悪虐令嬢、触るな危険

藍槌ゆず

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「あら、アスター。素敵な御令嬢ね、デート中かしら?」
「…………ミューリィ」

 曲がり角で出くわしたミューリアは、アスターとその後ろにいる少女をしっかりと視界に収めると、美しい顔に柔らかな笑みを浮かべてみせた。明るく弾むような声音が逆に恐ろしい。

 出会い頭に刺されなくってよかった、とアスターは半ば本気で思っていた。ミューリアはいつも|護身用(・・・)と称して、ダガーナイフを懐に仕舞い込んでいる。おそらく刺されたら絶対に助からない。
 お抱えの鍛冶屋に作らせた特注品だとかで、捻れた刃は刺し入れると肉を捻じ切って進み、引き抜けば周辺の肉を巻き込んで引きずり出し、絶対的な致命傷を与えるのだ。

 そんな恐ろしいものを持ち歩かないでほしい。アスターは心の底から願っていたが、口に出すことはなかった。刺されたら嫌だからである。

「アスター? どうしたの? そちらの可愛らしい、素敵なお嬢さんを紹介してくださらないの?」

 艶やかな銀髪を軽く払い、氷のように冷たく光る碧眼を無理やり笑みの形に変えているミューリアは、黙り込んだままのアスターをどこまでも落ち着いた様子で見上げていた。あまりに落ち着き払っていて怖くなってきたので、アスターはそれとなくミューリアの手がダガーナイフの仕込み位置にないか確認した。

 さて、困った。どんな答えが一番ミューリアのお気に召すだろうか。
 流石に此処まで不躾に距離を縮めてきた令嬢はいなかったので、ミューリアが何処まで怒っているのか想像もつかない点が特に困る。
 しかしこのまま答えずにいたら、それこそアスターの腹にはナイフが生えることになるだろう。ついでに引き抜かれたりもするだろう。とんでもなく痛いに違いない。

 刺されるのだけは絶対に嫌だった。アスターは表面上はあくまでも平静を装った顔のまま人生史上最高速で頭を回転させ、答えを出した。

「お嬢さん? 誰かいたかな。僕はずっと一人で本を読んでいたんだけど」

 全力のすっとぼけであった。アスター・グランバルツ、一世一代のすっとぼけであった。ただのしらばっくれでは済まないレベルで、アスターは後ろにいる少女の存在を全ての意識から追い出した。
 そんな女はいなかったのである。いたとしてもアスターの世界には存在しなかった。
 アスターは全力のすっとぼけでもってミューリアに表明した。『認識もしていなかった存在と二人でいたからといって君に責められる謂れはない』と。

 しれっとした顔で告げたアスターに、ミューリアはその美しくも冷えた瞳を、虚をつかれたように瞬かせた。
 吊り目がちな作りをしている彼女の瞳が、単純な驚きから丸く開かれる。そうしていると攻撃的な印象が少しだけ薄れ、顔立ちがやや幼くなる。
 いつもそういう顔をしてくれれば可愛いんだけど、とアスターは思ったが、やっぱり口には出さなかった。基本的に喋りたくないのである。

「やだ、アスターったら。そんなことを言ったら可哀想だわ、こんなに愛らしいお嬢さんが目に入らないだなんて」

 機嫌よく笑ったミューリアが、アスターの肩を軽く咎めるように叩いた。
 そのまま喉を鳴らして笑い続けるミューリアの顔には先ほどまでの冷えた殺意はない。ひとまず命が繋がった、とアスターはほっと息を吐いた。

 肩を叩いていた手は、いつの間にかアスターの腕に絡んでいる。どうやらこのまま『お嬢さん』には触れずにこの場を後にすることに決めたらしいミューリアは、アスターを連れて戻ろうと足を進めた。

 と、いうところで、後方から声がかかった。

「ミューリア様! お話があります、聞いてくださいますか!」

 勘弁してくれ、と叫びそうになったが、アスターは奥歯を強く噛み締めることでなんとか堪えた。アスターはあんな『お嬢さん』は知らないのである。認識もしていないのである。ゆえに反応はできない。反応したら負けである。脇腹にダガーナイフがずぶりである。絶対に嫌だった。

 機嫌を伺うように、頭一つ分小さいミューリアの様子を横目で確認する。機嫌よく笑みを浮かべていた筈の彼女の目には、まるで害虫を見るかのような侮蔑が凍りつくような輝きとして宿っていた。
 アスターには、彼女の右手の位置にまで目を配る勇気はなかった。故に、それとなく彼女を促すだけに留めた。

「行こう、ミューリィ。ほら、この間出来た新しい店に行きたいって言ってたじゃないか」
「覚えててくれたの? 嬉しいわ。そうね、行きましょうか」

 どこのどんな店だったかは忘れてしまったが、行きたいと言っていたことだけは覚えていた。女性の好きな店は店名もメニュー名もややこしくて覚えていられないのだが、ミューリアが行きたがっていたことだけは覚えていた。

 途端にパッと明るく顔を輝かせるミューリアに、アスターは内心で胸を撫で下ろす。
 過去の自分に賞賛を送りつつ、更なる機嫌取りにミューリアの肩を軽く抱いておく。普段はしないアスターからの接触に、ミューリアは完全に機嫌を直した様子で嬉しそうに微笑んだ。

