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第十五話 〈2〉

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「リザ様。カコリス様もお疲れのようですし、今日のお茶会は此処までにしておきませんか?」
「いいのよルナ、こんな男の不調なんて気にかけなくても。ただの寝不足なのだし」
「寝不足を侮ってはなりません。カコリス様は近頃お疲れのご様子ですので、一度ゆっくり休んで頂いた方がいいかと」
「……ルナがそう言うならそうしようかしら。ウスノロ、ルナの優しさに感謝することね」

 わざとらしいまでに澄ました顔で片付けを命じたお嬢様の言葉に従い、素直にルナ嬢への感謝の言葉を口にする。そこにお嬢様への感謝も含まれていることに気づいているのかいないのか、下げられたカップを見やるお嬢様の瞳には何処か妙な照れ臭さが浮かんでいるようにも見えた。

「リザ様さえよければ、次は手作りの菓子を持ってこようと思うのですが、何か好きなお菓子はございますか?」
「あら、ルナが作ったお菓子ならわたくしは何だって好きよ。どれも美味しいもの」

 退席の前に尋ねたルナ嬢に、お嬢様は目を輝かせて答える。
 手先が器用なルナ嬢は、菓子作りもお手の物だ。自分が作ったものを人に食べてもらうことに勇気が踏み出せずにいたようだが、予兆による怪我の一件でお礼として作ってきてもらってからは月に一度ほど茶会に手製の菓子を持ってきてくれるようになった。
 クッキーにタルトにチーズケーキと、どれも公爵家の職人にも見劣りしない出来のものばかりである。

「では次は最近覚えた新しいお菓子をお持ちしますね。エリーさんから教えてもらったレシピがあって、どんなお菓子なのかまだ分からないのですが……」
「エリー……ああ、あの子爵家の令嬢ね。付き合いを持つ相手は選びなさいと言ってやりたいところだけれど……ふん、まあいいわ。心を入れ替えて反省したようだし、もう私の親友に手を出そうなどとは思わないでしょうしね」

 エリー・カールズは、三ヶ月前の予兆の一件でルナ嬢に助けられた令嬢である。
 元々はウォンバート公爵家の令嬢と共にルナ嬢を虐めていた取り巻きの一人だったが、ルナ嬢が命を顧みずに助けてくれたことで完全に改心し、今ではルナ嬢のためにあれこれ世話を焼いてくれているのだとか。

 正直なところお嬢様は報復してやりたい気持ちもあるようだったが、ルナ嬢本人が望まないと言うのならば手出しはしないと決めたようだった。
 それは優しさというより諦めに近い感情でもあるように見えたが、俺もまた、本人が納得しているのならばそれでいい、と口を出すことはしなかった。

 プライベートなことなので詳しくは聞いていないが、ルナ嬢は学園だけではなく家でも長年虐げられているような状況にあったらしい。ウィステンバック家では彼女の弟だけが可愛がられ、ルナ嬢は幼い頃からずっと差別されていたようだ。学園への入学も、幼少の頃にリィラルがルナ嬢の父を説得したから許されたようなものだったのだという。
 そんな状況が続いていたからか、彼女は他人から与えられる危害に対し何処か諦めを持って接している節がある。自己評価が低いのもこの辺りの事情が関係しているのだろう。

 『聖女の親友』となった今でも家庭内での評価は変わらないとすらいうのだから、もはやウィステンバック家は徹底してルナ嬢への差別を行っているようだった。おそらくはかなり碌でもない家族なのだろうが、まあその話は置いておくとして。

 『親友』とはっきり言葉にされるのが嬉しいのか、ルナ嬢は喜びに頬を染めたまま綻ぶように笑う。見ている此方側も幸せになるような笑みにお嬢様が釣られて微笑んだところで、ルナ嬢はそっとお嬢様に近寄り、俺には聞こえない程度の声音で何やら囁いてから去っていった。

 内緒話とは珍しい。普段は知られたくないようなことは万が一にも俺に聞かれないように手紙でやりとりするのだが。
 茶器の片付けで距離が空いていたので問題ないと判断したのだろう。俺も女子同士の内緒話にわざわざ聞き耳を立てるような無粋な真似をする気はないので、それとなく視線を外し、意識を向けないように少し距離を取った。

 そうして片付けを終えたところで部屋に戻る提案をするつもりだったのだが、振り返った俺は、彫刻のように微動だにせず固まっているお嬢様を前に、訝しげな声で尋ねることとなった。

「お嬢様? 随分と顔が赤いですが、体調でも悪いのですか」
「べ、別に、なんともないわ!」
「なんともない……とは言い難いように見えますが」
「うるさいわね! わたくしがなんともないと言ったらなんともないのよ! そ、それより、お前の方こそ体調が悪いのだから、さっさと休むべきだわ!」

