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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」
第3話「静寂のひび割れ」③
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夜の九時を少し回っていた。
木屋町通の通りには、ネオンが次々と灯り始め、夜の熱を取り戻しつつある。
開き始めたバーやクラブの看板が、湿り気を含んだ光を放っていた。
その中で、《Avalon》だけは扉を閉めて、静まり返っていた。
事件のあったあの日以来、店はまだ営業を再開していない。
だが、明日から再開する予定で、昼間から蓮司と奏が準備を進めていた。
照明を落とした店内には、
人の気配よりも、洗い残しのアルコールと香水の匂いだけが残っている。
蓮司はバックヤードの扉を押し、段ボールを床に下ろした。
「これで全部。酒もジュースも足りると思う」
「ありがとう。助かったわ」
奥から顔を出したのは、店のオーナーであり、
“蘭華”として客から慕われている奏だった。
彼女は今日は、いつものバニー衣装ではなく、黒いTシャツにデニム姿。
髪を後ろでまとめ、化粧も控えめで、どこか静かな印象を纏っていた。
「ビール三箱、ジン一本、ウォッカ一本、オレンジジュース二ケースね」
「そう。あとスポーツドリンクも少し」
「了解。やっぱり買い出しはレンが一番早いね」
「ただ近かっただけだ」
淡々とした返事に、奏は小さく笑みを浮かべた。
「相変わらず、無駄なことは言わないんだね」
段ボールを整理し終えたあと、二人はバックヤードの古いソファに腰を下ろした。
店内はひっそりとしていて、天井の換気扇がゆるやかに回る音だけが響く。
営業していない夜の店は、まるで舞台の幕間のように、時間が止まっていた。
奏が冷蔵庫を開け、缶コーヒーを二本取り出す。
「はい、これ」
「ありがとう」
プルタブを開ける音が重なり、苦い香りが狭い空間に広がる。
しばらく無言のまま、缶を傾けていた。
その沈黙を破るように、蓮司がぽつりと呟いた。
「……今日も《とうどう》に行ったが、今日の紗月は元気がなかった」
奏の手が止まる。
「どういうこと?」
「笑ってはいたけど、疲れてるように見えた。どこか、空っぽな感じがした」
「……そう」
奏は膝の上に缶を置き、しばらく視線を落とした。
「最近ね、あの人あんまり寝てないみたい。常連の人たちも心配してる」
蓮司は黙って聞いていた。
奏が紗月の名前を出す時、その声の奥に、かすかな敬意が混じるのが分かる。
「紗月さんにはね、昔、本当に助けられたの」
蓮司が目を上げる。
「助けられた?」
「うん。私がまだ“蘭華”になってすぐの頃。
何も持ってなくて、心も体も壊れかけてた頃。
ふらっと入った喫茶店が《どうどう》だったの」
奏の表情が、少しやわらいだ。
「何も聞かずに、温かいコーヒーを出してくれた。
『しんどい時こそ、人に話していいのよ』って言ってね。あの笑顔、忘れられない」
「……そうか」
「だから、あの人は私にとって恩人なの。今も、誰かの居場所を作ろうとしてる。
それがどんなにしんどくても、止まらない人なんだ」
奏は一息ついて、蓮司をまっすぐに見た。
「レン。明日も《どうどう》に行くんでしょ」
「ああ」
「明日行ったとき、紗月さんに聞いてみて。
何か抱えてるなら、話を聞いてあげて」
蓮司は少しだけ目を伏せた。
人の痛みに踏み込むことを避けてきたのは、もう習慣のようなものだった。
守るつもりで殴り、助けるつもりで壊してきた過去が、今も胸に残っている。
「……俺が聞いたところで、何かできるわけじゃない」
「そうかもしれない。
でも、“気にしてくれる人がいる”って、それだけで救われる時がある」
奏の声は、静かに響いた。
その柔らかな笑顔に、どこか紗月の面影が重なる。
蓮司は缶をテーブルに置き、短く息を吐いた。
「……わかった。明日、行ったときに話してみる」
「うん。それでいい」
奏はゆっくり頷いたあと、ほっとしたように微笑んだ。
「やっぱり、あなたは優しいね」
「優しくなんかない。ただ……放っておけないだけだ」
「それを優しいって言うのよ」
その言葉に、蓮司はわずかに視線を逸らした。
時計の針が十時を指す。
照明をさらに落とした店内では、冷蔵庫のモーター音が低く唸り続けている。
外のガラス越しに見える街の灯りが、雨の予感を帯びて滲んでいた。
蓮司は立ち上がり、ドアノブに手をかけた。
「今日はもう帰る」
「うん、気をつけて」
「……ああ」
振り返ると、奏はまだ椅子に座ったまま、何かを考えるように目を閉じていた。
その横顔を一瞬見つめ、蓮司は静かに外に出た。
外の空気は冷たく、夜の湿気が肌にまとわりつく。
通りの向こう、灯りの揺らめくアスファルトが、まるで水面のように光っていた。
