白狼 白起伝

松井暁彦

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終  黒の章

 七

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 相府から一輌の豪奢な四頭立ての馬車が出てくる。馬車を囲むように、十騎ほどの衛兵が続く。
 
 夜陰に紛れて遅々と進む一団。猛鷔父子は、一団を目視できる路地の影に身を潜ませていた。幸い、今宵は月が雲に隠れている。咸陽は不気味な静けさと、深淵の如し闇に包まれている。指呼の間に潜ませた、手勢は約三十名。皆は各々、闇に身を潜ませ、猛鷔の合図が出るまで待機している。

「父上」
 猛武が耳語する。

「父上は疑念を抱いておられぬのですか?」
 憤懣やるかたやるたない様子で、語尾には怒気が含まれている。

「俺はあの范雎という男が嫌いです。あの卑しい容貌を見ればわかります。何かよからぬことを企んでいるに違いません、だって奇妙ではないですか。いきなり、白起総帥を捕えろなどと。白起総帥は秦国の英雄ではありませんか。あの御方がいなければ、この国はこれほどに栄えることはなかった。白起総帥が長平から消息を絶ったことといい、俺にはあの男が譎詐けつさを用いている気がするのです。穣候のことだって」

「よさぬか」
 声は潜めているものの、一瀉千里いっしゃせんりに捲くし立て来る、息子を諫めた。
 猛鷔は闇の中を進む、馬車に眼を凝らしたまま、

「わしとて不思議に思わないこともない。一連の騒動は、余りにも外連味に満ちておる。しかしだ。時の権力者は、今やあの范雎だ。お前や妻を連れた、長き放浪の果てに、やっと立身栄達できる機会が巡ってきたのだ。わしはお前や妻にひもじい想いはもうさせたくない。だからこそ、わしは范雎に付く。例え、この選択が秦の英雄に恥辱や死を齎すものでも、わしは構わん。わしにとって大事なものは家族なのだ」

「父上」
 猛武は言葉を失った。父の長年の苦労を目の当りにしてきたからこそ分かる。父は断腸の想いで決断したのだ。
 
 范雎は狼心狗肺ろうしんこうはい。父は全て承知の上だった。父とて軍人。軍神白起に畏敬の念がない訳ではない。
 
もう何も言うまい。迷いが断ち切れた訳ではないが、父の鋼の覚悟も無碍にできない。ただ今は、父の真っ直ぐな思いに身を委るしかない。

「見ろ」
 猛鷔が指を指す。
 眼を凝らすと、馬車に向かって、静かに歩み寄る人影を捉えた。

「覚悟を決めよ。武」
 猛武は固唾を飲んだ。佩剣が緊張で鞘を鳴らしている。
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