『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第1章「焼け残り」

第20話「雨の底で」②

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 外に出た瞬間、湿った空気が肌にまとわりついた。
夜の残り香を含んだ雨が、細かく街を叩いている。
小粒の雨が連なり、糸のように視界を覆っていた。
ひと粒が頬に触れるたび、世界の輪郭がひとつずつ滲んでいく。
 古川町商店街のシャッターはまだ閉ざされたまま。
軒先から落ちる雨粒が、アスファルトに円を描いては消える。
蓮司は合羽のフードを被り、静かに呼吸を整えた。
肺の奥に雨の匂いを吸い込む。
冷たいのに、どこか懐かしい匂い。


 それだけで、朝が確かに始まったと感じられた。
走り出す。
靴底が濡れた路面を弾く音だけが響く。
パシャ、パシャ、と重く単調なリズム。
 次第に呼吸と重なり、吸って、吐いて、また吸って。
商店街を抜け、三条通から鴨川沿いの川端通りへ。
川面は灰色に濁り、雨に打たれて波紋を広げていた。
一羽の鶴が、濡れた羽を震わせて飛び立っていく。
その瞬間だけ、世界がゆっくり動いた気がした。


 蓮司は無意識に歩幅を広げる。
体は軽く、筋肉が先に目を覚ましていく。
腕の振り、足の蹴り、呼吸のリズム──
どれも、考えるより先に体が知っていた。
 雨脚が強まる。
ポツ、ポツと粒の音が大きくなり、
合羽の表面に細かな波紋をつくる。
その波紋が、まるで心拍と呼応しているようだった。


 ――何も考えない。
 思考の代わりに、走りがある。
心拍が早まるたび、胸の奥が熱を持つ。
息が白く混じり、頬を伝う雨と汗の境界が曖昧になる。
 ――走らなければ、何かが崩れる気がした。
 走るというより、確かめている。
今日も心臓が動いている。
肺が燃えるように痛い。脚が軋む。
それでも倒れない。
だから、“まだ壊れていない”と信じられる。


 京都市植物園の横を抜けても、空は泣き止まない。
街路樹の葉が雨粒を弾いては落とし、一定のリズムで地面を叩く。
その音が、どこか遠い記憶をくすぐった。
湿った風が頬を撫でるたび、
 “ここにいる”と誰かが囁いたように感じる。
深く息を吸い込む。
雨の匂い、湿った土の匂い、若い緑の匂い。
 冷気の中で混ざり合い、肺の奥を満たしていく。
痛みも、怒りも、悲しみも、
今だけは遠くへ押し流されていくようだった。


 南へ──目的地は梅小路公園。
すれ違う人はいない。
ただ世界のすべてが、静かに濡れている。
 京都の街が眠る間、
蓮司だけが動いているような錯覚を覚える。
公園の入り口に着く頃、
雨は再び勢いを増していた。
 地面は完全に濡れ、跳ね上がる水しぶきが足首を打つ。
靴の中はとっくに水浸し。
それでも脚は止まらない。


 梅小路公園の芝生をかすめ、ぐるりと折り返す。
帰り道、街の音が少しずつ混じり始める。
信号の電子音、車の走行音、遠くの工事のハンマー。
 けれど、それらはすべて雨の壁の向こう側。
足を止めず、蓮司はペースを保つ。
遠くで、JR京都駅を出発する車両の軋む音が聞こえた。
合羽の袖口から、雫が指先を伝って落ちていく。
 ――昨日の痛みを置き去りにできたらいい。
 ――でも、置き去りにしたら、自分が空っぽになる気もする。
 そんな矛盾を抱えたまま、ただ前へ。
太ももが張る。喉が焼ける。
呼吸が乱れても、誰も待っていない道を走り続けた。


 植物園の入り口を過ぎる頃には、体がじんわりと熱を帯びていた。
フードの中を、雨水と汗が流れていく。
首筋を伝うたび、冷たさと熱が交じり合う。
蓮司は少しペースを落とした。
 往路では軽く雨を弾いていた並木の葉が、
雨は重く首を垂れ、ザーザーと音を立てていた。
彼には、それが誰かの赦しを請う姿に見えた。
 ――俺も、あの日のことをどこかで詫びたいのかもしれない。
そう思った瞬間、蓮司は首を振り、その考えを振り払う。
再び足を前へ。


 古川町商店街に戻る頃には、雨脚は少し弱まっていた。
看板がぼんやりと光を帯び、、街がゆっくり目を覚まし始めている。
足音がアーチに反響し、雨の音に溶けていく。
 自宅の扉を開けると、湿った空気が押し寄せた。
玄関前でカッパを脱ぐと、滴が床に落ち、小さな水たまりを作った。
服も靴も、雨と汗で重くなっている。
一枚ずつ剥がすように脱ぎ捨てる。
Tシャツが肌に張りつき、指で引き剥がすと音を立てた。


 バスルームの蛇口をひねる。
金属音のあと、熱い湯が勢いよく流れ出す。
鏡の向こうに、汗と雨に濡れた顔。
目の奥は暗いのに、その中で何かがまだ燃えていた。
 それは危うい光。
壊れかけた灯りのように、
ギラギラと、しぶとく、生を訴えていた。
蓮司は目を逸らさず、湯の下に立つ。
 世界が白い霧に包まれる。
熱が全身に広がり、筋肉がほどけていく。
走ることでしか感じられない、生の確かさがそこにあった。
息を整えながら、静かに目を閉じる。
湯気の向こうで、雨音が遠のいていく。
 静けさが戻るたびに、心臓の鼓動だけが強く響いた。
 ――今日も、同じ一日が始まる。
それが、生きているということなら。
もう、何も願わなくてもいいのかもしれない。
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