悪虐令嬢、触るな危険

藍槌ゆず

文字の大きさ
1 / 3

しおりを挟む


「私……ずっと黙っていようと思っていたんです……でも、でももう、耐え切れなくて……アスター様に頼るしかないんです……」

 儚げな見目の美少女が目の前で泣き始めたその時、アスターはとりあえず『とんでもなく面倒なことになったな』と思った。が、何とか顔には出さずに済んだ。

 気丈に振る舞おうにも耐え切れない、という演出が非常に巧みな様子で涙を零す少女の名を、アスターは正直あまり覚えていない。興味がないというのもあるが、何よりミューリアが『関わるな』と言っていた少女だからである。

 此方からは関わらないようにしているのに向こうが勝手に関わってくる場合はどうすればいいのだろう。アスターは静かな場所を求めて裏庭で本を読むことに決めた三十分前の自分をひどく恨んだが、もはや後の祭りであった。

「実は私の教科書が切り裂かれていて……こんなこと、言いたくないんですが、私の鞄をミューリア様が……ぐすっ……漁っているのを見た、という人が……」

 無いな、とアスターは思った。が、やはり顔にも声にも出さなかった。
 ミューリア・ベラスタインはそんなまどろっこしいことをするなら雇った暴漢に路地裏で本人を切り裂かせる女だぞ、とも思ったが、言葉の欠片すら音にはしなかった。面倒だからである。

 あと多分、鞄を漁るなら誰か適当な手駒にやらせるので、絶対に本人が見掛けられることもない。そもそも教科書だけを切り裂いたりもしない。
 ミューリアは、自分が気に食わないものは本気で傷つけても構わないと思っているし、アスターは実際『不慮の事故』で学園から消えた生徒を何人か知っている。

「制服にも手が加えられていて……スカートに剃刀が……私、怖くて……もうアスター様しか頼れる方がいなくて……」

 多分僕にも頼らない方がいいな、と思ったが、アスターは意地でも言葉にはしなかった。こんな風に二人でいるところを見られればスカートに剃刀どころではなく、僕と君の首にギロチンが当てられるぞ、とも思ったが、全身全霊をかけて聞こえないふりを続けた。

「お願いします、アスター様! どうか助けてください、ミューリア様がいると知りながらアスター様に思いを寄せた私にも原因があることは分かっています、でも、これはあまりにもひどすぎます……!」

 仮にそれらがミューリアの仕業だとしたら、かなり、大分、非常に、限りなく軽い部類じゃないか、と思ったが、アスターはもはや口を開くことどころか思考することすら面倒になったので全てを放棄することにした。
 見目麗しい少女は目に涙を溜めながら両手を組んで震えていたが、アスターは広げた本の文面を追っているふりを続けて沈黙を貫いた。
 黙っているうちに消えてくれないかな、と割と本気で祈っていた。

 十ページ読んでも消えていなかったら僕がこの場から去ることにしよう。
 そんな現実逃避に励みながらページをめくっていたアスターは、不意に白く小さな手が己の手に重なったのを見て、突然手のひらに毛虫が落ちてきた時の令嬢と大凡変わらない顔をしてしまった。悲鳴を上げなかっただけマシである。

「アスター様がミューリア様に恩義を感じていることは分かっています……ですが、不用意に他者を虐げる女性と添い遂げて幸せになれると思いますか? アスター様にはもっと心根の優しい、清らかな女性が似合う筈です」

 まさかそれが自分であるなどとは言わないだろうな、という文言が口から出かかったのを意地でも飲み込んで、アスターはあくまでも自然に、元からそのようにするつもりでしたよ、とでも言うかのような仕草でその場から立ち上がった。無論、さりげなく少女の手を振り払うのを忘れずに。

 栞を挟んで本を閉じ、小脇に抱えてベンチから離れる。あっけに取られた様子でアスターを見ていた少女は、慌てて彼の後を追った。

「待ってください、アスター様! 私の話を信じられないというのなら、証拠があります!」

 証拠なんてない、と断言できた。切り裂かれた教科書も、スカートに仕込まれた剃刀も、特に証拠にはならない。いくらでも自演が可能だからだ。
 それに、そもそも、ミューリアが本気でこの少女を害するつもりなら、証拠自体が残らない。少女本人を含めて。

 頼むから僕のそばから離れてどこか別の男に興味を持ってくれ、とアスターは何度目になるかもわからない祈りを神へと送った。多分叶えてはくれそうになかった。神がアスターに与えたものは類まれな美貌とそれなりの家柄、ごく平凡な出来の頭脳、そして、この世で最も厄介な婚約者のみである。

 アスター・グランバルツがミューリア・ベラスタインと婚約するに至った理由は家同士の事情を含めて幾つかあるが、公爵家令嬢である彼女が子爵家令息のアスターを気に入ったのはその美貌故である。少なくとも、アスターはそのように認識している。

 五年前、ミューリアは令息を幾人か呼んだ茶会の中で、一人離れた場所で持ち込んだ本を読んでいたアスターを指して言った。『あれがいいわ、一番見目がいいもの』と。
 ミューリアに気に入られようとあれこれ媚び諂っていた男たちからは当然睨まれたが、実際のところアスターの見目は他を圧倒するほどには整っていたので、じきにほとんどの令息が諦めたようだった。

 それ以来、アスターはミューリアの所有物だ。アスターはミューリア以外の令嬢と話すことを禁じられているし、ミューリア以外を愛してはならないことになっている。
 生来人付き合いが苦手なアスターからすれば逆にありがたいこともあるのだが、何せ見目が異様に整っている男である。相手があのミューリア・ベラスタインだと言うのにアスターに懸想する令嬢は後を絶たない。
 その度にミューリアが必要もない牽制に動くので、アスターは何度か自分の顔を潰そうかと考えたことがあるが、そうなるとミューリアがアスターと婚約を結び続ける理由も無くなるため、その案は実家から直々に却下されていた。

