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 マールズが訪ねてきたのは、先生と結婚生活を始めてから一年が経った日のことだった。つまりは結婚記念日に突撃してきた訳である。
 婚約者としての彼はいつも私の楽しい気持ちをぶち壊すのがとても上手だったが、婚約を破棄してからもその手腕は変わらないようだった。

「メイベル! 君という女は、全く信じられないよ! キャロルに呪いをかけるだなんて!」

 扉を開けるなり、挨拶もそこそこに怒鳴りつけたマールズは、面倒臭さを隠すこともなく閉口する私を睨みつけると、「なんとか言ったらどうなんだ!」とさらに怒りを露わにした。

「信じられないのは貴様だ。人様の屋敷に先触れもなく乗り込んでくるな」
「ああ、ロディ。ごめんなさい、起こしてしまって」

 振り返るとロディが立っていた。
 休みの日は基本的に昼まで眠っている彼は、喧しい罵声で叩き起こされたことで限りなく機嫌を損ねている様子だった。
 別に常日頃から快活には程遠い人だけれど、今日は一層剣呑な空気を纏っている。

 階段の手すりに寄りかかるように立つロディは、しばらく寝起き特有の唸り声を上げた後、ぶっきら棒に言い放った。

「君も君だ。不審な男を相手に無警戒に扉を開けるんじゃない」
「……あの、一応、元婚約者ですけれど」
「だから何だ? そこの無礼者の正体が醜聞に相応しい不義理を働いた君の元婚約者であれば、早朝に断りもなく訪ねて玄関口で喚いていても不審ではないとでも言うつもりか?」

 ああ、これはかなり機嫌が悪い。
 どうしたものか、と困惑する私を軽く押し退けるようにして玄関口に出たロディは、今にも噛みつきそうな勢いで睨みつけてくるマールズを見下ろし、あくまでも淡々と言い放った。

「何の用だ、マールズ・フィメルシア。ぼくも、ぼくの妻も、君と約束をした覚えはないが」
「ええ、確かに。約束はしていません、連絡を入れなかったことは詫びます。でも、先生! こいつは僕の大事なキャロルに呪いをかけたんですよ!」
「先生と呼ぶな。もうぼくは君の先生ではない」

 寝起きのせいか、あまり気にしなくても良い点を律儀に訂正している。コーヒーでも淹れた方がいいだろうか、とキッチンの方向を振り返った私の耳に、尚もやかましく騒ぎ立てるマールズの声が届いた。

「先生だって分かっているでしょう! この女の卑劣なやり口を! 先生がどんな脅迫を受けてメイベルと結婚したか知りませんが、可愛い妹に呪いをかけるような女を庇うつもりですか! 見損ないましたよ!」
「見損なうも何も、ぼくは一度も君に尊敬されていた覚えはないが。ついでに言えば、君にぼくの妻を侮辱する権利は微塵もない。それ以上メイベルを不用意に貶めてみろ、貴様の顔面に大輪のカチュラスの花が咲く羽目になるぞ」
「ロディ、カチュラスの人体への使用は三十年前に禁止されてますよ」

 食肉花カチュラスは生きた生物を苗床にして成長する魔植物の一種だ。種子には小さな口がついていて、あらゆる生物に噛みついて取り憑き、養分を吸い上げて瞬く間に花を咲かせる。
 成長が早い代わりに種子を成す力が弱く、現在では人の手で育てない限り繁殖が出来ないとされている規制指定植物だ。
 ある種の魔物を吸い上げて咲かせた花が万能薬になるため、先生は国の許可を得てカチュラスを栽培している。

 と、脳内で並べ立ててしまうのは、ロディが私のことを『自分の妻』だと誰かに紹介するところを聞くのが初めてでかなり動揺しているからである。できれば、こんな碌でもない状況以外で聞きたかったけれど。

「それで? 早朝にわざわざ喧しく騒ぎ立てて訪ねてくるほど重要な案件とはなんだ?」

 私の突っ込みは無視することにしたらしいロディは、不機嫌さを隠すこともなくマールズを睨み下ろし、低い声で尋ねた。
 ロディの勢いに気圧されていたらしいマールズだが、促されたことで気を取り直したらしい。忘れることなく奥に立つ私を睨みつけた彼は、なんとも忌々しげに口を開いた。