 が、その笑みはすぐに凍りついた。

「またそうやってアスター様を縛り付けるおつもりなのですか!? そんなものは真実の愛ではありません! アスター様を解放して差し上げてください!」

 死にたいのか貴様……と思ったが、もはやアスターは何も言えなかった。何も言う気にもなれなかった。頼むから黙ってくれ、とすら言えなかった。
 アスターが穏便に済まそうとしているのが分からないのだろうか。高位貴族の令息を次々と虜にしている、という彼女の噂は聞いていたが、愛されることに自信を持ちすぎるとああなってしまうのだろうか。

 アスターはもはや目眩すら覚えながら、それでも婚約者を殺人犯にするわけにはいかない(意外にもミューリアは殺人だけは犯したことがない)(『死体の隠蔽って面倒なのよ』だそうである)、とミューリアを促した。

「早く行こう、人気のお店なんだろ?」
「先に行っててくださる? 私、用事が出来てしまったの」
「…………いや、僕も残るよ」

 絶対に二人きりにしてはいけない。あの少女はどういう訳か自分がアスターに愛されると信じて疑っていない様子なので、このままいけば際限なくミューリアの神経を逆撫でするだろう。
 他のどんな事柄でもミューリアは意に介したりはしないが、アスターに関することだけは別である。
 『ミューリア様はアスター様にはふさわしくありません』などとでも口にした日には、それはもう、当然ダガーナイフだ。刺して捻って引き抜いて、こちらが新鮮な少女の遺体でございます、だ。

 それだけはどうにかして回避しなければならない。別に、ベラスタイン家ならばあんな少女一人簡単に消してしまえるが、単純に、アスターの心情として嫌なのである。
 確かに婚約のきっかけはミューリアがアスターの顔を気に入ったからでしかないし、扱いだって所有物の一つみたいなものだが、それでも五年も共に過ごしていれば情も湧くし、好きな部分だって出てくる。
 婚約者に人を殺してほしい人間が何処にいるのか。しかも意味不明な物言いで勝手に近づいてくるような頭のおかしい女なんて、絶対に手にかけてほしくない。

 加えて言えば、ミューリアに人殺しの経験をさせたくない、というのもあった。一人殺したらあとは何人殺そうと一緒になったりするかもしれない。そうなると、アスターを刺す時のハードルが下がるかもしれない。それは困る。非常に困る。とんでもなく困る。

 ので、アスターは早急にこの少女のことをミューリアの頭の中から追い出す必要があった。

「ミューリア様の横暴は婚約者に対するものではありません! その上、気に入らない人間に嫌がらせをするだなんて……とても公爵家の御令嬢のすることとは思えません! アスター様にはもっと相応しい方が────」

 太腿の仕込みナイフに伸びかけたミューリアの手を、アスターは咄嗟に手首を握って引き寄せた。絶対にナイフには届かないようにしよう、と思いから顔の近くまで持ち上げてしまったので、引き寄せられたミューリアは、アスターと正面から密着する形になった。

 明確な憎悪を持って少女を睨んでいたミューリアが、呆けたような顔でアスターを見上げている。それはそうだろう。アスターは今までミューリアからのアクションに応えるばかりで、一度も自分から動いたことはないのだから。

 しかし今は動かなければならない。どのようにすればミューリアが喜ぶのかわからないので好きにさせておいたほうがいい、などと言っている場合ではないのだ。

「ア、アスター? どうしたの、ねえ、は、離して」
「嫌だ。君は離したらあの女のところに行くつもりなんだろう」

 しまった、存在に言及してしまった、と思ったが、ミューリアは特に気にしていないようだった。
 絶対に離さないで済むように、ミューリアの腰に腕を回して固定しておく。普段は雪のように白い頬が、途端に紅色に染まったが、アスターは密着したせいで微かに感じるナイフの感触があまりにも恐ろしいせいで少しも気づかなかった。

「君が行きたい店に行こうって誘っているのに、どうして無視するのさ」
「む、無視なんてしてないわ……だって、仕方ないじゃない、あの女が腹立たしいことを……」
「何か言ってた? 僕には君の声しか聞こえなかったな。ミューリィは違うの? 僕と出かけるよりも此処に残る方が大事?」

 こうなったらもう強引にでも押し切るしかない。覚悟を決めたアスターは、これまでの人生で最も真剣な顔でミューリアに詰め寄った。
 ミューリアはアスターのことをまるで所有物のように扱うが、少なくとも気に入ったから側に置いているのである。
 出過ぎた真似をすれば最悪刺されるかもしれないが、不躾な無礼者を始末することよりもアスターと共に美味しいパンケーキでも食べに行く方が有意義だと思わせることができれば勝機はある。

「アスター……違うわ……私、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ僕と一緒に行ってくれる?」

 一刻も早くこの場を離れなければならない。鬼気迫る思いはアスターに常日頃はない必死さを宿し、普段はやる気なく発せられる声にも切実な響きを持たせた。
 結果、甘く囁くような声で尋ねることとなったアスターに、ミューリアは何かが喉に詰まったように息を詰めると、彼女にしては珍しく、非常におとなしい仕草で小さく頷いた。

 同意は得た。アスターの勝利である。助かった。助かったのだ。
 必死すぎて何やら喚いているらしい少女の声が一切聞こえなくなってしまったが、アスターはさして気に留めることもなく、何やらおとなしくしているミューリアの気が変わる前に、とできる限り早急に、逃げるように裏庭を後にした。



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