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後
しおりを挟む「…………それで、ミューリィが行きたかったお店って何処だったかな?」
「………………」
荷物を揃えて公爵家の馬車に乗り、校門を出てから十分。
行き先を指定しなかったせいでこのままだと普通に帰ってしまうな、と気づいたアスターが声をかけたが、隣に座るミューリアは惚けたように宙を見つめるばかりで一向に答える気配はなかった。
「ミューリィ、どうした? 具合でも悪い?」
「え? いえ、そんなことないわ。今は、そうね、とても素敵な気分よ……」
「へえ、そう。それはよかった」
何処か夢を見ているかのような声音で返って来た答えに、アスターはひとまず安堵した。力の抜けた様子でアスターの肩に頭を預けるミューリアを見る限り、少なくとも嘘ではなさそうだったからだ。
どうやら今日のところは脇腹は刺されずに済みそうである。明日はどうかは知らないが、明日のことは明日以降のアスターがどうにかしてくれることだろう。
「お店にはまた今度行きましょう。私、早く帰って今日の事を日記に認めないといけないの」
「…………日記」
まさか例の『お嬢さん』の件でも書き留めておくつもりなのだろうか。後日学園から消えていやしないだろうな、彼女。
別に消えてしまったところでアスターにとってはどうでもいいのだが、知らぬ間に死体になっていたりしたら嫌だな、とは思った。しかし、思うだけで特に口にはしなかった。アスターは基本的に、自分の命の方がよほど大事なのである。
ミューリアが視線でねだるので、アスターは指で髪を梳くようにしてゆっくりと彼女の頭を撫でていた。そのまま続けること五分、目を閉じ、唇を笑みの形に歪めたミューリアがぽつりと呟いた。
「…………エルア・トーマシーには褒美を与えなければならないようね……」
「誰だい、それ」
「…………ふふ、いいのよアスター。忘れてちょうだい」
本当に心当たりがなかったので心底不思議そうに尋ねたアスターに、ミューリアは何故だか妙に楽しげに笑みを深くした。
聞くな、というのならばアスターから尋ねることはない。言われるがまま、聞いたばかりの名前はアスターの記憶に刻まれることなく抜け落ちていった。
「今日のアスターは素敵だったわ。まるで私のことが好きみたいで」
「………………僕は君が好きだよ」
何を試されているのだろう。緊張から胃を鷲掴みにされたのと同程度の圧迫感を感じ始めたアスターに、ミューリアはやはり機嫌良く笑った。
「いいのよ、アスター。私はあなたが私のことをちっとも好きじゃないと知っているもの。もちろん、好きになってくれたならこれ以上ないほどに嬉しいけれど、貴方が私のものであるという事実だけで十分だわ。死んでも手放してあげないから、そこだけは覚悟しておいてね」
「………………」
それはどうかな、きっと老いて容姿が劣化すれば飽きるんじゃないかな、とアスターは思ったが、口には出さないでおいた。
記憶にある限り、アスターはこれまでに出会った全ての人間から、顔以外を誉められたことがない。人間離れした美しい容姿だけがアスターの取り柄だが、それでいてその容姿を活用して上手く振る舞うことができないアスターは常に厄介ごとだけを運び込んだ。
幼少期の誘拐騒ぎや兄の出世街道に障害となりかねない醜聞、見目だけで流される下卑た噂は、家族にとっては常に疎ましいものだったに違いない。
そして今はミューリアもアスターの容姿に惹かれているが、いずれアスターの容姿が衰えてしまえば、すぐに何の中身もない男だと気づいて興味を失うだろう。
何せ、ミューリアはアスターと違って容姿にも才能にも家柄にも恵まれているのだ。多少、いやかなり嫉妬深い節はあるが、それだって行き過ぎなければ可愛いものである。
アスターのように、顔ばかりが人目を引くような碌でもない男を好きにならなければ、きっと可愛らしい程度の嫉妬に収まることだろう。
アスターはここ数年ずっと抱えているその思いを、今更わざわざ口や態度に出す気にはならなかったので、いつものように麗しい美貌を無表情のまま固定するに留めた。
だが、ミューリアはアスターが口に出さなかった思いの全てを、どうやら正確に読み取った様子だった。
伏せられていた長い睫毛がゆるりと持ち上がり、透き通った湖のような瞳がアスターを見上げる。優しく、慈しむような笑みを浮かべたミューリアは、まるで幼子に言い聞かせるかのような声音で囁いた。
「アスター、貴方は素敵な人よ。貴方はこの世に生きているほとんどの人間に興味がないけれど、その代わりにあらゆる人が作る物語を何処までも真摯に愛しているわ。
私、貴方の書籍への感想と批評がとっても好きなの。覚えているかしら、貴方が十二歳の時に書いた『ファーマインの騎士』への感想がとても素敵で、初めてああいう本を読んだのよ」
「……………………何それ、初めて聞いたよ」
「言ったことなかったもの。アスターが隠したがっていたことを暴いただなんて、こんな時でもなければわざわざ言わないわ」
大体六年前だろうか。十二歳の時、アスターは文通をしていた知り合いに誘われて、ほんの一時期だが書籍の批評を雑誌に載せていたことがある。厄介ごとは御免だからと匿名で載せていた筈なのに、ミューリアはどうやって調べたのか、それがアスターの書いたものだと知っていたらしい。
幼いアスターが書いた批評は今思い出しても拙くて恥ずかしくなるような代物だったが、それでも自分が書いたものが誰かが本を取るきっかけになっていたというのは、途方もなく嬉しいことだった。
「………………でも、ミューリアは僕の顔が好きなんじゃないのかい」