「実は、キャロルが子供を授かったんです。もう妊娠して五ヶ月ほどになります」
「そうか、おめでとう」

 微塵もそうは思っていない口調だが、マールズに気にした様子はなかった。

「ただ、先月くらいから様子がおかしくて。夜中に急に叫び出したり、髪の毛が抜けてしまったり、異常に痩せ細ってしまったんです。最初は精神の病かと思いましたが、どうも違うようで詳しい医者に診てもらったんですよ、そしたら、『これは呪いだ』って言われて」
「そうか、大変だな」

 微塵もそうは思っていない口調だったが、やはりマールズは気にすることなく続けた。

「可愛いキャロルに呪いをかけるような人間はメイベルしか思いつきません! みんなに愛されているキャロルを妬んで呪いをかけるなんて最低の女です、やはり母親譲りで品性が下劣で性根が腐って」
「メイベル、湯は沸いたか?」
「珈琲用に沸かしましたが」
「持って来てくれ」
「人にかける用ではないので嫌です」

 しれっと断った私を、ロディが渋い顔で振り返る。魔法を使って追い返さない辺り、彼はまだ寝ぼけているようなので、早急に珈琲が必要だった。
 とりあえず彼の分だけカップに淹れてから、玄関口まで持っていく。一応来客であるし、なんだか話も長引きそうな気配がしていたが、ロディは意地でもそこから先にマールズを入れるつもりはないようだった。

 受け取ったカップを開き切っていない目で見下ろしたロディは、それ自体をマールズにかけるか否か数秒迷った様子だったが、せっかく淹れた珈琲がもったいないと思ったのか、素直にそれを口にした。

「このまま愛しいキャロルが苦しむ様を見ているだけなんて耐えられません! 今すぐそこのメイベルに呪いを解かせなきゃならないんです! 先生、退いてください!」
「断る」
「何故です!? そいつは罰せられるべき女なんですよ!」
「君の訪問は何一つ正規の手順を踏んでいないし、時間も非常識だし、その上ぼくの妻を証拠もなく犯罪者呼ばわりしている。退く理由がひとつもない」

 相手をするのも面倒だと言わんばかりのうんざりとした様子で告げたロディは、それでも無視して彼を押し退け入ってこようとするマールズの足を思い切り踏みつけると、玄関扉の向こうへと押し返した。

「大体、君はメイベルが君のいとしい、なんだ? なんちゃらを妬んでいるだとか言っているが、どうしてメイベルが君の愛しのなんちゃらを妬まなければならないんだ?」
「どうしてって、そりゃあ、キャロルは可愛くて可憐で、花が綻ぶように美しくて、みんなに愛されているからですよ! メイベルみたいに勉強くらいしか取り柄のない愛想もない女は、キャロルみたいに愛される女が気に食わないものでしょう?」
「残念ながらぼくの愛しい妻は勉学に優れ、たおやかな花のように美しく、好きな人間の前では限りなく可愛らしい、愛嬌の塊のような女性なので、君の愛しのなんちゃらを妬む要素はひとつもないんだが?」

 急いでキッチンに引っ込もうとした私は、そこで珈琲を手渡すほど近い距離にいたことにより逃げそびれ、ロディに腰を抱かれて引き寄せられる羽目になった。両頬が信じられないほど熱い。
 こんな状況で馬鹿みたいに顔を赤くしているのは更に恥ずかしいので、私は精一杯平常を取り繕った。が、ものの見事に失敗した。

「……せ、先生には、そのように見えているのかもしれませんが、欲深いメイベルは先生ひとりに愛される程度じゃ満足できないんですよ! キャロルのように大勢の人間に愛されたいと分不相応に望んでいるんです!」
「はあ、そうなのか?」
「えっ?」
「そうなのか?」
「え、っと」
「君はぼくに愛されるだけでは満足できないのか?」

 何故ここで私に振るんですか、と叫べるものなら叫びたかった。
 しかし、此方に視線を向けて尋ねるロディの瞳があまりにも真摯な光を宿しているものだから、私は情けないほどに赤い顔で狼狽えながら、必死に否定の言葉を探すことしかできなかった。

「そんな、そんなことありません……私……あなたに愛されるだけで、永遠の幸福を得られるくらいに満足だわ……」

 あまりのことに何処か呆然としながら呟いてしまった私に、ロディは特に感情を揺らすでもなく、ごく当たり前のことだとでもいうように頷いてみせた。
 彼が一切の動揺を見せないのは私がこの数年間で過剰な愛を向けすぎたからだと分かっているが、どこか謎の悔しさを覚える。

