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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」
第6話「灰に触れる手」①
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安い香水と煙草の匂いが入り混じった空気の中、
"ナイトローズ"の奥の席で、蓮司は水の入ったグラスを指で回していた。
紫がかった照明がテーブルに落ちる影を歪ませ、
夜の街のざらついた熱を、薄く映している。
この店は木屋町でも比較的静かなほうだ。
だが、表の喧噪とは違う種類の“沈黙”がある。
無数の声と視線が、互いの思惑を隠したまま擦れ合うような、そんな空間だ。
「――君の名前は、なんて言うんや?」
目の前の男は、柔らかい関西弁で蓮司に声をかけた。
白いシャツの上に薄手のジャケットを羽織り、
年の頃は四十代くらい。
無駄のない立ち姿をしているが、夜の街に似つかわしくない清潔さが逆に目を引いた。
「名前を聞く前に名乗るのが筋なんじゃねぇのか?」
蓮司の返しに、男は一拍置いてから苦笑した。
「はは、そらそうやな。ええ突っ込みや。
悪かった。俺は八雲――八雲侠佑(やくもきょうすけ)言うんや。
よろしくな」
「……俺は蓮司。東雲蓮司だ」
互いに名を交わしたあと、わずかに探り合うような沈黙が流れた。
八雲の瞳は、明るい照明を受けても濁らず、どこか底の見えない透明さをしていた。
だが、その奥にある静けさは――傷のようなものを隠しているようでもあった。
「蓮司くん、やったな。君も……“紗良”を探してるんか?」
その名前を聞いた瞬間、蓮司の指が止まる。
氷がカランと音を立て、沈黙が弾けた。
「……そうらしいな。あんたもか」
「“らしいな”て。ちょっと他人事みたいやな」
「確信があるわけじゃない。まだ始めたばかりだ」
蓮司は短く息を吐いた。
今日の昼に、
紗月――紗良の母親から話を聞いて動き出したばかり。
目ぼしい情報は何ひとつ掴めていない。
それでも、じっとしていられなかった。
あの灰色の夜、何かが崩れ落ちたような予感だけが、彼を突き動かしている。
「ほな、俺と同じやな」
八雲は、手にしていたコーヒーカップを静かに置いた。
「最後に見たんは、木屋町や。昨日の夜。それっきりや」
「木屋町、か……」
「せや。あの辺、表も裏も歩いたけど、手がかりはひとつも出ぇへんかった」
蓮司は口の中でその言葉を噛みしめた。
木屋町――その名に、嫌な引っかかりを覚える。
「君は、どこを回っとる?」
「まだ、始めたばかりだ。警察にも話を通したが、当然何の成果もない。
これから、片っ端から聞いて回るつもりだ」
「片っ端から、か。骨折れそうなやり方やな」
八雲が苦笑した。
「ひとりで全部やる気か?」
「慣れてる」
「……へぇ。言うなぁ」
八雲はグラスの縁を指で叩きながら、蓮司をじっと観察していた。
「君、見た目よりずいぶん場慣れしてる感じやな。
普通の子どもなら、こういう店の空気に飲まれて声も出ぇへん」
「普通じゃないんだろ、俺は」
「それはよう分かるわ」
八雲の口調にはからかいよりも、妙な確信めいた響きがあった。
「……で、君は?」
蓮司が問い返す。
「紗良を探してる理由は?」
八雲は少しの間、黙ってから、息を吐いた。
「理由言わなアカンか?」
「別に」
「ほんならええやん」
八雲は、軽く笑ってみせた。
だがその笑みは、どこか無理に作ったように見えた。
「……まあ、一応言うとくけどな。紗良は、俺の娘や」
その言葉で、蓮司の表情がわずかに揺れた。
けれど、すぐに視線を落として、短く言った。
「そうか」
沈黙が落ちた。
店内のジャズが、ふたりの間を滑っていく。
「――協力、せぇへんか?」
八雲の言葉に、蓮司は眉をひそめた。
「協力?」
「そや。手分けしたほうが早い。
俺はフットワークは軽い方やけども夜の木屋町に詳しくない。
でも君は夜の木屋町に精通してるように見えるんや。
悪くない組み合わせやと思うけどな」
