婚約破棄された令嬢と、そんな令嬢が片思いし続けている捻くれた先生の話

藍槌ゆず

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「────先生、今日はイチニア草の水やりからで構いませんか?」
「構わんが、先生というのはやめろ。ぼくはもう君の先生ではない」
「そうでした。では旦那様、イチニア草の水やりに行って参ります」
「………………噛まれないように気を付けろよ」
「はい!」

 公爵家子息マールズ・フィメルシアとの婚約破棄後、私の婚約者は早急に先生へと変わった。思わず拍子抜けするほど、あっさりと。

 それが先生と、先生が懇意にしている辺境伯の根回しによるものだと知ったのは、結婚生活を開始してから一月が経った頃だ。

 学園では偏屈な変人としての面しか目立っていない先生だが、一応は大陸でも有名な魔法植物研究の第一人者なのである。
 本職をほっぽり出してドラゴンの研究ばかりしているから学会でも干されかけたりしているらしいが、それでも先生を支援したい、という人間は案外多い。

 でもまさか、先生が後ろ盾の貴族に頼ってまで私との婚約を結んでくれるとは思わなかった。
 そう出来るだけの力があることは知っていたけれど、それでもまさか、ただの慰めではなく、本当に私と結婚してくれるだなんて、考えていなかったのだ。
 あの場で慰めてもらえたという事実だけでも、私にとっては一生の宝物にできるくらいだったのに。

 イチニア草の牙の生えた葉に水をやりながら、知らず微笑んでしまう口元を片手で押さえる。
 毎日が幸せでどうにかなってしまいそうだった。

 出来ればこの幸福が永遠に続きますように。
 もちろん、先生が嫌になってしまったらいつだってこの屋上を出ていくつもりだけれど。
 屋上。そう、屋上である。

 一応は『新婚夫婦』ということで私と衣食住を共にするとなった時、先生は長年住処にしていた屋上を改築した。
 居住地として使っているとはいえ、学園の屋上以外に選択肢はなかったのか?と呆れた顔で問う学園長に、先生はしれっとした顔で「彼処をぼくの好きにしていい、といったのは貴方だったと記憶しているが?」とだけ返していた。

 一応、私にも「本当にあそこで良いのかい」と確認がきたけれど、私は先生と暮らせるのなら何処だって構わなかったので笑顔で頷いておいた。
 お熱いことだね……と呆れた声で言われたような気がするが、その時の私は先生と共に暮らせる喜びで八割方聞き流していたと思う。いつものことなので失礼を咎められることはなかったが、あまり誉められた態度ではなかったので、後日お詫びとお礼の品を送った。

 学園長は、私が先生に盲目的なまでの恋をしているとご存知である。
 逆に言えば、学園長以外に私の恋心を知るものはいない。もちろん、私に熱烈なアプローチをされている先生本人を除いて、の話だが。


 私が先生に恋をしたのは、九歳の夏。魔法学園に入学する半年も前のことだ。ちょうど、実母が事故で亡くなり、父の愛人だった女性が後妻となった時だったと記憶している。
 私の両親は元々折り合いが悪く、父が母を愛してなどいないことは知っていたが、それでも喪が明けてすぐに籍を入れた時には愕然としたものだった。

 新しい家族での生活は、お世辞にも上手くいっているとは言えなかった。
 父は母譲りの容姿をした私を明らかに疎んでいたし、義妹となったキャロルは最初こそ『お姉さまとも仲良くしたいわ』と言っていたが、私が父に避けられていることを悟ると、すぐに父に倣って私を軽んじるようになった。

 義母は生活の保証さえされていれば構わないらしく、自分の娘が父に気に入られるように振る舞うばかりで私のことなど気にも留めない。下手に虐められるよりは良かったかもしれないが、少なくとも家の中に私の味方と呼べる人はひとりもいなかった。

 その事実に泣いたり喚いたりしなくても済む程度には母からの教育は済んでいた。もしかしたら父は、そういうところも気に食わなかったのかもしれないが、当時の私にできるのは何もかもを飲み込んで、平静を装って淑女らしく振る舞うことだけだった。

 ────そんなある日、先生は我が家の裏庭に降ってきた。上空から、謎の生き物に乗って。
 先生は意地でもあの時のことを『失敗』だとは認めないが、五年ほどかけて創り上げたらしい人造ドラゴン試作三号は、間違いなく融解しながら裏庭に墜落した。