「こういう訳で、君の証拠もない妄言に付き合っている暇はない。証拠さえあれば幾らでも話に付き合おう、とりあえず帰ってくれないか」
「し、しかし、その、」
「あと人の妻を変な目で見るのはやめてくれないか」
「み、見てない! 見ているわけないだろ!」
「ついでに言えば君のその愛しのなんちゃらだが、恐らく呪いの元は君らの間で交わした魔法契約じゃないか? 君らみたいな交際関係にある男女はよく不貞の際に発動する類の品のない紋様付きの呪いを組み込んだ契約をするだろう、若気の至りで。どうでもいいことだが」
「僕はメイベルのことなんてなんとも────、えっ?」

 何事かを必死に否定しようとしていたマールズは、不意に石化でもしたかのように固まると、呆けたようにロディを見上げ、やがてじわじわと青ざめ始めた。

「えっ……? いや……そんな……」
「ああ、失礼した。いくら君達が恋に浮かれていたとしても、あんな原始的な作りの契約を結ぶはずが無いな。生命に関わる呪いがいかに危険で取り返しがつかないかは、学園でも十二分に学んでいるだろうし」
「……それは……そ、その通りです、僕らはそんなことしていません、そんな、貴族として恥知らずな真似は……全く……」
「そうか、そうだろうな」

 相も変わらず微塵もそうは思っていない口調だったが、今のマールズに気にする余裕はないようだった。

「ええと、でも、先生? あの、もし、もしですよ、その契約を結んでいたとしたら、……その、ど、どのように対処すればいいんですか? 是非聞きたいです、こ、後学のために」
「勉強熱心で何よりだ、マールズ・フィメルシア。ただ残念なことにぼくは魔法契約を専門とはしていないので君の知的好奇心を満足させる答えは返せない。まあ、少なくともぼくが君だったらウォンド先生の元に走るだろうな。今すぐに」

 ロディが言い切るより早く、マールズは挨拶もそこそこに踵を返して走り去った。幸いなことに、ロディと私の家は学園の屋上にある。ロディは授業がない日ので休みだったが、ウォンド先生は講義があるので学園に居ることだろう。

「……キャロルが無事で済むといいですね」
「あまりそう思っているようには聞こえないな」
「先生ほどでは」
「メイベル」

 気の合わない義妹だったが、命を落としてほしいとまで思ったことはない。ただ距離を取りたかっただけだ。そしてそれが叶っている今、過剰にキャロルの不幸を願うこともない。だって、私は今、これ以上ないほどに幸せなのだ。他人の不幸を願うことに割くような時間はない。

 そんなことを考えながら受け答えをしていた私に、先生は何処か咎めるように呼びかけた。抱き寄せられたまま囁かれ、驚きと共に見上げてから数秒、ようやく気づく。

「ごめんなさい、マールズにつられてしまって」
「憎たらしい事実をわざわざ追加しないでくれ。事実だという点が更に憎たらしい」

 眉を顰めたロディを前に申し訳なさが募っていく。朝から妙なことに巻き込んでしまった上に機嫌まで損ねてしまうなんて、妻としては失格だろう。更に謝罪を口にしようとして、一度考え直してから、私は此方を見つめるロディにそっと口付けた。
 寝起きのせいか眼鏡をかけていないロディの瞳が僅かに見開く。彼の瞳は近くで見ると奥の方に青色の輝きを宿しているのだと、初めて知った。それはそうだ、だって、こんなにも近くで、きちんと見るのは今日が初めてなんだから。

「……あの、機嫌、直してくれたかしら」

 躊躇いがちに唇を離した私に、ロディは緩く目を細めた。

「メイベル、ぼくは今日休みなんだが」
「…………ええと、その、ねえ、待って」
「実のところぼくは既に三ヶ月くらい『待っている』という話をするべきか? 君がこれ以上待たせたいというならぼくを待たせるだけの理由を述べてくれ」

 反論はひとつも浮かんでこなかった。そんな素振り少しも見せなかったのに、だってまさか、彼がそうしたいと思ってくれるなんて、なんて浮ついた思考ばかりが脳内を占めていく。
 結果、真っ赤な顔で頷くことしかできなかった私を、ロディは小さく鼻で笑ってから抱き抱えるようにして寝室に運んだのだった。


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