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第1部「灰の路」 第1章「焼け残り」
第36話「赦しの残火」⑤
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奏の部屋を出たとき、街の灯はすでに深い眠りに沈みかけていた。
夜気は冷たく、酔いの残る肌を刺す。吐く息が白い。
マンションの前に立ち止まり、振り返る。
灯りはまだ、彼女の部屋の奥で小さく灯っていた。
蓮司はしばらくその光を見上げていた。
夜風が頬を撫でる。背中に残る奏の体温が、少しずつ冷めていく。
その温もりが消えてしまう前に、歩き出さなければならない気がした。
街のざわめきが遠のくにつれ、足音だけが響く。
彼は自然と鴨川へ向かっていた。
夜の河川敷は、昼とはまるで違う表情をしている。
街灯の明かりが水面に線を描き、時折通る車のヘッドライトがその光を乱す。
波紋が広がるたび、まるで過去の断片が水面から浮かび上がるようだった。
――どうして、俺は、まだ歩いているんだろうな。
そう、心の中で呟く。
奏を送り届けて、すべてが終わったはずなのに、体が止まらない。
足が覚えている。あの夜を。あの道を。
歩くたびに靴底が砂を踏みしめる。
耳を澄ますと、水音の奥で、幼い声が聞こえた気がした。
笑い声。走る足音。
それらがすべて、火の粉に変わって消えていった記憶。
焼ける木の匂い、焦げた皮膚の匂い。
遠い大阪の夜が、京都の夜風に混じって甦る。
「……違う。今は違う」
小さく呟いて首を振る。
その瞬間、胸の奥に痛みが走った。
罪の重さは、決して消えない。
赦されることもない。
だが、それでも――
奏が笑ってくれた。
あの店で、あの夜、彼女は泣きもせず、ただ「ありがとう」と言った。
その言葉が、どうしようもなく苦しかった。
あんなふうに微笑まれる資格など、自分にはない。
それでも、彼女の笑顔に救われた。
救われてしまった。
赦されない者が、赦されることを願ってしまう。
それが、一番の罪なのかもしれない。
気づけば、四条大橋のたもとに立っていた。
ここは――始まりの場所だ。
七年前の十一月。
風は今夜よりもずっと冷たかった。
大阪から逃げ出した蓮司は、貨物列車に潜り込んでこの街まで流れ着いた。
顔は火傷と切り傷だらけ、服は焦げ、裸足の足裏は血に染まっていた。
街灯の下を通るたび、人々は目を逸らした。
誰も声をかけなかった。
蓮司もそれを望まなかった。
冷え切った体を引きずるように歩き、やがて四条大橋の下で力尽きた。
石畳の冷たさが骨に染みる。
目を閉じれば、炎が瞼の裏で燃え上がる。
焼けただれた木の軋む音。泣き叫ぶ子どもたちの声。
それらが波のように押し寄せて、心臓を締め付ける。
蓮司はそこで、静かに死を受け入れようとした。
――もう、終わりでいい。
そう思った瞬間だった。
水面を渡るように、足音が近づいてきた。
女の声がした。
「……大丈夫?」
その声は、不思議なほど穏やかで、強かった。
蓮司は力を振り絞って顔を上げた。
そこに立っていたのが、奏だった。
月明かりに照らされた彼女の姿を、蓮司は今でも鮮明に覚えている。
黒いコートの裾が風に揺れていた。
彼女の目は恐れではなく、哀しみでもなく、ただ真っ直ぐに自分を見ていた。
――それが、恐ろしかった。
「来るな」
かすれた声で威嚇した。
全身の血が煮えたぎるようで、喉が焼ける。
しかし奏は止まらなかった。
「大丈夫。もう、何もしなくていいわ」
そう言って、ゆっくりと近づいてきた。
逃げようとした。だが、足が動かなかった。
彼女の手が、頬に触れた。
温かかった。
その瞬間、涙が零れた。
声にならない嗚咽が喉を震わせた。
どれほど冷たい夜でも、その手の温もりだけは、はっきり覚えている。
蓮司はそのまま意識を手放した。
最後に感じたのは、背中に伝わる体温。
奏が、自分を背負い上げて歩く音。
その足音が、今夜の川辺の音と重なって聞こえる。
「……あの日も、こんな夜だったな」
蓮司は呟き、橋の欄干にもたれた。
街の光が水面に滲む。
川の流れは、まるで時のように、何も言わずに過ぎていく。
――あのとき、死ねなかった。
――だから今、生きている。
それが赦しではないことを知っている。
それでも、生かされている理由を、彼は彼女の中に見出してしまった。
夜風が、頬を撫でる。
遠くで、誰かが笑う声がした。
その声は、どこか奏に似ていた。
蓮司は小さく息を吐き、ポケットからペットボトルの水を取り出す。
キャップを開け口をつける。
喉の渇きを潤す音が、川の流れに溶けていった。
――七年前と同じ場所で、同じ夜に。