 グランバルツ子爵家は、何が何でもベラスタイン公爵家との繋がりを断ちたくはないのだ。文官であるアスターの兄が王城内でのし上がるためには公爵家の後ろ盾が必要なのである。そして、家族は全員、役にも立たない娯楽本ばかりに夢中なアスターより、優秀な兄の方がよほど大事であるわけだ。

 ほとんど身売りに近い扱いであることに、アスターは特に不満を抱いたことはない。
 政略結婚という点においては大抵の家の令嬢はアスターと同じような扱いを受けているし、ミューリアは確かにとんでもなく悋気の強い女性だが、アスターを気に入っていて、ある程度自由な生活を保証してくれることは確かだからだ。

 あとは結婚して子を成し、ミューリアが老いたアスターに飽きて捨てるまで公爵家の婿として暮らしていればいい。何ならミューリアは案外情のある女性だから、もしかしたら愛人を作っても家に置いてもらえるかもしれない。

 アスターの人生設計は概ねそのように固まっていた。あとは魔法学園を平穏無事に卒業するだけである。
 それがとんでもなく難しいんだが、というのがここ数年続くアスターの悩みであった。

 言いつけ通り、アスターからは断じて手など出していないし会話もしていないが、いつミューリアに誤解されて、声をかけてきた令嬢ともども『不慮の事故』に巻き込まれるか分かったものではない。
 できれば無事に寿命を全うしたい。基本的に信念も目標もなく生きているアスターのただ一つの願いがそれだった。

 それを叶えてくれるのならなんだってする、頼む、なんだってするぞ、とまだ見ぬ神に祈っていたアスターは、裏庭を出ようと旧校舎の周りを回るように曲がったところで、『神などいない』と確信した。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

婚約破棄の甘さ〜一晩の過ちを見逃さない王子様〜

岡暁舟
恋愛
それはちょっとした遊びでした

【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。 婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」 静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。 夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。 「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」 彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。

カリスタは王命を受け入れる

真朱マロ
恋愛
第三王子の不始末で、馬に変えられた騎士との婚姻を命じられた公爵令嬢カリスタは、それを受け入れるのだった。 やがて真実の愛へと変わっていく二人の、はじまりの物語。 別サイトにも重複登校中

ずっと一緒にいようね

仏白目
恋愛
あるいつもと同じ朝 おれは朝食のパンをかじりながらスマホでニュースの記事に目をとおしてた 「ねえ 生まれ変わっても私と結婚する?」 「ああ もちろんだよ」 「ふふっ 正直に言っていいんだよ?」 「えっ、まぁなぁ 同じ事繰り返すのもなんだし・・   次は別のひとがいいかも  お前もそうだろ? なぁ?」 言いながらスマホの画面から視線を妻に向けると   「・・・・・」 失意の顔をした 妻と目が合った 「え・・・?」 「・・・・  」 *作者ご都合主義の世界観のフィクションです。

彼はヒロインを選んだ——けれど最後に“愛した”のは私だった

みゅー
恋愛
前世の記憶を思い出した瞬間、悟った。 この世界では、彼は“ヒロイン”を選ぶ――わたくしではない。 けれど、運命になんて屈しない。 “選ばれなかった令嬢”として終わるくらいなら、強く生きてみせる。 ……そう決めたのに。 彼が初めて追いかけてきた——「行かないでくれ!」 涙で結ばれる、運命を越えた恋の物語。

【完結】捨てた女が高嶺の花になっていた〜『ジュエリーな君と甘い恋』の真実〜

ジュレヌク
恋愛
スファレライトは、婚約者を捨てた。 自分と結婚させる為に産み落とされた彼女は、全てにおいて彼より優秀だったからだ。 しかし、その後、彼女が、隣国の王太子妃になったと聞き、正に『高嶺の花』となってしまったのだと知る。 しかし、この物語の真相は、もっと別のところにあった。 それを彼が知ることは、一生ないだろう。

【完結】リゼットスティアの王妃様

通木遼平
恋愛
 リゼットスティアという美しく豊かな国があった。その国を治める国王も美しいと評判で、隣国の王女フィロメナは一度でいいから彼に会ってみたいと思い、兄である王子についてリゼットスティアに赴く。  フィロメナはなんとか国王にアピールしようとするが国王にはすでに強引に婚姻に至ったと噂の王妃がいた。国王はフィロメナに王妃との出会いを話して聞かせる。 ※他のサイトにも掲載しています

死を回避するために筋トレをすることにした侯爵令嬢は、学園のパーフェクトな王子さまとして男爵令嬢な美男子を慈しむ。

石河 翠
恋愛
かつて男爵令嬢ダナに学園で階段から突き落とされ、死亡した侯爵令嬢アントニア。死に戻ったアントニアは男爵令嬢と自分が助かる道を考え、筋トレを始めることにした。 騎士である父に弟子入りし、鍛練にいそしんだ結果、アントニアは見目麗しい男装の麗人に。かつての婚約者である王太子を圧倒する学園の王子さまになったのだ。 前回の人生で死亡した因縁の階段で、アントニアは再びダナに出会う。転落しかけたダナを助けたアントニアは、ダナの秘密に気がつき……。 乙女ゲームのヒロインをやらされているダナを助けるために筋トレに打ち込んだ男装令嬢と、男前な彼女に惚れてしまった男爵令嬢な令息の恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。表紙は、写真ACよりチョコラテさまの作品(作品写真ID:23786147)をお借りしております。

処理中です...