増悪が一層と募る。

(何とかせねば)
 殺意のこもった眼で、楽毅をねめつけていた、その時。 背後で影のように、付き添っていた、郭蔵が耳語した。
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