「悪いが、俺は簡単に他人を信用できるほど甘くない」
「……そらそうやな」
八雲は肩をすくめて、コーヒーを一口すすった。
「けどまぁ、信用してくれ言う気もない。ほんま、協力できたらええな思ただけや」
「……」
「ところで、これからどうするつもりなんや?」
「ひとり、会いに行く」
「誰に?」
「《Avalon》って店の女。蘭華っていう。店のオーナーだ」
「ほぉ、オーナーか。夜の街で女ひとりで経営ってのは大したもんやな」
「……昔から世話になってる。信用できる人間だ」
八雲は軽く頷いた。
「なるほど。ええ人脈持っとるやん。そこ行くんなら、俺も一緒に行ってええか?」
「…….勝手にしろ」
「ははっ、つれないなぁ。ま、助かるわ」
蓮司はスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
数コールのあと、スピーカーから明るい女性の声が響く。
『――珍しいじゃない、レン。あなたから電話するなんて』
「悪い、急だが、ひとり連れて行っていいか?」
『ふうん? 男?』
「そうだ」
『あなたが誰かを“連れてくる”なんて初めてね。いいわ、構わない。今夜は静かだから』
「助かる」
『気をつけて来なさい。外、暑いわよ』
通話を終えた蓮司がスマホをポケットに戻すと、八雲が笑みを浮かべた。
「親しいんやな」
「別に」
蓮司は短く答え、立ち上がる。
椅子の脚が床を擦り、金属音が夜の空気を裂いた。
「行くぞ。歩きながら話そう」
「おう、任せとき」
二人は“ナイトローズ”を出た。
扉を開けると、夜気が冷たく頬を撫でる。
通りにはネオンが滲み、雨上がりのアスファルトが街灯を歪ませていた。
八雲が一歩後ろから歩きながら言った。
「しかし、君……やっぱり普通の子どもちゃうな。夜の街が似合いすぎや」
「普通じゃないんだろ、俺は」
「せやな。……まぁ、それでええんちゃう?」
蓮司の背中が、淡い街の光に溶けていった。
その歩幅には迷いがなかった。
まるで、すでにこの夜の底を知っているかのように。
八雲は少しだけ息を吐き、無言でその背を追った。
静かに、灰のような風が流れる。
夜の木屋町が、再びふたりを呑み込もうとしていた。
"ナイトローズ"の奥の席で、蓮司は水の入ったグラスを指で回していた。
紫がかった照明がテーブルに落ちる影を歪ませ、
夜の街のざらついた熱を、薄く映している。
この店は木屋町でも比較的静かなほうだ。
だが、表の喧噪とは違う種類の“沈黙”がある。
無数の声と視線が、互いの思惑を隠したまま擦れ合うような、そんな空間だ。
「――君の名前は、なんて言うんや?」
目の前の男は、柔らかい関西弁で蓮司に声をかけた。
白いシャツの上に薄手のジャケットを羽織り、
年の頃は四十代くらい。
無駄のない立ち姿をしているが、夜の街に似つかわしくない清潔さが逆に目を引いた。
「名前を聞く前に名乗るのが筋なんじゃねぇのか?」
蓮司の返しに、男は一拍置いてから苦笑した。
「はは、そらそうやな。ええ突っ込みや。
悪かった。俺は八雲――八雲侠佑(やくもきょうすけ)言うんや。
よろしくな」
「……俺は蓮司。東雲蓮司だ」
互いに名を交わしたあと、わずかに探り合うような沈黙が流れた。
八雲の瞳は、明るい照明を受けても濁らず、どこか底の見えない透明さをしていた。
だが、その奥にある静けさは――傷のようなものを隠しているようでもあった。
「蓮司くん、やったな。君も……“紗良”を探してるんか?」
その名前を聞いた瞬間、蓮司の指が止まる。
氷がカランと音を立て、沈黙が弾けた。
「……そうらしいな。あんたもか」
「“らしいな”て。ちょっと他人事みたいやな」
「確信があるわけじゃない。まだ始めたばかりだ」
蓮司は短く息を吐いた。
今日の昼に、
紗月――紗良の母親から話を聞いて動き出したばかり。
目ぼしい情報は何ひとつ掴めていない。
それでも、じっとしていられなかった。
あの灰色の夜、何かが崩れ落ちたような予感だけが、彼を突き動かしている。
「ほな、俺と同じやな」
八雲は、手にしていたコーヒーカップを静かに置いた。