蓮司はポケットに手を入れ、静かに歩き出した。
――明日、もう一度〈どうどう〉に行く。
その約束が、なぜか胸の奥で重く響いていた。
木屋町通の通りには、ネオンが次々と灯り始め、夜の熱を取り戻しつつある。
開き始めたバーやクラブの看板が、湿り気を含んだ光を放っていた。
その中で、《Avalon》だけは扉を閉めて、静まり返っていた。
事件のあったあの日以来、店はまだ営業を再開していない。
だが、明日から再開する予定で、昼間から蓮司と奏が準備を進めていた。
照明を落とした店内には、
人の気配よりも、洗い残しのアルコールと香水の匂いだけが残っている。
蓮司はバックヤードの扉を押し、段ボールを床に下ろした。
「これで全部。酒もジュースも足りると思う」
「ありがとう。助かったわ」
奥から顔を出したのは、店のオーナーであり、
“蘭華”として客から慕われている奏だった。
彼女は今日は、いつものバニー衣装ではなく、黒いTシャツにデニム姿。
髪を後ろでまとめ、化粧も控えめで、どこか静かな印象を纏っていた。
「ビール三箱、ジン一本、ウォッカ一本、オレンジジュース二ケースね」
「そう。あとスポーツドリンクも少し」
「了解。やっぱり買い出しはレンが一番早いね」
「ただ近かっただけだ」
淡々とした返事に、奏は小さく笑みを浮かべた。
「相変わらず、無駄なことは言わないんだね」
段ボールを整理し終えたあと、二人はバックヤードの古いソファに腰を下ろした。
店内はひっそりとしていて、天井の換気扇がゆるやかに回る音だけが響く。
営業していない夜の店は、まるで舞台の幕間のように、時間が止まっていた。
奏が冷蔵庫を開け、缶コーヒーを二本取り出す。
「はい、これ」
「ありがとう」
プルタブを開ける音が重なり、苦い香りが狭い空間に広がる。
しばらく無言のまま、缶を傾けていた。
その沈黙を破るように、蓮司がぽつりと呟いた。
「……今日も《とうどう》に行ったが、今日の紗月は元気がなかった」
奏の手が止まる。
「どういうこと?」
「笑ってはいたけど、疲れてるように見えた。どこか、空っぽな感じがした」
「……そう」
奏は膝の上に缶を置き、しばらく視線を落とした。
「最近ね、あの人あんまり寝てないみたい。常連の人たちも心配してる」
蓮司は黙って聞いていた。
奏が紗月の名前を出す時、その声の奥に、かすかな敬意が混じるのが分かる。
「紗月さんにはね、昔、本当に助けられたの」
蓮司が目を上げる。
「助けられた?」
「うん。私がまだ“蘭華”になってすぐの頃。
何も持ってなくて、心も体も壊れかけてた頃。
ふらっと入った喫茶店が《どうどう》だったの」
奏の表情が、少しやわらいだ。
「何も聞かずに、温かいコーヒーを出してくれた。
『しんどい時こそ、人に話していいのよ』って言ってね。あの笑顔、忘れられない」
「……そうか」
「だから、あの人は私にとって恩人なの。今も、誰かの居場所を作ろうとしてる。
それがどんなにしんどくても、止まらない人なんだ」
奏は一息ついて、蓮司をまっすぐに見た。
「レン。明日も《どうどう》に行くんでしょ」
「ああ」
「明日行ったとき、紗月さんに聞いてみて。
何か抱えてるなら、話を聞いてあげて」
蓮司は少しだけ目を伏せた。
人の痛みに踏み込むことを避けてきたのは、もう習慣のようなものだった。
守るつもりで殴り、助けるつもりで壊してきた過去が、今も胸に残っている。
「……俺が聞いたところで、何かできるわけじゃない」
「そうかもしれない。
でも、“気にしてくれる人がいる”って、それだけで救われる時がある」
奏の声は、静かに響いた。
その柔らかな笑顔に、どこか紗月の面影が重なる。
蓮司は缶をテーブルに置き、短く息を吐いた。
「……わかった。明日、行ったときに話してみる」
「うん。それでいい」
奏はゆっくり頷いたあと、ほっとしたように微笑んだ。
「やっぱり、あなたは優しいね」
「優しくなんかない。ただ……放っておけないだけだ」
「それを優しいって言うのよ」
その言葉に、蓮司はわずかに視線を逸らした。
時計の針が十時を指す。
照明をさらに落とした店内では、冷蔵庫のモーター音が低く唸り続けている。
外のガラス越しに見える街の灯りが、雨の予感を帯びて滲んでいた。
蓮司は立ち上がり、ドアノブに手をかけた。
「今日はもう帰る」
「うん、気をつけて」
「……ああ」
振り返ると、奏はまだ椅子に座ったまま、何かを考えるように目を閉じていた。
その横顔を一瞬見つめ、蓮司は静かに外に出た。
外の空気は冷たく、夜の湿気が肌にまとわりつく。
通りの向こう、灯りの揺らめくアスファルトが、まるで水面のように光っていた。
蓮司はポケットに手を入れ、静かに歩き出した。
――明日、もう一度〈どうどう〉に行く。
その約束が、なぜか胸の奥で重く響いていた。
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