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第十九話 〈1〉

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 女神に宛てる念話は、カコリスにかける時とは違って『世界の境界』に阻まれているような感覚がある。
 その境界を突破する方法を編み出してくれたのがルナ嬢な訳だ。彼女から言わせると、その境界は人の魂でいう『魂の核を守る殻』に近いものではないか、とのことだった。深淵魔法でいうところの『外殻』なんだとか。かんだとか。

 懇切丁寧に説明してくれたルナ嬢には申し訳ないが、俺の頭では半分くらいしか分からなかった。
 話を聞いている途中、お嬢様に「ルナ様が仰っている言葉の意味が分かりますか?」とそっと耳打ちしてみたりしたが、お嬢様も至極真面目な顔で「とても楽しそうね」とだけ返してくるだけだった。それは確かにそうだった。やっぱり分からないよな、良かった、俺だけじゃなくて。

 ルナ嬢は俺たちが賞賛の言葉を送ると、いつも照れ臭そうにはにかんで俯いてしまう。

『私が今こうしていられるのは、全てリザ様のおかげなのです』

 そう言って感謝の気持ちを述べるルナ嬢に、お嬢様はいつだって得意げに微笑み、俺に向けて勝ち誇ったような顔を向けてくる。要するにドヤ顔である。大好きな親友に好かれているのがよほど嬉しいらしい。微笑ましいことで何よりである。

 さて、そんな風にお嬢様のドヤ顔を挟みつつ協力して研究を進めていた訳だが。試行錯誤を重ねること半年、ようやく高次存在への念話を繋ぐことに成功した。
 最初から相手が決まっているカコリスにかける時とは違い、宛先も分からないまま念話を繋がなければならない。
 故に、女神への念話は、ちょうど宇宙に電波でメッセージを送るかのように、『宛先を指定しない、受け取ってもらえることを期待した思考』を送り続ける形を取った。世界の境界を突破するのは頑張るから、あとは受け取ったそっちでこっちと繋いでくれ、という訳だ。

 上手くいくか、と聞かれれば半信半疑の方法だった。が、何も試さないよりはマシだし、何より、ルナ嬢が此処まで協力してくれてやっぱり無駄でした、とはしたくなかったので、俺は数日おきに念話を試していた。高次存在へ向けた念話は、割と疲弊しやすいのである。

 後半、こんなに苦労するならば最初から女神とも会話が出来るようにしておけば良かった。後悔というのはいつだって先に立たない。
 ため息まじりに抱いた後悔は、念話がある存在と繋がったことで更に大きなものに膨れることとなった。


   *  *  *


『────……、──……』
『ん?』

 ある夜。数日おきに試していた念話に、突如として返答があった。
 これまで遠い宇宙にメッセージを投げかけ続けるような行為を続けてきた俺としては一種の感慨深さを覚えたのだが、その直後────それらを上回る程の頭痛が襲ってきた。

『────閨槭%縺医∪縺吶°』
『……っ!?』
『閨槭%縺医∪縺吶°、豌ク譚セ遘?荵』
『ちょ、ちょっと待て……!』

 伝わってくる声は微塵も聞き取れない上に、尋常じゃないほどに頭が痛い。決して大きな声で響いている訳でもないのに、脳を揺さぶられているような酩酊感がある。
 念話を試すのは寝る前と決めていたので、仮に意識を失ったとしても倒れる先はベッドだ。怪我をするようなことはなさそうだが、外傷以外に致命的な負傷を負いかねないような気もする。

『──……』
『いいから、ちょっと一旦黙ってくれ』

 向こうの言葉が通じていないのと同じように、こちらの言葉も伝わっていないのかと思ったのだが、呻くように呟くと同時に、一度音声が途切れた。目を開く。予想通り、眼前にはベッドの布地が広がっていた。
 どうやら知らぬ間に倒れてしまっていたらしい。鍛えているし、カコリスの身体は割と丈夫な方だと思っているのだが、流石に意識に作用されては対処の使用がなさそうだ。

 手をつき、身体を起こす。発熱時の悪寒に似ている、気持ちの悪い感覚が身の内に巣食っていた。ぐるぐると回る視界を抑えるように片手を顔に当て、大きく息を吐く。

「もしかして女神じゃなくて別の存在に繋がってたりしないだろうな……」

 あまりにも異様な空気に、不穏な予想が頭をよぎる。

 俺とカコリスの念話も参考にして作った魔法ではあるが、女神宛のものがきちんと女神に届いているのかまでは分からない。
 相手を限定しない、受け取ってもらうことを前提とした発信方法にしたため、誰か別の存在に繋がっていないとも限らないのだ。いや、でも誰かって誰だよ、本当に宇宙人か?と思わず苦笑を浮かべてしまった俺の耳に、今度は念話ではなく、現実の音が届いた。