 気づいたのは私だけだった。その時父たちは観劇に出かけていたし、私の部屋として与えられていた離れには使用人はほとんど近付いていなかったから。
 退屈と孤独を誤魔化すように、ひたすら本へと没頭していた私は、魔法で弱められていたとはいえなかなかに大きく響いた衝撃音に顔を上げ、窓際へと駆け寄り、そして、どろどろに溶けたなんらかの物体の中央で膝をついて頭を抱える細身の男性を見つけた。

 当時十八歳だった先生は、今よりも線が細くて、眼鏡はかけていなくて、ぼさぼさに伸ばした髪を無理やりひとつに束ねていて、そして、今と同じく人造ドラゴンに夢中だった。

「何故だ? 何故失敗した? 理論は完璧だった筈だ、古代魔法の詠唱も申し分なかった、何が足りない? 畜生、いつになったらぼくが考えた最強のドラゴンが生まれるんだ……!?」

 先生は、今も昔も、あまり常識といったものに頓着しない。人の家の裏庭に突っ込んでおいて、心配するのが自分の研究結果だけなのがその良い例だろう。

 のちの先生から言わせると、『あの裏庭にあたる場所は利便性も皆無で長年君の家が使っているからなんとなく君の家の敷地と見做されているだけで、厳密に言えば書類上は私有地ではないし、ぼくはぎりぎりまでそこを見極めてから降りた』ということらしいが。まあ、それは置いておくとして。

 先生は姿形を無くしていくドラゴンの残骸をなんとか小瓶に収めると、別の小瓶から取り出したなんらかの植物に庭に散らばった残りを消化させ、それから、開け放った窓からぽかんとした顔で覗いている私に気づいて、片眉をくいと上げた。

「どうした、小娘。見せ物じゃないぞ」
「…………」
「心配はいらん、此処は綺麗に片付けておく。いいから君はさっさと窓を閉めておやつでも食って寝ろ」

 知らない人と不用意に話してはいけません、と母には教わっていた。
 だから何故、その時の私が先生に話しかけたのかは分からないけれど、それでも、とにかく、私は言葉通りに場を綺麗に片付けて去ろうとする彼の背に呼びかけていた。

「あの……!」
「なんだ。言っておくがぼくは何も破壊していない、正確に言えば破壊した痕跡は残していないだけだが、そういう訳で親に言い付けても無駄だ。諦めることだな」
「あなた、誰なんですか? 天使様?」
「はあ?」

 さっさと立ち去ろうとしていた先生は、私の投げかけた言葉に不審そうな表情を浮かべて振り返った。

「あの、だって……空から落ちてきたから……」
「降りたんだ、落ちてない」
「じゃあ、やっぱり天使様なんですか?」
「なんでそうなる。君は双生記録の天使の絵画を見たことがないのか? あいつらみんな顔が二つあるだろう、ぼくの顔はどう見てもひとつだ」
「あれはミュビュタス様です。端に飛んでいる天使様は、お顔がひとつですよ」
「…………………………」

 母が生きていた頃はよく教会へ行っていた。世界の成り立ちを伝える神話だが、案外興味のない人は覚えていなかったりする。先生はどう見ても興味がなく、覚えていない側の人だった。
 先生はどこかバツの悪そうな顔で目を逸らすと、眉根を寄せたまま窓際に寄ってきた。

「ぼくは人間だ。飛んでいたあれはぼくが造ったドラゴン、他に質問は?」
「どうして此処に落ちてきたんですか?」
「降りたんだ、何度も言わせるな」
「じゃあ、どうして此処に降りてきたんですか? うちに用事ですか?」
「…………まあな」

 先生はもう既に『こいつかなり面倒臭いな』という顔をしていたように思う。
 確かに面倒臭かっただろう。先生はどう見ても子供の相手が得意なようには見えなかったし、その時の私は人付き合いに飢えた厄介な子供だったから。

「もしかして、私を助けに来てくれたんですか?」
「質問の意味が分からないな。どうしてぼくが君を助ける必要がある?」
「私が毎日一生懸命お祈りしてたから、お母様が天から遣わしてくださったのかと」

