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「それと、此処はあくまでも休憩の為に用意された部屋だから密談には向かないよ。外の者が気を利かせて人払いしてくれていたから良かったけれど、重要な案件は此処では話さないようにね」
「は、はい、はい、勿論ですリーダー……」
何処で覚えたのか騎士の礼まで披露したマリアを前にして、苦笑を滲ませていたラルスが小さく吐息を零す。それ以上気にしないで、とでも言うように片手を振ったラルスは、そこでようやく、扉を開けてから完全に硬直していたアイリーンへと目を向けた。
白を基調にした繊細なドレスの肩が、びくりと跳ねる。刃向かう者はたとえ巨岩龍であろうと容赦はしない、と立ち向かってみせるアイリーンにしては珍しいほどの狼狽えようだ。
こうなるのが嫌だったから何も言わずにいたのに、と視線で訴えたラルスに、マリアが無言のままひたすらに頭を下げる。旅の途中で出会った部族の作法だったと思うが、今にも地面に手をついて最大の謝罪を表しそうだったので、視線は程々のところで外しておいた。単純に、あまり責めるとジュストが厄介なことになる、というのもある。
「アイリーン、とりあえず祭典の終わりを告げる挨拶をしに行こう。流石に主役がいないまま終わるわけにも行かないからね」
「え、ええ、そ、そうですわね……」
頷いたアイリーンが、促されるままにラルスの隣を歩く。手を取らなかったのは、彼女が一度にあまり多くの感情を処理しきれないタイプだと知っているからだ。
今、アイリーンの中では初めて想像してみた『殿方との生活』とやらが物凄い勢いで駆け巡っているに違いない。その相手にラルスを当てはめて意識してくれるのは有り難いが、それでも、彼女が一切此方をそういう意味で好いてはいない、とラルスはこれまでの付き合いで嫌というほど理解している。
だからこそ、親友の座も恋人の座も望まず、最も信頼出来る仲間でいられればそれでいいと思っていたし、なんなら、この先もただの信頼出来る家族でいられればそれでよかった。
「アイリーン」
「な、なんですの」
「前にも言ったけど、僕は君が僕を好きじゃないってこと知ってるから、別に無理して恋とか愛とか考えなくてもいいよ」
「…………それは、その……」
「でも、この婚約は必要があって結んだものなんだ。出来る限り君に嫌な思いはさせないから、僕とこの先も道を共にしてくれると嬉しいな」
本心だ。これ以上を望んでいる、という胸の内を隠してこそいるが、嘘偽りのない本心であることも確かだった。
幼少期から祖母の生涯について聞かされ、母の生き様を見て育ったアイリーンは、口にこそしないが、この世に唯一無二の愛があると信じてはない。信じられないからこそ、信じたいと願い、惹かれ合うマリアとジュストが引き裂かれることにあれだけの反発を見せたのだ。
真実の愛だなんて、自分には決して得られないものだと思っている。更に言えば、得るのが恐ろしい、とさえ。手に入れてしまえば、あとは失うだけだからだ。
強気な態度や高慢な物言いとは裏腹に酷く繊細な少女に惹かれていたのはいつのことだったか。ラルスは、気づいた時にはアイリーンを目で追っていた。
どんな敵にも怯むことなく立ち向かい、時には無鉄砲で何を仕出かすか分からない、常識外れで仲間思いな少女。
旅の道中嵐に呑まれ、二人きりの洞窟で幾日も過ごすことになった時、アイリーンは覚悟を決めた顔で言った。
『もしも食糧が尽きそうになった時はわたくしの血肉を糧とし生き延びてくださいませ』と。本気で言っていたのだ。勇者さえ生き延びて辿り着けば、必ずや魔王を討つことができるから、と。
好きな子を食ってまで生き延びてたまるか、と必死に現在地を割り出し、崩れそうな洞穴をなんとか補強し、泥だらけになりながらもなんとか食糧のある草原に辿り着いた時の記憶を、ラルスは今でも夢に見る。正直、割と悪夢に分類されている。彼女に関わる記憶は、いつだって、良くも悪くも強烈だ。
アイリーンは愛を手に入れることに臆病なせいか、自分に向けられる好意にひどく鈍かった。遠回しに言っていれば永遠に伝わりはしない。
その上、旅先で彼女の容姿や強さに惹かれて求婚してくる相手からの直接的な好意には、表面上はさらっとかわしているように見えても、心の何処かで怯えているようだった。ラルスには、恋した女性を怯えさせる趣味はない。
側にいる内に彼女が少しでも自分を受け入れる気持ちになってくれたらそれでよかった。そうしてラルスは、少なくとも他の王子の婚約者に収まるよりはいいだろう、とアイリーンを自分の婚約者にしたのだ。
此処からゆっくり、友情を愛情に変えて、出来れば親愛を恋愛にしていければいいな、と思っていたのに……という何処か恨み言染みた愚痴が、声にこそ出ないが背負う空気に漏れてしまう。
マリアが心配していたのは、恋も愛も分からないまま結婚してしまって、後々考え直したくなってしまわないか、という点だろう。考えに考えてから動きたい彼女といては当然の心配だと言えた。
確かに、ちゃんと伝えていなかった僕も悪いけどさ、と二十三にもなって何処か拗ねた子供のような気持ちで視線を逃がしていたラルスは、そこでアイリーンにそっと手を握られ、隣へと目を向け直した。
