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 半年が経った。

 シェリーは普通の生活というものがこれ程までに幸せなものだと、十六年間生きてきて初めて知った。
 殴られることもなく、馬鹿にされることもない。きちんと働けば褒めてもらえ、シェリー個人を尊重し、人として扱ってくれる。
 この上なく、幸せなことだった。

「ハルヨシ様、起きていらっしゃるかしら」

 朝食の支度を終えたシェリーは、慣れた足取りでハルヨシの私室へと向かっていた。
 数え切れないほどの部屋があるこの屋敷で、実際に使われている部屋は驚く程少ない。ハルヨシは二階の、階段を上がってすぐの部屋を書斎として、その隣を私室として使っていた。それ以外に人の出入りがあるのは、シェリーに与えられた二階の隅の部屋と、あの血塗られた食堂だけだ。

 血塗られた食堂。今ではすっかり元のように、いや、元よりもやや豪華に整えられ、次の犠牲者を待っている。
 ハルヨシは滅多なことでは人を喰らわない。時折、どうしようもなく抑え切れなかった時に碌でもない人間を見繕っては『食事会』の招待状を出すのだそうだ。
 事実、この半年間、ハルヨシが喰らったのはシェリーの母と姉だけだった。

 そもそも食事自体があまり必要ではないらしい。
 だが、シェリーが雇われたからには、と拙いながらも食事を用意するようになってからは、毎食共にするのが習慣になっていた。

 扉の前に立ち、ノックをふたつ。
 返答を受け、扉を開こうと取っ手を回したシェリーはしかし、彼女が押すより早く引かれたそれに引きずられる。

「あっ、えっ!?」
「ん? ああ、シェリーか、おはよう。朝から働き者だね、もう少しのんびりしていても構わないのに」
「お、おはようございます……」

 前のめりに倒れかけたシェリーの身体を、ハルヨシが抱き留めるように支えた。
 不敬に当たるだろう体勢に、慌てて身を離したシェリーは、目線をあちこちに動かしながら頬を赤く染める。
 原因は、彼の服装にあった。
 東洋の生まれだというハルヨシは、人前に出る時以外は着物という、羽織ったものを帯で留めるだけの服を着ている。
 シェリーからすれば体を覆うにはあまりにも心許ない代物で、更に困ったことにハルヨシは大分身なりに頓着のない性格らしく、度々その胸元がはだけていた。

 スズメバチに似た顔の下、ところどころ歪に人の皮膚と虫の表皮が混じり合う首元まではまだ許容できる。
 けれども鎖骨を過ぎた辺りから、均整の取れた二十代にも見える若々しい人間の体へと変わるのだ。
 筋肉が程よくついたそれは、男性に免疫のないシェリーには少々刺激が強すぎた。

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