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「私……ずっと黙っていようと思っていたんです……でも、でももう、耐え切れなくて……アスター様に頼るしかないんです……」
儚げな見目の美少女が目の前で泣き始めたその時、アスターはとりあえず『とんでもなく面倒なことになったな』と思った。が、何とか顔には出さずに済んだ。
気丈に振る舞おうにも耐え切れない、という演出が非常に巧みな様子で涙を零す少女の名を、アスターは正直あまり覚えていない。興味がないというのもあるが、何よりミューリアが『関わるな』と言っていた少女だからである。
此方からは関わらないようにしているのに向こうが勝手に関わってくる場合はどうすればいいのだろう。アスターは静かな場所を求めて裏庭で本を読むことに決めた三十分前の自分をひどく恨んだが、もはや後の祭りであった。
「実は私の教科書が切り裂かれていて……こんなこと、言いたくないんですが、私の鞄をミューリア様が……ぐすっ……漁っているのを見た、という人が……」
無いな、とアスターは思った。が、やはり顔にも声にも出さなかった。
ミューリア・ベラスタインはそんなまどろっこしいことをするなら雇った暴漢に路地裏で本人を切り裂かせる女だぞ、とも思ったが、言葉の欠片すら音にはしなかった。面倒だからである。
あと多分、鞄を漁るなら誰か適当な手駒にやらせるので、絶対に本人が見掛けられることもない。そもそも教科書だけを切り裂いたりもしない。
ミューリアは、自分が気に食わないものは本気で傷つけても構わないと思っているし、アスターは実際『不慮の事故』で学園から消えた生徒を何人か知っている。
「制服にも手が加えられていて……スカートに剃刀が……私、怖くて……もうアスター様しか頼れる方がいなくて……」
多分僕にも頼らない方がいいな、と思ったが、アスターは意地でも言葉にはしなかった。こんな風に二人でいるところを見られればスカートに剃刀どころではなく、僕と君の首にギロチンが当てられるぞ、とも思ったが、全身全霊をかけて聞こえないふりを続けた。
「お願いします、アスター様! どうか助けてください、ミューリア様がいると知りながらアスター様に思いを寄せた私にも原因があることは分かっています、でも、これはあまりにもひどすぎます……!」
仮にそれらがミューリアの仕業だとしたら、かなり、大分、非常に、限りなく軽い部類じゃないか、と思ったが、アスターはもはや口を開くことどころか思考することすら面倒になったので全てを放棄することにした。
見目麗しい少女は目に涙を溜めながら両手を組んで震えていたが、アスターは広げた本の文面を追っているふりを続けて沈黙を貫いた。
黙っているうちに消えてくれないかな、と割と本気で祈っていた。
十ページ読んでも消えていなかったら僕がこの場から去ることにしよう。
そんな現実逃避に励みながらページをめくっていたアスターは、不意に白く小さな手が己の手に重なったのを見て、突然手のひらに毛虫が落ちてきた時の令嬢と大凡変わらない顔をしてしまった。悲鳴を上げなかっただけマシである。
「アスター様がミューリア様に恩義を感じていることは分かっています……ですが、不用意に他者を虐げる女性と添い遂げて幸せになれると思いますか? アスター様にはもっと心根の優しい、清らかな女性が似合う筈です」
まさかそれが自分であるなどとは言わないだろうな、という文言が口から出かかったのを意地でも飲み込んで、アスターはあくまでも自然に、元からそのようにするつもりでしたよ、とでも言うかのような仕草でその場から立ち上がった。無論、さりげなく少女の手を振り払うのを忘れずに。
栞を挟んで本を閉じ、小脇に抱えてベンチから離れる。あっけに取られた様子でアスターを見ていた少女は、慌てて彼の後を追った。
「待ってください、アスター様! 私の話を信じられないというのなら、証拠があります!」
証拠なんてない、と断言できた。切り裂かれた教科書も、スカートに仕込まれた剃刀も、特に証拠にはならない。いくらでも自演が可能だからだ。
それに、そもそも、ミューリアが本気でこの少女を害するつもりなら、証拠自体が残らない。少女本人を含めて。
頼むから僕のそばから離れてどこか別の男に興味を持ってくれ、とアスターは何度目になるかもわからない祈りを神へと送った。多分叶えてはくれそうになかった。神がアスターに与えたものは類まれな美貌とそれなりの家柄、ごく平凡な出来の頭脳、そして、この世で最も厄介な婚約者のみである。
アスター・グランバルツがミューリア・ベラスタインと婚約するに至った理由は家同士の事情を含めて幾つかあるが、公爵家令嬢である彼女が子爵家令息のアスターを気に入ったのはその美貌故である。少なくとも、アスターはそのように認識している。
五年前、ミューリアは令息を幾人か呼んだ茶会の中で、一人離れた場所で持ち込んだ本を読んでいたアスターを指して言った。『あれがいいわ、一番見目がいいもの』と。
ミューリアに気に入られようとあれこれ媚び諂っていた男たちからは当然睨まれたが、実際のところアスターの見目は他を圧倒するほどには整っていたので、じきにほとんどの令息が諦めたようだった。
それ以来、アスターはミューリアの所有物だ。アスターはミューリア以外の令嬢と話すことを禁じられているし、ミューリア以外を愛してはならないことになっている。
生来人付き合いが苦手なアスターからすれば逆にありがたいこともあるのだが、何せ見目が異様に整っている男である。相手があのミューリア・ベラスタインだと言うのにアスターに懸想する令嬢は後を絶たない。
その度にミューリアが必要もない牽制に動くので、アスターは何度か自分の顔を潰そうかと考えたことがあるが、そうなるとミューリアがアスターと婚約を結び続ける理由も無くなるため、その案は実家から直々に却下されていた。
グランバルツ子爵家は、何が何でもベラスタイン公爵家との繋がりを断ちたくはないのだ。文官であるアスターの兄が王城内でのし上がるためには公爵家の後ろ盾が必要なのである。そして、家族は全員、役にも立たない娯楽本ばかりに夢中なアスターより、優秀な兄の方がよほど大事であるわけだ。
ほとんど身売りに近い扱いであることに、アスターは特に不満を抱いたことはない。
政略結婚という点においては大抵の家の令嬢はアスターと同じような扱いを受けているし、ミューリアは確かにとんでもなく悋気の強い女性だが、アスターを気に入っていて、ある程度自由な生活を保証してくれることは確かだからだ。
あとは結婚して子を成し、ミューリアが老いたアスターに飽きて捨てるまで公爵家の婿として暮らしていればいい。何ならミューリアは案外情のある女性だから、もしかしたら愛人を作っても家に置いてもらえるかもしれない。
アスターの人生設計は概ねそのように固まっていた。あとは魔法学園を平穏無事に卒業するだけである。
それがとんでもなく難しいんだが、というのがここ数年続くアスターの悩みであった。
言いつけ通り、アスターからは断じて手など出していないし会話もしていないが、いつミューリアに誤解されて、声をかけてきた令嬢ともども『不慮の事故』に巻き込まれるか分かったものではない。
できれば無事に寿命を全うしたい。基本的に信念も目標もなく生きているアスターのただ一つの願いがそれだった。
それを叶えてくれるのならなんだってする、頼む、なんだってするぞ、とまだ見ぬ神に祈っていたアスターは、裏庭を出ようと旧校舎の周りを回るように曲がったところで、『神などいない』と確信した。
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