11 / 61
第1部「灰の路」 第1章「焼け残り」
第11話「喧騒の中の静寂」④
しおりを挟む
街灯の明かりが湿ったベニヤ板を淡く照らす。
夜気の中で白い息が揺らめき、スーツ姿の男——サラリーマンがゆっくりとリングの角に歩み寄った。
革靴の底が木をこするたび、きゅ、と小さな軋みが響く。ネクタイを緩め、ジャケットの肩を落とす動作には、
仕事帰りの疲労と、何かを押し殺してきた時間の重みがにじんでいた。
「……今日こそ……今日こそ……」
その呟きは、誰に向けたものでもない。
拳を握るたび、掌に蓄積された鬱憤が、皮膚の下で音を立てるようだった。
彼はポケットから封筒を取り出し、無言で蓮司のリュックへと押し込む。
同時に、オプションA——足への制限——が課される。蓮司の両脚には薄いゴムチューブが巻かれ、
その動きに制約がかかる。足さばきの自由を奪う、小さな拘束具。
ジャケットを脱ぎ、腕を軽く回す。肩の筋肉がぎしりと鳴る。
観衆のざわめきが遠のいていく。
サラリーマンの視界には、もう蓮司しかいなかった。
額の汗が頬を伝い、湿気が肌に貼りつく。怒りと緊張が体温を上げていた。
「始めるぞ」
誰かの声と同時に、男は踏み込んだ。
右の拳が一直線に伸びる。
——ストレート。最も基本で、最も正確な攻撃。
体重を前足に移しながら、腕を矢のように突き出す。だが拳は空を切った。
蓮司がわずかに上体を傾けただけで、軌道は外れていた。
続いて左の拳が弧を描く。
——フック。横から振り抜く強打。だが、それも届かない。
蓮司は体を少しだけ沈め、頭の位置をずらして避けた。
その動作は滑らかで、呼吸の一部のように自然だった。
ヘッドスリップ——頭を左右にわずかに動かし、拳を紙一重で外す技。
ボクシングを知らない者には、ただ軽く首を振ったようにしか見えない。
だが、実際は首と肩と腰を同時に使い、最小限の回転でパンチの軌道を外す。
まるで風に身を任せるような動き。そこに力みはなかった。
サラリーマンは舌打ちし、さらに拳を連打する。
「くそ……上司め……会社め……!」
言葉と拳が一体になって吐き出される。
彼の呼吸は荒く、肩が上下に揺れる。
足元のベニヤ板が軋み、湿気で滑る。
それでも止まらない。止められない。
蓮司はサイドステップでわずかに横へ動く。
それは正面を外し、相手の攻撃の「線」から逃れるための横移動。
ほんの十数センチの移動で、相手の角度を変え、間合いを取り直す。
ゴムチューブが足に絡みつき、動きの幅を奪うたび、
彼は重心を微調整して転倒を避ける。
怒りの拳が空気を切る音。
ベニヤ板に落ちる靴音。
観客のスマホが放つ小さな光。
そのすべてが混じり合い、リング全体が息をしているようだった。
「当たれよ……! 当たれってんだよ!」
叫びと同時に右ストレート。
蓮司は腰を沈め、ぎりぎりでかわす。
拳が髪をかすめ、風が後ろ髪を揺らした。
観客から小さな歓声が上がる。
「今の見た!?」「紙一重じゃね!?」
「すげぇ……全然動いてねぇのに避けてる……」
蓮司は無言で距離を取り直す。
その呼吸は静かで、打撃を受けた気配さえない。
サラリーマンの肩が上下に揺れ、額の汗がぽたぽたとベニヤ板を濡らす。
五分。
怒りの波が打ち尽くされるように、男の拳が止まった。
最後の右ストレートが蓮司の肩をかすり、わずかに空気を震わせる。
サラリーマンは肩で息をしながら、額を拭う。
呼吸が整うたび、怒りも少しずつ抜け落ちていった。
蓮司は膝を軽く曲げ、ゆっくりと拳を開く。
手のテーピングが湿気を吸い、重く指に張り付く。
リュックに戻すその仕草に、わずかな疲労の影もなかった。
観客は静まり返る。
先ほどまでのざわめきが嘘のようにやみ、
ただ夜風と遠くの車の音だけが響く。
湿った匂いと、まだ消えない熱気。
その中で、蓮司の目だけが暗闇に沈んでいた。