 もっともな意見だった。睡眠不足というのはどうにも正常な判断を鈍らせてしまう。
 お嬢様からも付き添うと言われたのだし、今度は昼間に時間を見つけて調べるべきだろう。俺の立場でどこまで魔法開発に手を出していいのか分からないのであまり人目にはつきたくなかったのだが、本職が疎かになっては元も子もない。

「確かにそうですね。ではお嬢様、片付けも済みましたので、申し訳ありませんが寮部屋へ戻っていただいても構いませんか?」
「…………………………」
「……お嬢様?」

 返事がない。もしかして何か済ませておきたい用事でもあったのだろうか。ならばそれを先に済ませておくべきだ。内情はどうあれ、俺はお嬢様の執事である。主人の用事より自分の都合を優先させるのは、流石に執事として失格だろう。

「そ、それなのだけれど、此処で休息を取るというのはどうかしら?」
「此処で?」

 予想しなかった言葉に目を瞬かせた俺を、お嬢様はほんの一瞬見やってから、目を向けた時と同じか、それ以上早く視線を逸らす。

「お前は少なくとも昼間のうちはわたくしの側にいる必要があるのでしょう? 寮部屋で眠ってしまっていては私が何処か勝手に出歩いてしまうのでは、と心配なのではなくて?」
「いえ、あまり心配はしていませんが」
「心配なのではなくて?」
「いえ、近頃のお嬢様は信頼に値すると判断して、」
「心配で仕方がないわよね?」
「…………はあ、はい」

 何故だろう。なんだかものすごい圧を受けたような気がする。
 ので、全く同意できないがとりあえず頷いておいた。

 学ぶべき事柄から逃げ出し、屋敷から抜け出して風のように駆けていたお嬢様ならいざ知らず、今のお嬢様は部屋で大人しくしているくらい出来るだろう。
 ルナ嬢の手前『放っておくと何を仕出かすか分からない』などと言ったが、その点については俺はもうお嬢様をすっかり信用していた。

 だがお嬢様にとってはその信用はどうやら邪魔であるらしい。何故だかはさっぱり分からん。とにかく眠かった。

「そうよね。だから、わたくしが側に居なければならないことと、お前が仮眠を取ることを両立させる必要があるわ」
「まあ、そうとも言えますね」
「だから、その、……つまり、そう! あそこにベンチがあるわ!」

 急に勢いよく声を上げたお嬢様は、テーブルクロスの掛けられた白テーブルに手をつき、華やかな意匠の椅子から立ち上がると、テラスから見える裏庭のベンチを指差した。
 目を向ければ、柔らかな日差しが降り注ぐ裏庭には確かに木製のベンチが置かれている。
 薬草の育成地としても使われているそこには色とりどりの花が咲いており、採取時の休憩場所として置かれているらしいベンチは広々としていて、大人が四人かけてもあまりそうなほどの長さがあった。

「ありますね」
「お前はあそこで仮眠を取りなさい。わたくしが、膝、膝、ひさザザざ枕をして差し上げますわ!」
「はて。ひさザザざまくらとは一体」
「わたくしの高貴なる膝を貸して差し上げると言っているのよ! さっさと頭を寄越しなさい!」

 単純な疑問から首を傾げた俺に、お嬢様はまるで決闘でも挑むかのように指を突きつけ叫んだ。よく分からないが、どうやら膝枕がしたいらしい。本当によく分からんな。何故だ。
 確かに膝枕をしていればお嬢様がその場を離れればすぐに分かるだろうけれども。それを利点として膝枕を選択するには、いささか問題が多いように思う。

「しかしお嬢様、それでは誰かが来た時にどのように見られるか分かりませんよ」

 婚約者も決まっていない御令嬢が、執事とはいえ異性に膝枕をしている姿など見られでもしたら大変だ。少し規律や礼節に厳しい者が見れば『ふしだら』だとか『はしたない』だとか言い出すかもしれない。
 ただでさえ婚約者が見つけづらい状況にあるお嬢様にさらに候補の男性が近寄らなくなってしまっては、流石に旦那様からも減給を言い渡される恐れだってある。

「それなら、問題ないわ。ルナが人払いをしてくれるそうだから、ここにはしばらく誰も近寄らないでしょう」
「はあ、それでしたら……まあ、問題はない……でしょうか?」

 まだあるような気がするが、眠気が勝っていてどうでもよくなってしまう。流石に連日図書館に通い詰めたのはやりすぎだったか。
 今ある魔法をただ覚えるのとは違い、自分で既存の魔法──それもかなり特殊な代物──に手を加えるのは想像よりも途方もない苦労がある。先の見えない徒労感と身体的な疲弊が相まって鈍った思考回路は、そのまま促されるままにベンチへと横たわっていた。
 無論、頭はお嬢様の膝の上である。やっぱりこれ無礼だよなあ、と思いはしたのだが、横になった途端、すぐに瞼が落ちてしまった。
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