 ノックの音だ。顔を上げて扉へ視線を向けると、部屋の前に立っているらしいお嬢様の声がそれに続いた。

「ちょっと、ウスノロ! 起きているかしら? ここを開けなさい」
「如何致しましたか、お嬢様。就寝時間は過ぎておりますが」
「……今、闇の魔法の気配がしたように思うのだけれど、わたくしの気のせいかしら?」
「闇の魔法?」

 予想していなかった言葉に目を瞬かせてしまう。お嬢様が覚えている『闇の魔法の気配』とは、つまり治療時に見ている予兆の被害に似たものの筈だ。
 遠方の顕現自体を察することはできないようだから、恐らく身近にいれば感じ取れる、という程度のものなのだろう。以前はそんなものを感じ取れるような素振りは見せていなかったのだが、光魔法の使い手として更に成長しているということだろうか。

 ともかく、お嬢様の身近で、闇の魔法────魔王の予兆に当たる気配がした、ということになる。
 のだが。

 此処はお嬢様専用に隔離された塔であり、近くにいるのは俺だけである。そして今までこんなことを言われたことはなく、現状で『普段と違う』点を一つ挙げるとするならば、女神宛ての念話が何者かに繋がった、という事実だ。

「女神ではなく、魔王につながった……?」

 知らず、小さな呟きが溢れてしまう。そんな馬鹿な、とは思いつつも、その予感がどうにも拭えない。予兆と対峙した時の不安感と焦燥感を極限まで煮詰めたなら、ちょうど今俺が受けたような精神を破壊されるような感覚になるのではないだろうか。

 顎に手を当て考え込む俺に、お嬢様は訝しげな顔で片眉を上げた。

「魔王? 今、魔王と言ったかしら?」
「いえ、言っておりません」
「確かに言ったわ」
「言っておりません。言ったとしても覚えておりません。つまりは言っていないということでございます」

 いつぞやの論法をそのまま流用すれば、お嬢様の眉間には見事に皺が寄った。この無礼者を言葉で捻じ伏せてやりたい、という意志を感じさせる瞳が、俺を見上げている。何も言ってこないのは、単に言葉が見つからないからである。

「少なくともお嬢様が心配するようなことはありません。安心しておやすみになられてくださいませ」
「休んでいるわたくしを不穏な気配で叩き起こしておいてよく言いますわね」
「それは大変申し訳ございませんでした。敬愛すべき主人であるお嬢様を叩き起こしてしまうとは、何たる不覚。どうぞ頭を踏むなり靴を舐めさせるなり、お好きなように罰してくださいませ」
「結構よ! お前はわたくしを何だと思っているの!?」

 お嬢様を煙に巻くには慇懃無礼に振る舞うのが一番である。まあ、最近はさほど効いてはいないが。
 シャンデュエで初勝利を収めてからというもの、お嬢様は以前よりも落ち着きを持ち始めているように思える。挑発されたからといって瞬間湯沸かし器の如く反発することは無くなった──というより、此方の言葉の裏にある意図を見抜こうとするようになった、と言えばいいか。

 特殊な性癖を持つ人間だと思われているのが耐え難いのか、お嬢様は勢いよく叫んだ後、不満を伝えるように頬を膨らませた。

「人の上に立つのが何よりお好きな方だとは思っておりますよ」
「それは違うわ。わたくしが人の上に立つべき存在だからこそ、周囲が自ら跪き平伏するのを受け入れて差し上げているのよ」
「つまりさっさと自ら跪けと仰りたい訳ですね。大変失礼致しました、今跪きますので」
「結構よ! 二度も言わせないでちょうだい!」

 心底憤慨した様子で俺を睨んだお嬢様は、幾度か深呼吸を繰り返した後、なんとも納得のいかない、それでいて納得しようと思っているのは伝わってくる顔で、大きく鼻を鳴らしてみせた。

「全く、心配して損したわ! 乙女の睡眠時間を削るだなんて、本当にどうしようもない粗忽者ね、お前は。これ以上くだらないことに付き合うのは時間の無駄ですわね!」

 まとめた髪を振り回すように靡かせ踵を返したお嬢様に、いつも通り就寝の挨拶を送る。
 一瞬、此方を振り返ったお嬢様の瞳には此方の身を案じる光が宿っていたようにも思えたが、俺が何も言わずに唇を笑みの形に変えたのを見ると、やや納得がいかない様子ながらも自室へと戻っていった。
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