ただひとつ違うのは、今の自分には“帰る場所”があるということ。
それが、どれほど儚く脆いものであっても。
夜気は冷たく、酔いの残る肌を刺す。吐く息が白い。
マンションの前に立ち止まり、振り返る。
灯りはまだ、彼女の部屋の奥で小さく灯っていた。
蓮司はしばらくその光を見上げていた。
夜風が頬を撫でる。背中に残る奏の体温が、少しずつ冷めていく。
その温もりが消えてしまう前に、歩き出さなければならない気がした。
街のざわめきが遠のくにつれ、足音だけが響く。
彼は自然と鴨川へ向かっていた。
夜の河川敷は、昼とはまるで違う表情をしている。
街灯の明かりが水面に線を描き、時折通る車のヘッドライトがその光を乱す。
波紋が広がるたび、まるで過去の断片が水面から浮かび上がるようだった。
――どうして、俺は、まだ歩いているんだろうな。
そう、心の中で呟く。
奏を送り届けて、すべてが終わったはずなのに、体が止まらない。
足が覚えている。あの夜を。あの道を。
歩くたびに靴底が砂を踏みしめる。
耳を澄ますと、水音の奥で、幼い声が聞こえた気がした。
笑い声。走る足音。
それらがすべて、火の粉に変わって消えていった記憶。
焼ける木の匂い、焦げた皮膚の匂い。
遠い大阪の夜が、京都の夜風に混じって甦る。
「……違う。今は違う」
小さく呟いて首を振る。
その瞬間、胸の奥に痛みが走った。
罪の重さは、決して消えない。
赦されることもない。
だが、それでも――
奏が笑ってくれた。
あの店で、あの夜、彼女は泣きもせず、ただ「ありがとう」と言った。
その言葉が、どうしようもなく苦しかった。
あんなふうに微笑まれる資格など、自分にはない。
それでも、彼女の笑顔に救われた。
救われてしまった。
赦されない者が、赦されることを願ってしまう。
それが、一番の罪なのかもしれない。
気づけば、四条大橋のたもとに立っていた。
ここは――始まりの場所だ。
七年前の十一月。
風は今夜よりもずっと冷たかった。
大阪から逃げ出した蓮司は、貨物列車に潜り込んでこの街まで流れ着いた。
顔は火傷と切り傷だらけ、服は焦げ、裸足の足裏は血に染まっていた。
街灯の下を通るたび、人々は目を逸らした。
誰も声をかけなかった。
蓮司もそれを望まなかった。
冷え切った体を引きずるように歩き、やがて四条大橋の下で力尽きた。
石畳の冷たさが骨に染みる。
目を閉じれば、炎が瞼の裏で燃え上がる。
焼けただれた木の軋む音。泣き叫ぶ子どもたちの声。
それらが波のように押し寄せて、心臓を締め付ける。
蓮司はそこで、静かに死を受け入れようとした。
――もう、終わりでいい。
そう思った瞬間だった。
水面を渡るように、足音が近づいてきた。
女の声がした。
「……大丈夫?」
その声は、不思議なほど穏やかで、強かった。
蓮司は力を振り絞って顔を上げた。
そこに立っていたのが、奏だった。
月明かりに照らされた彼女の姿を、蓮司は今でも鮮明に覚えている。
黒いコートの裾が風に揺れていた。
彼女の目は恐れではなく、哀しみでもなく、ただ真っ直ぐに自分を見ていた。
――それが、恐ろしかった。
「来るな」
かすれた声で威嚇した。
全身の血が煮えたぎるようで、喉が焼ける。
しかし奏は止まらなかった。
「大丈夫。もう、何もしなくていいわ」
そう言って、ゆっくりと近づいてきた。
逃げようとした。だが、足が動かなかった。
彼女の手が、頬に触れた。
温かかった。
その瞬間、涙が零れた。
声にならない嗚咽が喉を震わせた。
どれほど冷たい夜でも、その手の温もりだけは、はっきり覚えている。
蓮司はそのまま意識を手放した。
最後に感じたのは、背中に伝わる体温。
奏が、自分を背負い上げて歩く音。
その足音が、今夜の川辺の音と重なって聞こえる。
「……あの日も、こんな夜だったな」
蓮司は呟き、橋の欄干にもたれた。
街の光が水面に滲む。
川の流れは、まるで時のように、何も言わずに過ぎていく。
――あのとき、死ねなかった。
――だから今、生きている。
それが赦しではないことを知っている。
それでも、生かされている理由を、彼は彼女の中に見出してしまった。
夜風が、頬を撫でる。
遠くで、誰かが笑う声がした。
その声は、どこか奏に似ていた。
蓮司は小さく息を吐き、ポケットからペットボトルの水を取り出す。
キャップを開け口をつける。
喉の渇きを潤す音が、川の流れに溶けていった。
――七年前と同じ場所で、同じ夜に。
ただひとつ違うのは、今の自分には“帰る場所”があるということ。
それが、どれほど儚く脆いものであっても。
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