悪辣姫のお気に入り

藍槌ゆず

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[ダニエル視点] 前 ①

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 ミシュリーヌ・シュペルヴィエル公爵令嬢の名を知らぬ者は、この学園には一人もいない。

 艶やかな紫紺の髪に、理知的な輝きを放つシアンブルーの瞳。
 女性にしては些か高めの身長はその凛とした立ち姿により洗練された美しさを誇り、爪の先まで磨き上げられた麗しい所作に加え、学園内トップの成績を収めながら剣術では教師すら圧倒する腕前。
 それでいて女性としてのしなやかな美しさを一切損なわない様は、まさに令嬢の鑑といって差し支えな──いや、差し支えはあった。謹んで訂正する。

 ミシュリーヌ・シュペルヴィエル公爵令嬢。
 その『哀れな飼い犬』こと俺──ダニエル・グリエットの婚約者様は、学園内でその悪行を知らぬ者は無い、と断言できる程には破天荒で碌でもない女だ。

 入学式では下賤な者どもと同じ扱いなど言語道断と言わんばかりに豪奢に飾り立てた椅子を運び込み、
 新入生代表の挨拶ではその椅子に腰掛けたまま、自分が用意した文面を俺に読み上げさせ(そのせいで、俺は殆どミミィの使用人だと思われている)、
 適した指導を行おうとした教師、あるいは上級生には個人的な弱みから社会的な弱みまで調べ上げて黙らせ、
 特待クラスとなってから初めの授業では『こんな低レベルな授業を受ける為に入学した訳ではないのだけど』などとほざいて空気を凍り付かせ、
 挙げ句の果てには耐え切れず激昂した教師の代わりに丁寧かつ分かりやすい授業を行いプライドを粉々に破壊し(実技訓練でも全く同じことを仕出かした)、
 正義感にかられ、あるいは自身の矜持を守るべく歯向かう生徒には幼少期の人には言えない失態や秘密すら掘り起こして制裁を加えた。

 その結果、セレネストリア学園では『〝悪辣姫〟には関わるな』が暗黙の了解になっている。
 悪辣姫とは、我が愛しの婚約者様も大層な渾名を貰ってしまったものだ。
 当の本人は「あら、高等部になってまで『お姫様』呼ばわりなんて、照れちゃうわね」などと笑っていたが。

 全く、どうしてこんな、誰の手にも負えないトンデモお嬢様の婚約者が、周囲に名前どころか顔も覚えて貰えない俺のような男なのだろう。

 名ばかりの伯爵家に過ぎない俺の実家がシュペルヴィエル家からの婚約に逆らえなかったのは致し方ないとして、何の面白みも無いそこらの背景みたいな俺と、飽きずに六歳から十六歳の今まで婚約を結び続けているのはどういう理由があってのことなのか。

 ミミィに婚約の理由を聞いたところで、『その辺に居て都合が良かったからよ。特別な理由でも欲しかったの?』としか答えてもらえない。
 実際その通りなのかも知れないが、それはあくまでも婚約を結んだ理由であって、結び続ける理由にはならない気がするのだが。

「────ダン、ぼうっとしていないで紅茶を淹れて頂戴。美味しいお菓子が手に入ったの、見合う物を用意なさいね」
「ん? ああ、すまない。すぐに用意するよ」

 シュペルヴィエル家の中庭。
 降り注ぐ日差しの中、ぼんやりと己の人生の行先について考えていた俺は、優雅に腰掛けるミミィの声にはっとして茶葉の用意を始める。

 公爵家の使用人達が淹れる茶の方が余程美味いだろうに、ミミィはいつも俺に紅茶を淹れさせる。
 初めの頃はボロクソに言われたものだ。元より出来ると思ってやっていないから特に心に傷を負うこともなくハイハイとやっていた結果、今では文句を言われることは殆ど無くなった。
 同年代の男たちが剣術と勉学に力を入れている中、紅茶を極めてしまった訳だ。誇って良いかは微妙なところである。

 並んだ焼き菓子に合うように選んだ茶葉を蒸らし、繊細な装飾の施された茶器へと注ぐ。
 カップに注がれたそれはミミィのお眼鏡にかなったようで、目を閉じ香りを愉しんだ彼女の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。

「……何やってるの? 貴方も座りなさい」
「いや、俺は良いよ。此処が落ち着くから」
「座りなさい、と言ったのよ」

 学園内には使用人も連れていくことが出来る。しかし『学び舎は貴賎なく皆平等』を信条として掲げる学園でそんな真似をするのは、余程の有力貴族のお嬢様が数人程度で、ミミィも学内では俺を手足として使うだけで使用人は連れていない。
 必然的に俺が使用人のような立ち位置になり、授業中から放課後に至るまでミミィの左後ろに控えているものだから、入学から半年も経った頃には後ろに立っている方が落ち着くようになってしまった。