夜気の中で白い息が揺らめき、スーツ姿の男——サラリーマンがゆっくりとリングの角に歩み寄った。
革靴の底が木をこするたび、きゅ、と小さな軋みが響く。ネクタイを緩め、ジャケットの肩を落とす動作には、
仕事帰りの疲労と、何かを押し殺してきた時間の重みがにじんでいた。
「……今日こそ……今日こそ……」
その呟きは、誰に向けたものでもない。
拳を握るたび、掌に蓄積された鬱憤が、皮膚の下で音を立てるようだった。
彼はポケットから封筒を取り出し、無言で蓮司のリュックへと押し込む。
同時に、オプションA——足への制限——が課される。蓮司の両脚には薄いゴムチューブが巻かれ、
その動きに制約がかかる。足さばきの自由を奪う、小さな拘束具。
ジャケットを脱ぎ、腕を軽く回す。肩の筋肉がぎしりと鳴る。
観衆のざわめきが遠のいていく。
サラリーマンの視界には、もう蓮司しかいなかった。
額の汗が頬を伝い、湿気が肌に貼りつく。怒りと緊張が体温を上げていた。
「始めるぞ」
誰かの声と同時に、男は踏み込んだ。
右の拳が一直線に伸びる。
——ストレート。最も基本で、最も正確な攻撃。
体重を前足に移しながら、腕を矢のように突き出す。だが拳は空を切った。
蓮司がわずかに上体を傾けただけで、軌道は外れていた。
続いて左の拳が弧を描く。
——フック。横から振り抜く強打。だが、それも届かない。
蓮司は体を少しだけ沈め、頭の位置をずらして避けた。
その動作は滑らかで、呼吸の一部のように自然だった。
ヘッドスリップ——頭を左右にわずかに動かし、拳を紙一重で外す技。
ボクシングを知らない者には、ただ軽く首を振ったようにしか見えない。
だが、実際は首と肩と腰を同時に使い、最小限の回転でパンチの軌道を外す。
まるで風に身を任せるような動き。そこに力みはなかった。
サラリーマンは舌打ちし、さらに拳を連打する。
「くそ……上司め……会社め……!」
言葉と拳が一体になって吐き出される。
彼の呼吸は荒く、肩が上下に揺れる。
足元のベニヤ板が軋み、湿気で滑る。
それでも止まらない。止められない。
蓮司はサイドステップでわずかに横へ動く。
それは正面を外し、相手の攻撃の「線」から逃れるための横移動。
ほんの十数センチの移動で、相手の角度を変え、間合いを取り直す。
ゴムチューブが足に絡みつき、動きの幅を奪うたび、
彼は重心を微調整して転倒を避ける。
怒りの拳が空気を切る音。
ベニヤ板に落ちる靴音。
観客のスマホが放つ小さな光。
そのすべてが混じり合い、リング全体が息をしているようだった。
「当たれよ……! 当たれってんだよ!」
叫びと同時に右ストレート。
蓮司は腰を沈め、ぎりぎりでかわす。
拳が髪をかすめ、風が後ろ髪を揺らした。
観客から小さな歓声が上がる。
「今の見た!?」「紙一重じゃね!?」
「すげぇ……全然動いてねぇのに避けてる……」
蓮司は無言で距離を取り直す。
その呼吸は静かで、打撃を受けた気配さえない。
サラリーマンの肩が上下に揺れ、額の汗がぽたぽたとベニヤ板を濡らす。
五分。
怒りの波が打ち尽くされるように、男の拳が止まった。
最後の右ストレートが蓮司の肩をかすり、わずかに空気を震わせる。
サラリーマンは肩で息をしながら、額を拭う。
呼吸が整うたび、怒りも少しずつ抜け落ちていった。
蓮司は膝を軽く曲げ、ゆっくりと拳を開く。
手のテーピングが湿気を吸い、重く指に張り付く。
リュックに戻すその仕草に、わずかな疲労の影もなかった。
観客は静まり返る。
先ほどまでのざわめきが嘘のようにやみ、
ただ夜風と遠くの車の音だけが響く。
湿った匂いと、まだ消えない熱気。
その中で、蓮司の目だけが暗闇に沈んでいた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる