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 そこから半年、私は離れの書庫を読み尽くす勢いで一人の時間を満喫した。義妹も父も相変わらず私を蔑ろにしたが、『先生』に会うことを夢見る私にはもはやどうでもいいことだった。入学さえすれば、同じ学園の人間ということで彼と接点ができるのだ。
 もっと話がしたい。初めはただ、異なった価値観を見せてくれた人への憧憬に近かった感情は、入学までに再会を願う想いによって熱を得て、気がつけば恋の様なものに育っていた。

 庭に落ちてきただけの見知らぬ男に恋をするなんておかしいだろう。冷静な部分の私は確かにそう言っていたし、今でもたまにそう思うことはある。
 けれど、入学後、教員紹介で壇上に上がった先生が、百余名居る新入生の中から私を見つけて少し呆れた顔で唇を笑みの形に歪めたのを見た時、『冷静な私』は跡形もなく消し飛んでしまった。

 先生の目に映りたい、と思った。この一瞬だけではなく、これから先もずっと。
 私という人間がどんな性格でどんな生き方をしていて、どんな価値観を持っているのか、先生には知ってもらいたい、と思った。そして、私も先生という人を知りたい、と。

 先生の講義は必須科目ではなかったので、私は迷いなく選択科目で先生の授業を取った。わざわざ勉強の時間を増やしたい者は少なく、学園全体で四分の一ほどが選択したそうだが、大抵三回も授業をすれば嫌になって取り消す人が大半だった。

 先生の講義は確かに面白いが、受講者の年齢に合わせたものではないのが問題点だった。先生の対応学年は一・二学年と五・六学年だったが、年齢に関わらず講義内容を変えることはほとんどなく理解できないものは容赦なく振い落としていく。
 恐らく、学園長が先生を教師として雇ったのが、『ロディン・アルフスタインを野放しにするのは如何なものか』という学会からの要望故だったのが、このめちゃくちゃな授業形態の一因でもあっただろう。
 私としては先生の授業が受けられるので非常に嬉しかったが、多分、ほとんどの人は先生のことを偏屈で変人な碌でなし教師だと思っていたに違いない。実際、その通りなので仕方ない。
 それでも変わらず先生のことが好きだったので、私は意地でも先生の授業を取り続けた。

 そういう訳で、私は三年生に上がる頃には先生の授業はカリキュラムには存在しているのにも関わらず殆ど受講するものがいないと噂になっていた。
 対面形式の講義に至っては私以外誰もいない状態である。他の人たちは『まだ書面上の付き合いならマシ。授業は面白いし』と判断したようだ。たぶん、先生もその方が有難かっただろう。
 私は授業前には予習と称して先生に質問しに行き、授業後には前回の授業についての愛を込めた感想をレポートとして提出した訳だけれど。

 生来人付き合いが嫌いな先生はどうにも辟易している様子だったが、私が人造ドラゴンの研究に興味を示すと、ようやく私を自身のテリトリーに入れることを許してくれるようになった。




 そうこうしている内に一年が経ち、十四歳になった年、私には婚約者が出来た。家の繋がりや歴史ある貴族としての体面を保つために結ばれたらしい。

 私にとっては最悪の事態だった。
 それは私には既に心に決めた人がいたから、というのもあったし、マールズは私のことを明らかに良く思っていないから、というのもあったし、何より、私のものはなんでも欲しがるキャロルが、余計な厄介ごとを持ち込みそうだったから、というのもあった。

 だが一番最悪だったのは、私の婚約の話を聞いた先生が、『おめでとう』と口にしたことだった。

『おめでとう、良かったな。家名に相応しい人間との婚約だ、君もこれを機にそろそろ目を覚まして地に足をつけていくといい』

 先生はあっさりとそう言い放って、なんだかひどく安心した顔を見せた。誤った育成法で枯れかけた魔法植物が手を加えてようやく持ち直した時と同じような表情だった。

 もちろん、私はひどく、それはもうひどく傷ついた。今までどんなに邪険にされたとしても傷つくどころか嬉しいくらいだったのに、下手すれば優しげに聞こえる声音で言われたその言葉が、私の胸には抉るように刺さった。

 けれど、先生がそんな顔をする理由も分かっていたから、少なくとも表には出さなかった。先生は私の恋情を、『心が参っていた時に話した相手が自分しかいなかったから勘違いをしている』と思っているのだ。

 実際、きっかけはその通りなのでそれについては何も言えなかったが、少なくとも数年先生を思い続けたこの心は決して勘違いなどではなかった。そうでなければ、真面目な生徒としての対面を取り繕ってまで先生と共にあれるように努力などしない。でも、先生はそれを少しも信じていない。

 心が引き裂かれるかのように痛んだけれど、私はいつものように『政略結婚と恋愛は別ですよ、先生』とだけ笑っておいた。感情を隠すのは得意な方だ。
 何せ、四年生になってもいまだに私が先生を好きだと察しているひとはいないくらいだったから。みんな、私は病的なまでに魔植物学に興味がある学生だと思っている。

 教師である以上、生徒に恋慕の情を向けられているなんて噂は先生の迷惑にしかならない。私は別に先生の迷惑になりたい訳ではないから、表面上は熱心な生徒として上手くやっていた。

 先生曰く、『君がそうして付き纏ってくること自体が迷惑なんだが?』とのことだったが、迷惑になりたくないだけで迷惑をかけてでも一緒にいたいので、距離を取る案は即時却下だった。恋する乙女は迷惑なものなのだ。酷い話だったが、先生も酷い人なので、両成敗ということで許してほしい。別に、許されなくても思い続ける所存だが。

 マールズは既に父に何事か吹き込まれている様子だったので、私のことはお飾りの妻にして便利に使う気でいるようだった。それならそうと、表面上は上手くやってくれればいいのに、彼はその点があまりに拙かった。
 だからこそ父も公爵家の嫡男にしては扱いやすい、と目をつけたのだろうけれど。

 もしくは、貴族としての結婚に乗り気ではなかったキャロルをその気にさせるための当て馬だったのかもしれない。キャロルをその気にさせ、正式な手順で踏んだ婚約をマールズの方から破棄させ、都合よく事を運ぶつもりだったのかもしれない。

 ともかく、少しも円満とは言えなかった関係はやはり酷い結末を迎えた。
 結局は私にとってもマールズにとっても、多分父にとっても良い結果になったのだから、これはこれで良いのかもしれない。

 もしかしたら、先生にとってはあまりよくない結果だったかもしれないが、それでも、彼は本当に嫌だと思ったことは絶対にしないので、私とこうして結婚生活を送ってくれる時点で、少なくとも共に暮らすのが嫌な相手ではないのだろう。
 私が先生にとってそういう存在になれただけで、この先一生の幸せが確約されたようなものだった。これ以上の幸福はないし、これ以上を望んでしまったら天罰が下ってしまう。

 そう思って、今の幸せをただ噛み締めるように暮らしていたのだけれど、人間というのはやはりどこまでも欲深い生き物のようだった。



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