「は、はい、はい、勿論ですリーダー……」
何処で覚えたのか騎士の礼まで披露したマリアを前にして、苦笑を滲ませていたラルスが小さく吐息を零す。それ以上気にしないで、とでも言うように片手を振ったラルスは、そこでようやく、扉を開けてから完全に硬直していたアイリーンへと目を向けた。
白を基調にした繊細なドレスの肩が、びくりと跳ねる。刃向かう者はたとえ巨岩龍であろうと容赦はしない、と立ち向かってみせるアイリーンにしては珍しいほどの狼狽えようだ。
こうなるのが嫌だったから何も言わずにいたのに、と視線で訴えたラルスに、マリアが無言のままひたすらに頭を下げる。旅の途中で出会った部族の作法だったと思うが、今にも地面に手をついて最大の謝罪を表しそうだったので、視線は程々のところで外しておいた。単純に、あまり責めるとジュストが厄介なことになる、というのもある。
「アイリーン、とりあえず祭典の終わりを告げる挨拶をしに行こう。流石に主役がいないまま終わるわけにも行かないからね」
「え、ええ、そ、そうですわね……」
頷いたアイリーンが、促されるままにラルスの隣を歩く。手を取らなかったのは、彼女が一度にあまり多くの感情を処理しきれないタイプだと知っているからだ。
今、アイリーンの中では初めて想像してみた『殿方との生活』とやらが物凄い勢いで駆け巡っているに違いない。その相手にラルスを当てはめて意識してくれるのは有り難いが、それでも、彼女が一切此方をそういう意味で好いてはいない、とラルスはこれまでの付き合いで嫌というほど理解している。
だからこそ、親友の座も恋人の座も望まず、最も信頼出来る仲間でいられればそれでいいと思っていたし、なんなら、この先もただの信頼出来る家族でいられればそれでよかった。
「アイリーン」
「な、なんですの」
「前にも言ったけど、僕は君が僕を好きじゃないってこと知ってるから、別に無理して恋とか愛とか考えなくてもいいよ」
「…………それは、その……」
「でも、この婚約は必要があって結んだものなんだ。出来る限り君に嫌な思いはさせないから、僕とこの先も道を共にしてくれると嬉しいな」
本心だ。これ以上を望んでいる、という胸の内を隠してこそいるが、嘘偽りのない本心であることも確かだった。
幼少期から祖母の生涯について聞かされ、母の生き様を見て育ったアイリーンは、口にこそしないが、この世に唯一無二の愛があると信じてはない。信じられないからこそ、信じたいと願い、惹かれ合うマリアとジュストが引き裂かれることにあれだけの反発を見せたのだ。
真実の愛だなんて、自分には決して得られないものだと思っている。更に言えば、得るのが恐ろしい、とさえ。手に入れてしまえば、あとは失うだけだからだ。
強気な態度や高慢な物言いとは裏腹に酷く繊細な少女に惹かれていたのはいつのことだったか。ラルスは、気づいた時にはアイリーンを目で追っていた。
どんな敵にも怯むことなく立ち向かい、時には無鉄砲で何を仕出かすか分からない、常識外れで仲間思いな少女。
旅の道中嵐に呑まれ、二人きりの洞窟で幾日も過ごすことになった時、アイリーンは覚悟を決めた顔で言った。
『もしも食糧が尽きそうになった時はわたくしの血肉を糧とし生き延びてくださいませ』と。本気で言っていたのだ。勇者さえ生き延びて辿り着けば、必ずや魔王を討つことができるから、と。
好きな子を食ってまで生き延びてたまるか、と必死に現在地を割り出し、崩れそうな洞穴をなんとか補強し、泥だらけになりながらもなんとか食糧のある草原に辿り着いた時の記憶を、ラルスは今でも夢に見る。正直、割と悪夢に分類されている。彼女に関わる記憶は、いつだって、良くも悪くも強烈だ。
アイリーンは愛を手に入れることに臆病なせいか、自分に向けられる好意にひどく鈍かった。遠回しに言っていれば永遠に伝わりはしない。
その上、旅先で彼女の容姿や強さに惹かれて求婚してくる相手からの直接的な好意には、表面上はさらっとかわしているように見えても、心の何処かで怯えているようだった。ラルスには、恋した女性を怯えさせる趣味はない。
側にいる内に彼女が少しでも自分を受け入れる気持ちになってくれたらそれでよかった。そうしてラルスは、少なくとも他の王子の婚約者に収まるよりはいいだろう、とアイリーンを自分の婚約者にしたのだ。
此処からゆっくり、友情を愛情に変えて、出来れば親愛を恋愛にしていければいいな、と思っていたのに……という何処か恨み言染みた愚痴が、声にこそ出ないが背負う空気に漏れてしまう。
マリアが心配していたのは、恋も愛も分からないまま結婚してしまって、後々考え直したくなってしまわないか、という点だろう。考えに考えてから動きたい彼女といては当然の心配だと言えた。
確かに、ちゃんと伝えていなかった僕も悪いけどさ、と二十三にもなって何処か拗ねた子供のような気持ちで視線を逃がしていたラルスは、そこでアイリーンにそっと手を握られ、隣へと目を向け直した。
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