 一応、剣術や魔法の実技には参加しているが、大体は家でミミィに習った方が分かりやすく覚えも良いので、座学は殆どミミィの後ろで試験範囲のメモと、ミミィの『授業内容の査定』に付き合っているだけだ。
 万が一にも誤った知識を教えるようなことがあれば、即座にミミィの指摘が飛ぶ。こいつはどうしてわざわざ学園に通っているのだろうか。
 トンデモ婚約者の奇行は今に始まったことではないので、俺は深く考えることなく、ただひたすら、教師を詰るミミィの指摘に熱が入りすぎないよう適度に諫める役を買って出ている。
 幼い頃に決まった婚約関係はもう十年になる。これでも長い付き合いであるせいか、ミミィは案外、俺には甘い所があった。

「お、これ美味いな。何処の店で買ったんだ? 俺も買いに行きたい」
「さあ、忘れてしまったわ。何処だったかしらね」
「なんだよ、教えてくれたっていいじゃないか。買い占めたりしないぞ、俺は」
「私と違って?」

 口元に手を当て、機嫌良く笑うミミィの揶揄うような声に、頷くことも首を振ることも出来ず目を逸らす。
 こいつは以前、中等部の学園祭で、楯突いてきたクラスが用意するつもりだった材料を買い占め、出店不可に追い込んだことがある。
 公爵家から資金提供は無く、あくまでも個人の買い物だったというのだから、何とも恐ろしい話だ。しかもその後きっちり売り捌いて利益まで上げていた。

 妙なことを突っつくと後が怖い。今はどうしてか妙に機嫌が良いようだが、何処で逆鱗に触れるか分からない。
 俺は黙って、ふっくらと焼き上げられた菓子をかじることに集中した。本当に美味い。先週出された有名店の菓子よりも香りが良く、上品な後味は非常に俺好みだ。

「うん、いや、本当に、美味いなあ、これ」
「あらそう、良かったわね。その辺の貴族如きは一生かかっても口に出来ない代物なのよ、感謝して食べなさい」
「おかわりある?」
「……そんなに気に入ったの?」
「うん、美味い」

 甘い物は好きだ。ただ、甘すぎるのは良くない。
 我が国の砂糖は少しばかり癖が強く、何を焼いても後味がくどくなってしまいがちだ。だが、これは外国産の砂糖か、もしくはそれ以外の物を使用しているのか味わいがさっぱりしていてとても美味しい。
 酸味のある果実が練り込まれているのも最高だ。本当に、何処の店のものなんだろうか。

 教えて貰えないかなあ、と目を向ける俺に、ミミィは片眉を上げて軽く手を振った。側に控えていた侍女のルーシェさんが、銀盆に乗せた皿を、テーブルの上の空皿と入れ替える。
 美しく盛り付けられた焼き菓子を前に、俺は思わず素直な気持ちを口にしていた。

「持って帰っていいかな。家でも食べたい」
「……もしかして貴方、お昼を食べ損ねたの? だからそんなに卑しく口に頬張っているのかしら、躾のなってないリスみたいね」
「リスって躾出来るのか?」

 反射的に尋ねた俺に、ミミィは軽く首を傾げてみせる。

「犬や猫のようにはいかないでしょうね。噛み癖を直すのが大変らしいけれど、飼う予定なんてないし。ああ、そういえば排泄の躾には期待できないようね。あら、此処は貴方と同じかしら? 意外な共通点ね」
「……七歳の時の話なんて持ち出すなよ」
「私は物心ついてからはそんな粗相したことないもの」
「お前と比べないでくれ。あと、食事時にそんな話もしないでくれ」

 ぶすくれる俺の前で、ミミィはやはり機嫌良く笑った。至極真っ当な指摘だと思うのだが、一体何が面白いのだろうか。

 学園内では圧政を敷く暴君のような扱いを受けているミミィだが、学園外では比較的穏やかな一面もある。
 一面、というだけで碌でもないことを仕出かすには変わりないのだが、こうして毎週のように婚約者である俺を屋敷に招待してくれる辺り、情の無い人間という訳でもない。

 彼女はいつだって自分がやりたいことを成す為に手段を選ばず、躊躇もしないというだけだ。
 それが限りなく厄介であるのだが、今のところ犯罪行為には手を染めていない――筈――ということで公爵夫妻もある程度好きにさせている。

 あと、単純にミミィには異様な商才があるものだから、何かと金を積んで解決しようとする娘に対し、諦めを持って許容するしかなくなっているようだった。
 『世の中、金で解決出来ないこともあるのだからね』と溜息交じりに札束を突き返す旦那様に『勿論分かってるわ、お父様』と満面の笑みで返すのが恒例となっている。本当に分かってるんだろうか、こいつ。

「ダン」
「なんだよ」
「美味しい?」
「ん、うん。美味い」

 俺と同じ背丈であるくせに座れば目線が下になるミミィは、それでも上から見下すように顎を持ち上げると、美しい相貌の威力を余すところなく発揮した微笑みで、じゃあ次も同じ所の菓子を用意してあげるわ、とやや弾んだ声で口にした。

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