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「────ところで先生」
「…………、……なんだ」
「先生はいつになったら私の名前を呼んでくださるのですか?」

 ある日の昼下がり。昼食を終えて一息ついたところでそっと滑り込ませるように尋ねた私に、先生はやや渋い顔で黙り込んだ。
 引き結ばれた唇が妙な形に歪むのを見て、過ぎた願いだっただろうか、と訂正の言葉を重ねようとした私より先に、先生が口を開く。

「君の方こそ、ぼくの名前を呼んだところを聞いた覚えがないが?」

 いつもと変わりない口調で告げられたように聞こえたそれを理解するのに、私は丸々一分を要した。
 先生が紅茶のカップに口をつけ、半分ほど飲み込み、茶葉がよくないな、とぼやくのを聞いたところでようやく思考が追いついた始末だ。だって、あまりに衝撃的だった。

「…………呼んでもいいんですか?」
「……むしろ先生と呼ばれ続ける方が違和感があるがな。ぼくはもう君の先生ではない」
「それは確かに、そうですが」
「今はいいが、もし来客があった場合に妻である君がぼくのことを『先生』と呼び続けてみろ、ぼくが何某かの特殊な趣味を持っていると勘違いされかねん」
「…………それは、そうかもしれません」

 俯いて答えた私に、先生は何処か拗ねたように「笑うな、かなり真面目な悩みだぞ」とぼやいた。
 真面目に悩んでいることが更におかしくて笑いが止まずにいる私に、先生が催促するように机を指先で叩く。一息ついてから、俯いた顔を上げないままそっと呟く。

「……ええと、ロディ?」
「なんだ、メイベル」

 顔を上げなかったのは、実際のところ、彼の名前を呼ぶのがどうしようもなく恥ずかしかったからだ。好きな人の名前というのは、どうしてこうも甘美な響きを持つのだろう。
 そして、好きな人から呼ばれる自分の名前というのは、どうしてこんなにも愛おしく感じるのだろう。

 誤魔化すように俯いていた顔は何の意味もなく、耳まで赤くなった私に、ロディは呆れ混じりに言った。

「名前を呼ぶだけで赤くなるな、反応に困るだろう」
「……だって、……恥ずかしいです」
「恥ずかしい? 人を殴れる分厚さのレポートに口説き文句染みた言葉を連ねていた令嬢と同一人物とは思えない発言だな」
「あれは…………その、…………そうです、けど」

 そういえば、彼は今でもあれを持っているのだろうか? ふとそんなことが気になって──というより、この場の空気の居た堪れなさに他所ごとを考えようとした思考が脱線しかけたところで、カップを置いたロディが真っ直ぐな声で言葉を紡いだ。

「聡明な君なら察していることだろうが、ぼくは君の言う『恋』というものをこれまであまり真剣に取り合わなかった。軽んじていたとも言う。
 それは、君の口にする想いが、ぼくの感情を想定しないものだったからだ。君は自分が置かれた状況から逃避するために、ぼくという未知の存在を想うことで心の支えにしていた。……続けてもいいか?」

 顔を上げた私の物言いたげな視線に、ロディは伺うように付け足した。言いたいことはあるけれど、ひとまず頷く。
 彼が何か、とても大事な話をしようとしているのを察したからだ。

「別にそれを悪いという訳ではない、人間とはそのようにして感情の処理をすることがままあるからな。
 一応は教師として、生徒である君のそうした精神のバランスに気を配っていた、とも言える。まあ、これは嘘だが。面倒だから黙っていただけだ、嘘は良くないな。訂正しておこう。
 ともかく、今までの君はぼくがどうであろうと自分が好きだと言うだけで満足できていた訳だ。関係を構築することが前提ではなかったから好き放題言えていた、つまりは交際を始めるつもりのない告白だった訳だ。
 君は違うと言うだろうが、ぼくはそう受け取った、という話だからとりあえず受け入れてくれ。
 で、だ」

 言葉を区切ったロディは、いつものように気怠げに頬杖をつくと、視線だけは真っ直ぐに私を見つめた。

「ぼくらは動機や経緯はどうあれ、今は夫婦という形を取っている。君を悩ませる家庭の事情は殆ど無いと言えるし、ぼくはもう君の『先生』ではないし、君は表面上限りなくぼくの苦手なタイプの女性に分類されるが、ぼくは君個人のことは決して嫌いではない──し、むしろ今は好き寄りだとも言える」
「え」
「座れ」

 思わず立ち上がっていた私に、ロディは片手を押さえるように振った。ちょうど、落ち着かない馬にやるのと同じような仕草だった。

「君はもしかしたらぼくのことを血も涙もない男だと思っているかもしれないが、ぼくは自分の好きなことに一緒に夢中になってくれる上に共に暮らしている女性に何の好意も持たないほど感性が死んだ人間ではない」
「はい、存じております」
「座れと言ったが、聞こえなかったか?」
「聞こえました。ですので、隣に座り直そうかと」

 持ち上げた椅子を手に移動しかける私を見て、ロディは頬杖をついていた手でこめかみを押さえた。

「君のその螺子が外れた積極性は何処から来るものなんだろうな」
「溢れ出る想いから生じたものでは?」
「名前を呼ぶだけで照れていたくせに隣に座ろうとするな」
「嫌なら避けてくだされば、もう二度と致しません」

 椅子を抱えたまま真面目くさった顔で宣言した私に、ロディは一度途方に暮れたように天井を見上げてから、溜息と共に空いた片手で私を手招いた。
 犬でも呼ぶような仕草だったが、これ以上ないほどに嬉しかったので、私は喜びをそのまま表したかのような足取りで先生の隣に椅子を置いた。

「ロディ、私、今とても嬉しいです」
「そうか。ぼくはあまり嬉しくない」
「……嫌でしたか?」
「嫌じゃないが、君はどうしてそう、可愛い顔が三秒と持たないんだ? 即座に奇行に走るんじゃない」

 心底呆れたようにぼやいたロディは、そこで言葉も返せずに私の顔を見やると、少し意地の悪い顔で笑って言った。

「ああ、そうだな。そのまま十秒は持たせていてくれ」

 結局私は珍しく機嫌よく笑ったロディを前にして、三分ほどそのまま固まっていたのだが、満足そうに私の頭を撫でた彼に、『何秒くらいは可愛かったですか』と聞く勇気は、流石に無かった。


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