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第十二話 〈4〉

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「……陛下は、それだけの惨状を目の当たりにしても、お嬢様を憎んではいらっしゃらないのですね」
「そんなことで憎んでいたら、私は周りの人間すべからず恨まねばならないからな。ルヴァですら、六度目の人生では私の妻を刺し殺しているし、その妻も、四度目の人生で前世の記憶を話した私を気狂い扱いして牢に入れた。
 餓死はもう勘弁願いたいので誰にも話さなくなったのだが……御主には話しても良い、と……否、話しておきたくなってな。忌々しい記憶を一人で抱えることに疲れた、と言えば良いか」

 曖昧に笑った陛下は、国の頂点に立つ者が臣下に向ける顔ではなく、何処か気心知れた友人を前にしたかのような表情を浮かべていた。
 性質は違えど、俺も陛下も、要するにこの世界のはみ出し者だ。異世界の記憶を持つ俺と、前世の記憶を持つ陛下。どちらも共に、何処かこの世界への疎外感を抱いている。
 陛下はそんな俺を信頼して、自身の抱える記憶について話してくれたのだろう。ならば、俺もひとつ真剣に話をするべきだ、と思う。

「陛下は、もし私が突拍子も無い話をしても、気が狂ったなどとは思いませんよね」
「無論だ」
「では、私が元いた世界について話しても構いませんか。そして、此処に来るに至った経緯についても」

 ほう、と零した陛下が、次いで鷹揚に頷く。此方の話に耳を傾ける姿勢になった陛下を前に、俺はもはや二十年近く前のことになる記憶を引っ張り出し、纏めながら話し始めた。

 俺は元々、此処とは違う、『日本』という世界で暮らしていたただの平民であること。
 好きなものを好きなだけ食べ、好きなだけ身体の体積を増やし、健康を捨ててまで食べ続けた結果死んだこと。
 その際、この世界でも同時に死んだカコリスの身代わりとして彼の身体に入ることになったこと。
 女神はこの世界の『魔の王を倒す為』に様々な人を生み出し、この世界に送り出し、その結果が芳しくなければ世界をやり直していること。

 俺の知り得る全てを話し終えた時、陛下の顔には明らかな嫌悪と侮蔑が浮かんでいた。それは紛れもなく、天上の存在──女神に向けられたものであることは間違いが無かった。

「一体何の為に世界が繰り返されているのだろうか、と考えたことはある。その時、私の頭に浮かんだのは魔術師団の実験室だった。臨んだ結果を得るまで魔鼠を入れ替え、実験を続ける。我々の扱いはそれに似ている、と。最も当たって欲しくはない予測だったが……どうやらそうらしいな。
 しかし、女神の望み通り魔の王を完全に倒す世界を成したとして────我々にはこの先何があるというのだろう。よりよい未来があるとも思えぬ。ならば、まだまともな今を維持するだけで良いとは思わないか?」

 陛下の口振りには、微かに隠しきれない憎悪が滲んでいたように思う。忘れるように努力しているからと言って、受けた苦しみに抱く感情まで抑えきれる訳では無いのだろう。

 さて。困ったことになってしまった。俺としてはただお嬢様にこれまでの事情を説明して、正々堂々と罵倒が出来るようになるならそれでいい、というだけの話のつもりでいたのだが、どうもそう簡単に押し通せる要望ではないように思える。
 陛下は、お嬢様が自分の力を自覚することでこれまでのようなどうしようもない結末を迎えることに怯えているのだ。俺にはその不安を和らげる術が無い。決まってもいない未来を確約することなんて出来ないからだ。

 どうしたもんかな、という感情を隠し切れていなかったのだろう。対面に座る陛下は俺の表情の変化を見ると、軽く唇の端を持ち上げてみせた。

「勿論、私も聖女の精神衛生については配慮するべきだと考えている。御主の言葉を真っ当に受け止め自省が強まるあまり、光魔法の効力自体が弱まってしまうならば本末転倒だ。
 私が言いたいのは、何もかもをリーザローズに語る必要は無い、ということだ。御主は真実を伝えることが誠実である、と考えているのかもしれないが、真っ当に育っているからこそ、己の能力について自覚することで自身の力を忌み嫌う恐れもある。
 要は御主の罵倒には意味があり、必要があってやっていることだと分かればよいのだ。リーザローズが納得出来るだけの理由を用意すれば充分だろう」

 確かにもっともな話だった。俺はお嬢様に全ての事情を話すことが誠実であると────つまりは、お嬢様に対し少なからず誠実でありたい、と思った訳だが、何もかもを話すことが必ずしも『誠実』だとは限らない。
 結局の所はこれまでとあまり変わらない、現状維持の方向で話はまとまるらしい。長々話した結果、やや異なるとはいえほとんど元の位置に着地した訳だ。方向性を決めるときには往々にして起こりうることだが、今回の件は少しばかり違うように思えた。

 何が違うのか、と聞かれれば明確に答えを出すことは出来ないのだが。何処か腑に落ちない思いで思考を巡らせていた俺に、陛下は何故か、苦笑交じりに謝罪を口にした。

「すまぬな、カコリス」
「いえ、陛下の御憂慮は最もですし、今回の要望は私の感情を優先してしまったようなものです。謝罪などとんでもない」
「いや、そうではない。私は、御主がただリーザローズを傷つけまいと案じているのを知りながら、己の胸の内を語りたいが為に、故意に捻じ曲げ、確率の低い推測まで持ち出したのだ。要らぬ茶番に付き合わせた、その詫びはしておくべきだろう」

 先程から陛下の顔に滲んでいた自嘲の笑みがどのような感情から来るものなのか、俺は此処に来てようやく察することになった。陛下は、俺が光魔法の効果を受けて惑わされているなどとは微塵も思っていなかったのだろう。
 これまでの記憶にある人生の痛苦を誰かに吐き出したい。しかし不用意に語ればこの世界では異端と見なされどのような事態になるかも分からない。そんな状況で唯一事情を話せる相手を求めていた陛下にとって、俺は限りなく都合のいい相手だった筈だ。

「……陛下の心労を減らすための力添えが出来たなら何よりです。何分、旦那様には心労を掛けっぱなしなものですので」
「ああ、ルヴァは正気に戻ってから随分と親馬……娘思いになったからな、一人娘が年頃の魅力的な男と行動を共にするのが不安でならないのだろう」

 ん? 今『親馬鹿』って言い掛けませんでしたか? ましたよね?
 やっぱり陛下も親馬鹿だと思ってんだな。そうだよな、ちょっと、明らかに様子おかしかったもんな。
 しかし、陛下にとっては親馬鹿でいるくらいが丁度良いのだろう。澄ました顔で語る陛下の顔には、親友への素直な情が浮かんでいるように見えた。

「さて。『理由』の件だが、聖女を納得させるからには私から直々に手紙でもしたためるべきだろう。書き上げるまで暫く待ってくれるか」
「承知しました」

 そこから三十分ほどかけて書かれた手紙を受け取り、俺は一先ず王城を後にすることとなった。

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