 そうだったら良いのに、と思っていたことをそのまま口にしていた私に、先生は少しばかり沈黙して、私の姿と屋敷を一瞥したのち、ゆっくりと口を開いた。

「君は助けられなければならないような状況にあるのか? 見たところ食事も与えられているようだし、暴力を振るわれている様子もない。身体的健康を維持するための義務は果たされているように見えるが」
「……でも、お父様も奥方様も妹も、私が嫌いなんです。ずっと顔を合わせてもいないし、今日も、私を置いて観劇に出かけてしまって……辛いです」
「ふうん。ぼくだったら嬉しいがね、自分を嫌いな奴に義理で付き合わされることほど最悪なことはない。つまらん家族ごっこに付き合わされるなんてこっちから願い下げだ」

 あっさりと言い放った先生の言葉を、私は三十秒近くかけて飲み込んだ。
 先生の言葉には慰めも同情もなく、それでいて私の悩みをまるで大したものではないと一蹴するその言葉に、なぜか私は胸の内が軽くなるのを感じたのだ。

 多分、あの時の私は『可哀想』だとは思われたくなかったのだ。だから誰にも相談しようと思わなかった。そして、おそらく対面した先生から、彼は同情を向けるような人間ではないと無意識に感じ取ったからこそ、つい悩みを打ち明けるような真似をしたのだろう。

「それとも、君は自分を嫌いな奴に丸一日つまらん劇の見物に付き合わされるのがお望みなのか? 結構な趣味だな。ぼくとは感性が合わないが、理解はできる。そういう馬鹿げた協調が大好きな人間は何処にでもいるものだ」
「……いえ、その……私、……そんなに羨ましく、ないです。一緒に行こう、って言われたら、多分、嫌です」
「そうか。ならば君は『嫌』なことをされていないのだから辛く思う必要もない訳だが? どころか、喜ぶべきだ。鬱陶しい邪魔者がわざわざ君と距離を取ってくれるのだから」
「…………そうですね」

 滔々と語る先生の言葉を聞きながら、私は知らず微笑んでいた。私は先生のようにきっぱりと割り切ることは出来ないし、邪険にされればどうしても寂しくはなるけれど、それでも、先生の価値観は私の傷を慰めてくれるものだった。
 何処かさっぱりとした私の表情に気づいたのか、先生は帰り道を確かめるように裏庭の向こうに目をやると、最後にひとつだけ付け加えていった。

「加えて言うなら、君はぼくがわざわざ助けなくとも、自分の力でなんとでも出来るだろう。いずれ君の知性と能力を必要とする人間が必ず現れる」
「……どうしてそう思うんですか? やっぱり、天使様だから未来が分かるんですか?」

 思わず尋ねた私に先生は呆れた顔を隠すこともなく、ぶっきら棒に告げた。

「君が手にしているその本は、本来我が校の三年生で使用する魔法技術論の指定図書だ。それだけで君の優秀さはそれなりに察せる。
 まあ、君がその本をただ文字をなぞるだけの遊びに使ってるなら話は別だが」

 先生が指差した先には、窓辺に駆け寄った私が抱えたままにしていた本が在った。腕の中の本を見下ろし、何度も読み返したそれの表紙をなぞる。これが教科書に指定されている本だとは知らなかった。私の手元には、まだ一年生時に必要な教科書のリストしか無い。
 三年生で使う教科書。私がひとり学んでいたことは、どうやら将来役に立つらしい。今が辛いばかりで将来のことなんて少しも考えていなかったけれど、そう思うと、何か希望が見えてくる気がした。

「他に質問は無いな。あっても帰るぞ、ぼくは忙しいんだ」
「あの、先生は何の教科を教えているんですか?」
「何を勘違いしているのか知らないが、ぼくはまだ学園を卒業していないし、先生でもない」

 当時の先生は卒業後に教師となる道を全力で拒否していたのだが、その時の私は当然、そんな事情は微塵も知らなかった。ちなみに、私が入学する頃には先生は卒業前に既に『先生』になっていたので、半年の間に学園長に丸め込まれたようだった。

「じゃあ、もう会えないんですか?」
「は? 会いたいのか? わざわざぼくに?」
「はい。もっとお話ししたいです」
「…………『もっと話したい』などと言えるような『おはなし』はしていなかった気がするがな」

 呆れ気味に呟いた先生は、それでも真剣な顔で見つめる私の視線を受けて、懐から取り出した紙の切れ端に氏名を書いて私へと寄越した。学園に入学した後ならば、卒業生相手でも取り次いでもらうことが出来るから、と。
 『ロディン・アルフスタイン』と角ばった字で投げやりに綴られたその紙は、いまだに私の宝物箱に仕舞い込まれている。

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