「あら、勿論顔も大好きよ。とっても素敵だもの、見ているだけで幸せになれるわ。もしかして、茶会の時のことを気にしているの? しょうがないじゃない、あれが周りを黙らせるのに簡単だったし」
「………………まあ、確かにね……」
「でも一番好きなのは貴方が愛している物に対してとても真摯なところなの。貴方が読んでいる本のページを捲るのを見るたびに、その本が私だったらいいのに、と思うわ。貴方が愛している物だから私も好きでいたいのだけれど、それでも本にすら嫉妬するの。だから、貴方に軽々しく寄ってくる他の女なんてもっと憎たらしいわ。
だって、分かる? 貴方のことを好きだという人に、貴方が読んでいる本について尋ねてみたら、ただの一人もまともに題名すら答えられなかったのよ! 貴方が愛しているものに興味も持たないのに、貴方を好きだというの。信じられないわ、全員今すぐ何処かに消えてくれればいいのに」
願うだけでなく実際に何処かに消してしまうあたり、ミューリア・ベラスタインはやはり厄介な婚約者であると言えた。だが、そんなことは今更なので、アスターはわざわざ「なるべく消さないでおいてくれ」などとは口にしなかった。面倒だったのである。
「ミューリアは僕が好きな本、覚えてるのかい?」
「勿論よ。どうして覚えていないだなんて思えるの? 今年一番好きだったのは『翠星の歌姫と八人の小人たち』よね、何度も繰り返し読んでいたもの」
「……………………うん、そう。三年待ったシリーズの新作なんだけれど、期待を裏切らない面白さで」
アスターはある種の照れ臭さと、堪えきれない嬉しさから、知らず綻ぶような笑みを見せていた。喜びから体温が上がり、微かに頬が赤く染まっている。
嬉しそうに微笑むアスターを見上げていたミューリアが、一瞬身を強ばらせ、次いで、首まで真っ赤に染まった顔でアスターを睨みつける。
「やだ、待って。駄目よそんなの、そんな顔二度としないで」
「え。何か駄目だった?」
「駄目よ、素敵すぎるから二度としないで。アスターは自分の顔が常軌を逸した造形をしてることをもっと自覚した方がいいわ。もう、甲冑の頭でもつけておこうかしら……」
「いいね、それ。寄ってくる人が減るかも」
甲冑の頭をつけた男と常に一緒にいることになるが、ミューリアがそれで許してくれるのなら、アスターは別に多少の不便はどうでもよかった。ひょっとすると名案かもしれない、と考えかけたアスターだったが、ふとあることに気づいて、「いや」と溢した。
「やっぱりやめよう、本が読みづらい」
「言うと思ったわ。大丈夫よ、アスター。これまで通り、一線を超えた他の女は私が対処するから」
「…………ミューリィだけに任せるのも悪いから、これからは僕も頑張るよ」
「嫌よ。たとえどんな動機だろうと、他の女と関わろうとしないで」
それまで機嫌よく笑っていたミューリアが、一瞬で表情を鋭いものとへ変える。答えを間違えたら刺されかねないな、という緊張感のもと、アスターは慎重に言葉を選んだ。
「勿論、君以外の女性と関わったりはしないけど、もっとミューリィを好きだって態度で表していこうと思う。流石に相思相愛に見えたら言い寄ってくる人も今よりは減るだろうし」
「…………賭けてもいいけれど、アスターは三日で嫌になるか、飽きると思うわ」
「………………ミューリィって本当に僕のこと分かってるんだね」
「当たり前でしょう、大好きな人のことだもの」
そう言って、ミューリアはちょっと呆れたように笑った。アスターはその笑みを見つめながら、自分が何処か寂しい気持ちになるのを感じた。
恐らく、自分は一生をかけてもミューリアと同じだけの愛情は返せないだろう。アスター・グランバルツというのはそういう人間だからだ。
ミューリアが断言した通り、アスターはこの世に存在する大抵の人間には興味がない。
だが、その『大抵』の中にミューリアまで入れてしまうのは、なんだかとても寂しいことのように思えた。
「僕もそのくらいミューリィのことが分かるようになるかな」
「どうかしら。でも、分かろうとしてくれるだけで十分嬉しいことだけは確かよ」
言葉通り嬉しそうに微笑むミューリアを見つめながら、アスターはそっと、明日は一冊読む分の時間をミューリアに使おう、とだけ決めた。
「────そういえば、そんなこともあったなあ」
ある麗かな春の日。アスターは皺の刻まれた手で、随分と古くなってしまった日記のページをゆっくりと捲った。
『絶対に私を忘れないでね』と繰り返していた妻の遺した日記は全部で十五冊ほどあるが、そのどれもがアスターにとっては眩い宝石に等しい価値を持っている。
ミューリアはあれだけ言っていたのに、結局アスターより七年も早くこの世を去ってしまった。ミューリアがいなくなってから七年間、アスターは毎日欠かさず彼女の遺した日記を読み返している。
日記の中のミューリアは、いつだってアスターに対して真摯な愛を向けていた。わざわざ他の女性について記したくないからか、言及が一切無いために嫉妬の感情も残っていない。
ミューリアから嫉妬を除いてしまえば、そこにあるのは何処までも、アスターへの愛だけだった。
「君はとても厄介で、だいぶ危なくて、大層困った人だったけれど、僕も似たようなものだったから、きっとお似合いというやつだったんだろうね」
何だかとても眠い。日差しが暖かいからだろうか。アスターは静かに日記を閉じると、ゆったりとした動作で瞼を閉じた。
繰り返し読んでいるから、もうミューリアの日記は全て頭に入ってしまっている。まるで一番好きな物語のように。
窓から降り注ぐ陽だまりの中、アスターは意識が沈むまでずっと、記憶のページを捲り続けていた。
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