白狼 白起伝

松井暁彦

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澱み

 十六

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 王翦はただ白起の背中だけを見ていた。不思議だった。地平線を埋め尽くすほどの敵勢を前にして怯懦は微塵もない。あるのは激震する高揚感。一万の速度が上がる。白起を先頭に据えて、一隊は白い神気を帯びていた。白起が放つ神が如き闘気が、末端の兵に至るまで伝播しているのだ。心は昂っている。だが感覚は清明であった。総身を走る、神経一本一本の微動さえ分かる。

(これが総帥の放つ神気)
 万の吶喊とっかん。王翦も続く。剣を抜き放つ。

「うぉおおおおおお」
 吼えた。身が灼熱に焼かれる。剣を回す。衝撃波。
 
 敵に食い込む。耳を聾するほどの鉄器の音。怒号。悲鳴。断末魔が錯綜する。
 
 敵陣に深く肉薄。だが執着を見せず、一万は直ぐに離脱。
 
 直後一万は三隊に分かれる。誰がどの隊を指揮しているかなど、王翦に確認する余裕はない。ただ主である白起の背中を愚直に追うことしかできない。敵から離れ、距離を保った後に反転。一切の無駄がない動きは、まるで宙を遊弋ゆうよくする麒麟の如し。
 
敵の後方の守りは甘い。前方を見遣れば、華陽一帯に戦力が集中しているのが分かる。突如、前を行く白起が馬上で屈んだ。最高速度で疾駆の構え。白起率いるのは凡そ二千。風の化身となる。

両刃剣が煌めく。敵と馳せ違った刹那、双の刃が一薙ぎで五・六人の首を飛ばす。再び肉薄。徒の敵は此方の動きを止めようと追いすがるが、残光すらも捉えることは叶わない。

(やれる。本当に。総帥ならば)
 そう思った矢先。不意に全身を覆う神気が途絶えた。同時に天狼隊が一斉に敵から離れる。

「今日はここまでだ」
 敵勢から充分な距離を取った所で、白起は馬首を回した。
 白起の額には玉のような汗が浮かび上がっている。呼吸は荒く、表情から苦悶が窺えた。
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