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双璧
一
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武王の遺臣である、任鄙を蜀の郡守として置いた。魏冄と任鄙の繋がり強く、任鄙を通して壮大な大地を有する漢中の支配を盤石なものとする為の派遣だった。
この頃、斉率いる合従軍は函谷関から引き揚げている。それでも、秦は合従軍が睨みを利かせるせいで、東進することが叶わず、領土拡大という点では大いなる停滞が齎された。また軍の引き揚げの条件として、目聡い韓と魏は領土の割譲を要求。秦は諾々と条件をのんだ。韓には武遂の地を。魏には河外と封陵の地を割譲した。
溜まった膿を吐き出すように、白起は韓へと侵攻し年内に韓の新城を奪った。翌年、報復として韓が魏と共に出師した。
「敵は二十万もの大軍だ」
魏冄は相府の軍議室で、広げた帛の地図を恨めし気に睨み付け言った。腐っても秦の東方進撃を危ぶんだ周宗室を抱え込んだ合従軍である。兵の質はともかく、数だけは揃っているといえる。間断なく、秦を除く諸国の何れかが西進を繰り返している。それほどに諸国は、秦の存在に戦々兢々としている証左である。
魏冄は内に蟠る鬱屈を吐き出すように、指の腹で帛の地図を不規則に叩く。白起は昨年の功績を衒うこともなく、空洞の眼を、動く魏冄の指へ向ける。
「此方の兵力は?」
問われると「地方から掻き集めても、今は十万が限度だろうな」と絞り出すような声で答えることしかできない。
連戦に次ぐ連戦である。民の疲弊が無いといえば嘘になる。だが、秦とは徹頭徹尾、尚武の国。必要とあれば、十五歳未満の子供とて兵士として徴兵する。
「充分だ」
一拍の逡巡の末、白起は淡々と告げた。
「倍以上の兵力だぞ」
白起の表情に変化はない。最早、彼の軍才を疑う余地がない。断言する以上、確信があるに違いない。
「夏まで必要なもの全て揃えさせよう」
小さく首を縦に振った白起は戦地と予測される、地図に刻まれた韓土である伊闕の地を睨んでいる。魏冄は峻厳な表情で、未来の戦に思考を巡らせる、白起を見遣って、溜息を吐いた。
「苛ついているな」
視線を上げると、白起は腕を組んで、空疎な眼差しを向けた。
「柚蘭が消えた」
その言葉に、白起は瞬いた。彼にとっては珍しい。動揺が走っている。
「何だと?どういうことだ」
「俺が訊きたい。お前は柚蘭と親しかったはずだ。何か心当たりはないか」
柚蘭の失踪は、魏冄にとって晴天の霹靂だった。妾は数人囲っているが、その中でも柚蘭はいつしか特別な存在になっていた。彼女より美しい女なら、この咸陽にはごまんといるだろう。しかし、彼女には不思議な魅力があった。擦れた男の心を、あの無垢な笑顔が癒してくれるのだ。
彼女は僅かな銭だけ持ち、ほとんど身一つである日、忽然と姿を消したのだ。理由は判然としなかった。数人の妾を囲っていながら、身勝手な推測であるが、二人の間に愛はあったと思っている。なのに、何故ー。
この頃、斉率いる合従軍は函谷関から引き揚げている。それでも、秦は合従軍が睨みを利かせるせいで、東進することが叶わず、領土拡大という点では大いなる停滞が齎された。また軍の引き揚げの条件として、目聡い韓と魏は領土の割譲を要求。秦は諾々と条件をのんだ。韓には武遂の地を。魏には河外と封陵の地を割譲した。
溜まった膿を吐き出すように、白起は韓へと侵攻し年内に韓の新城を奪った。翌年、報復として韓が魏と共に出師した。
「敵は二十万もの大軍だ」
魏冄は相府の軍議室で、広げた帛の地図を恨めし気に睨み付け言った。腐っても秦の東方進撃を危ぶんだ周宗室を抱え込んだ合従軍である。兵の質はともかく、数だけは揃っているといえる。間断なく、秦を除く諸国の何れかが西進を繰り返している。それほどに諸国は、秦の存在に戦々兢々としている証左である。
魏冄は内に蟠る鬱屈を吐き出すように、指の腹で帛の地図を不規則に叩く。白起は昨年の功績を衒うこともなく、空洞の眼を、動く魏冄の指へ向ける。
「此方の兵力は?」
問われると「地方から掻き集めても、今は十万が限度だろうな」と絞り出すような声で答えることしかできない。
連戦に次ぐ連戦である。民の疲弊が無いといえば嘘になる。だが、秦とは徹頭徹尾、尚武の国。必要とあれば、十五歳未満の子供とて兵士として徴兵する。
「充分だ」
一拍の逡巡の末、白起は淡々と告げた。
「倍以上の兵力だぞ」
白起の表情に変化はない。最早、彼の軍才を疑う余地がない。断言する以上、確信があるに違いない。
「夏まで必要なもの全て揃えさせよう」
小さく首を縦に振った白起は戦地と予測される、地図に刻まれた韓土である伊闕の地を睨んでいる。魏冄は峻厳な表情で、未来の戦に思考を巡らせる、白起を見遣って、溜息を吐いた。
「苛ついているな」
視線を上げると、白起は腕を組んで、空疎な眼差しを向けた。
「柚蘭が消えた」
その言葉に、白起は瞬いた。彼にとっては珍しい。動揺が走っている。
「何だと?どういうことだ」
「俺が訊きたい。お前は柚蘭と親しかったはずだ。何か心当たりはないか」
柚蘭の失踪は、魏冄にとって晴天の霹靂だった。妾は数人囲っているが、その中でも柚蘭はいつしか特別な存在になっていた。彼女より美しい女なら、この咸陽にはごまんといるだろう。しかし、彼女には不思議な魅力があった。擦れた男の心を、あの無垢な笑顔が癒してくれるのだ。
彼女は僅かな銭だけ持ち、ほとんど身一つである日、忽然と姿を消したのだ。理由は判然としなかった。数人の妾を囲っていながら、身勝手な推測であるが、二人の間に愛はあったと思っている。なのに、何故ー。
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