「最後に見たんは、木屋町や。昨日の夜。それっきりや」
「木屋町、か……」
「せや。あの辺、表も裏も歩いたけど、手がかりはひとつも出ぇへんかった」
蓮司は口の中でその言葉を噛みしめた。
木屋町――その名に、嫌な引っかかりを覚える。
「君は、どこを回っとる?」
「まだ、始めたばかりだ。警察にも話を通したが、当然何の成果もない。
これから、片っ端から聞いて回るつもりだ」
「片っ端から、か。骨折れそうなやり方やな」
八雲が苦笑した。
「ひとりで全部やる気か?」
「慣れてる」
「……へぇ。言うなぁ」
八雲はグラスの縁を指で叩きながら、蓮司をじっと観察していた。
「君、見た目よりずいぶん場慣れしてる感じやな。
普通の子どもなら、こういう店の空気に飲まれて声も出ぇへん」
「普通じゃないんだろ、俺は」
「それはよう分かるわ」
八雲の口調にはからかいよりも、妙な確信めいた響きがあった。
「……で、君は?」
蓮司が問い返す。
「紗良を探してる理由は?」
八雲は少しの間、黙ってから、息を吐いた。
「理由言わなアカンか?」
「別に」
「ほんならええやん」
八雲は、軽く笑ってみせた。
だがその笑みは、どこか無理に作ったように見えた。
「……まあ、一応言うとくけどな。紗良は、俺の娘や」
その言葉で、蓮司の表情がわずかに揺れた。
けれど、すぐに視線を落として、短く言った。
「そうか」
沈黙が落ちた。
店内のジャズが、ふたりの間を滑っていく。
「――協力、せぇへんか?」
八雲の言葉に、蓮司は眉をひそめた。
「協力?」
「そや。手分けしたほうが早い。
俺はフットワークは軽い方やけども夜の木屋町に詳しくない。
でも君は夜の木屋町に精通してるように見えるんや。
悪くない組み合わせやと思うけどな」
「悪いが、俺は簡単に他人を信用できるほど甘くない」
「……そらそうやな」
八雲は肩をすくめて、コーヒーを一口すすった。
「けどまぁ、信用してくれ言う気もない。ほんま、協力できたらええな思ただけや」
「……」
「ところで、これからどうするつもりなんや?」
「ひとり、会いに行く」
「誰に?」
「《Avalon》って店の女。蘭華っていう。店のオーナーだ」
「ほぉ、オーナーか。夜の街で女ひとりで経営ってのは大したもんやな」
「……昔から世話になってる。信用できる人間だ」
八雲は軽く頷いた。
「なるほど。ええ人脈持っとるやん。そこ行くんなら、俺も一緒に行ってええか?」
「…….勝手にしろ」
「ははっ、つれないなぁ。ま、助かるわ」
蓮司はスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
数コールのあと、スピーカーから明るい女性の声が響く。
『――珍しいじゃない、レン。あなたから電話するなんて』
「悪い、急だが、ひとり連れて行っていいか?」
『ふうん? 男?』
「そうだ」
『あなたが誰かを“連れてくる”なんて初めてね。いいわ、構わない。今夜は静かだから』
「助かる」
『気をつけて来なさい。外、暑いわよ』
通話を終えた蓮司がスマホをポケットに戻すと、八雲が笑みを浮かべた。
「親しいんやな」
「別に」
蓮司は短く答え、立ち上がる。
椅子の脚が床を擦り、金属音が夜の空気を裂いた。
「行くぞ。歩きながら話そう」
「おう、任せとき」
二人は“ナイトローズ”を出た。
扉を開けると、夜気が冷たく頬を撫でる。
通りにはネオンが滲み、雨上がりのアスファルトが街灯を歪ませていた。
八雲が一歩後ろから歩きながら言った。
「しかし、君……やっぱり普通の子どもちゃうな。夜の街が似合いすぎや」
「普通じゃないんだろ、俺は」
「せやな。……まぁ、それでええんちゃう?」
蓮司の背中が、淡い街の光に溶けていった。
その歩幅には迷いがなかった。
まるで、すでにこの夜の底を知っているかのように。
八雲は少しだけ息を吐き、無言でその背を追った。
静かに、灰のような風が流れる。
夜の木屋町が、再びふたりを呑み込もうとしていた。
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