『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

第4話「静寂のひび割れ」④

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 昼下がりの灼熱の光が、西木屋町通を照らしつけていた。
《どうどう》のドアを開けると、カランと鈴の音が鳴った。  
それだけで、胸の奥が少し和らぐ。  
今日も変わらず、コーヒー豆を挽く香ばしい香りが漂っていた。  
カウンターの奥に紗月がいた。いつも通りの白いシャツにエプロン姿。
けれど、その動きはどこか鈍く、笑顔の端が少しだけ引き攣っていた。

「おはよう、蓮司くん」
「おはよう。……なんか、疲れてるか?」
「え? ううん、そんなことないよ」

 紗月はいつものように笑ってみせたが、その笑みは薄いフィルムのようだった。
蓮司は黙ってカウンター席に腰を下ろす。
  
「いつものやつでいい?」
「頼む」

紗月は軽く頷き、静かに調理を始めた。
コンロに火が灯り、油の弾ける音が小さく響く。
やがて、プレートの上には、野菜と鶏胸肉を中心とした温かい料理が並んだ。
バランスの取れた栄養、控えめな味付け
 ――まさにアスリートのために作られた食事だった。  

「今日のは少し塩分控えめ。昨日ちょっと汗かいたんじゃない?」
「……見てたのか」
「顔がそう言ってるよ」
  
 紗月の声は穏やかだった。  
けれどその瞳の奥には、深い影が見える。  
蓮司はスプーンを手に取りながら、静かに言った。

「昨日、奏姐と話した」
 紗月の手が一瞬止まった。
「……奏ちゃんと?」
「うん。あの人、あんたに助けられたって言ってた」
 紗月はわずかに視線を落とした。
「そんな大げさなこと、してないよ。ただ、話を聞いただけ」
「それだけで、救われたって言ってた」

 短い沈黙が流れた。
店内の時計の針が進む音が、やけに大きく響く。
蓮司はスプーンを皿の上に置いた。

「……なにかあったのか?」
紗月の肩が、わずかに揺れた。
「どうしてそう思うの?」
「顔がそう言ってる」
「また、それ」
「それだけじゃない、元気がなさそうだ」
「そう、見える?」
「ああ、見える」

 紗月は苦笑を浮かべたが、その声には力がなかった。
「言いたくないなら無理に聞かない。ただ……放っておけないんだ」

 その言葉に、紗月はゆっくりと息を吐いた。
目の奥が赤く滲んでいくのが見えた。
しばらくの沈黙のあと、紗月は小さく呟いた。

「……娘が、帰ってこないの」
 蓮司は言葉を失った。
「娘?」
「うん。紗良っていうの。同い年なんだよ、蓮司くんと」
カウンター越しに見える紗月の表情は、かすかに震えていた。
「昨日から、家に帰ってこなくて。もう二日になる」
「警察には?」
「一応届けは出したけど……。でも、まだ“家出扱い”のまま」
「理由はわかるのか?」
 紗月は少し唇を噛み、視線を落とした。
「……紗良、友達を探してるの。由佳ちゃんって子」
「その子が?」
「悪い男に騙されてるみたい。SNSで知り合ったらしくて、
最近、家にも帰ってない」
「それを探しに?」
「そう。止めたのに、『放っておけない』って言って、飛び出していったの」
 紗月の声は、途中で震えた。
「由佳ちゃんの家にも行ったけど、行き違いで。連絡も取れないの。
紗良のスマホも、昨日から電源が切れたまま……」
 蓮司は無言で聞いていた。
テーブルの上のコーヒーの湯気が、ゆらりと揺れる。
「弟の侠一郎も、不安定になってる。
夜眠れないみたいで、学校も行きたがらないの」
「……弟がいるのか」
「うん。まだ中学生。優しい子なんだけど、繊細で……。
だから私が弱ると、あの子まで崩れちゃう」
紗月は小さく笑おうとしたが、声は泣き笑いに変わった。
「別居してる夫にも連絡した。探してくれてるけど、見つからない」

 蓮司は黙っていた。
けれど、胸の中に静かな衝撃が広がっていた。
 ――紗月に、家族がいた。
しかも、娘と息子がいる。
何度も店で会い、何気ない会話を交わしてきたが、
そんな話は一度も出たことがなかった。
ふと視線を落とすと、紗月の左手の薬指に小さなリングが光っていた。
それを見て、ようやく蓮司は改めて“現実”を理解した。

「……そうだったんだな」
「ごめんね、黙ってて」
「謝ることじゃない」

 沈黙が落ちる。
カップの底に残るコーヒーが、冷めて苦くなっていく。
やがて蓮司は、静かに口を開いた。

「紗月」
「なに?」
「手伝わせてくれ」
紗月は顔を上げた。
「……え?」
「紗良さんのこと。俺にも探させてくれ」
「駄目よ、そんな――」
「放っておけないんだ」
蓮司の声は低く、しかし確かだった。
「俺は昔、守れなかったことがある。
その時のこと、今でも夢に見る。
でも、あんたには後悔してほしくない」
紗月は視線を逸らし、唇を震わせた。
「……優しいね、蓮司くん」
「違う。俺はただ、あんたに世話になってるだけだ。恩を返したいだけだ」
紗月の目から、静かに涙が落ちた。
「……ありがとう。お願いしても、いい?」
「もちろん」
その言葉に、紗月は深く頭を下げた。
「ありがとう。本当に……」

 蓮司はポケットからスマホを取り出し、SNSを開いた。
指先が迷いなく動く。
【しばらくの間、〈殴られ屋〉は休業します。
再開の目処は立っていません。
再開の際は、またお知らせします。】
短い投稿を終えると、すぐに通知が鳴りはじめた。

「え、まじ?」「待ってたのに」「また戻ってきてください」
画面には、心配と残念が入り混じった言葉が次々に流れる。
蓮司は少しだけ目を細めて、それを閉じた。

「……これで、しばらくは自由に動ける」
紗月は泣きながら笑った。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「いいさ。見つけよう、紗良さんを」

 その言葉に、紗月は小さく頷いた。
カウンターの向こうで、泣き腫らした瞳が、それでも少しだけ光を取り戻していた。  
外の空では、薄い雲の切れ間から朝の陽が射していた。
その光が、コーヒーのカップの底で揺れて、
まるで小さな約束のようにきらめいていた。 
 ――必ず見つける。
蓮司は心の中でそう呟いた。
それは、誰に向けた誓いでもなく、ただ自分自身への宣言のようだった。


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