『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

第10話「灰の光芒」①

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 暗い―。 
だがそれは夜の暗さではなかった。 
光そのものが拒まれたような、閉ざされた空間の暗さだった。 
床のどこかで、液体が滴る音がした。 
ぽたり、ぽたり。 
 一滴ごとに空気が濁る。鉄の匂いが、喉の奥を焼く。 
頬に触れる冷たい感触。 
それが汗なのか、涙なのか、誰かの血なのかもわからない。 
呼吸をするたびに、肺の中で何かが泡立つような音がした。 
遠くで誰かが泣いていた。 幼い声。 
近いのか遠いのかも、現実なのか記憶なのかも曖昧だった。 

『……やめて……もう、やめて……』 

 その声を、知っている。 
忘れようとしても、身体の奥が覚えている。 
耳ではなく、骨が反応した。 
胸の奥で、心臓の鼓動と一緒に響く。 

 世界が一瞬、赤く明滅した。 
まぶたの裏で、閃光のように何かが弾ける。 
それは光ではなく、痛みの残像だった。
白い壁が、赤に染まっていく。
でも、赤がどこから来たのかは見ない。 見たくなかった。
どこから染まったのかも分からない。
気づいたときには、もうすべてがその色に侵されていた。

 何かが倒れる音。 
鈍い音。 
続いて、空気が震えた。 
床を伝ってくるその震動が、腕の中まで響いた。 
自分の腕が動いている。 それを止めようとしても、止まらない。
 
『静かにしろ』 
『すぐ終わる』

 声がする。 
低く、湿った声。 
どこか遠くから響いてくるような気がした。 
けれど、それが他人の声なのか、自分の声なのかもわからない。
空気の奥で、誰かの喉がひび割れるような音がした。
声なのか、息なのか、区別がつかない。
ただ、その音が消えるたびに、世界の輪郭が崩れていった。

 手のひらに、ぬるい液体が伝う。
何度も洗ったはずの感触が、まだそこにこびりついている。
何かが倒れる音。鈍い音。
その瞬間、空気が裂けた。
耳鳴りの奥で、誰かが助けを呼んだ気がした。
けれど、それが過去の声か、今の声かもわからなかった。

 世界がゆっくりと傾く。 
天井の蛍光灯が揺れるたび、影が伸びて、形を失っていく。
床に散った何かが、光を反射して瞬いた。 
それがガラス片なのか、涙の滴なのか、もうどうでもよかった。
振り返れば、視界の奥に手が見えた。
その指先が何かを訴えていた。
 その瞬間、蓮司の掌に、爪がかすかに食い込んだ。
生きようとする力だった。
それが離れていく感触を、身体が覚えていた。
温もりが消える。
それでも手を離せなかった。
呼吸ができない。胸の奥で何かがひび割れる。

 誰かの手が、蓮司の腕を掴んだ。 
細く、震える手だった。 
その指先が何かを訴えていた。 
でも、その意味を理解するより先に
 ――温もりが、消えた。 音が止まった。
 風のない場所で、全てが止まる。 
自分の心臓の音だけが、どこか遠くで鳴っていた。 
その音すらも、やがて途切れる。
 
『……先生……」』

 唇が動いた。 
声にならない。
世界のどこにも、音がなかった。
だからこそ、心臓の鼓動だけがうるさく響いた。
 喉の奥で空気が切れる音がした。 
その瞬間、世界が崩れ落ちるように、闇が押し寄せた。
 ――そこで目が覚めた。

 息を吸う。 
冷たい空気が肺に突き刺さる。 
見慣れた天井。 
古びたアパートの天井板が、ぼやけた視界の中で焦点を結ぶ。
 汗で濡れた髪が頬に張りつく。
額から汗が滴り、枕を濡らしていた。
喉が渇いて、呼吸が途切れる。
 全身が粘つくように熱い。
けれど、指先だけが氷のように冷たかった。
そして、まだ夢の匂いだけが、肺の奥に残っていた。
まだ、誰かの体温を掴んでいる気がした。
 
(……また、あれか) 

 寝返りを打つ。 
背中が軋む。 
骨の奥に残る疼きは、夢の名残か、過去の痛みか。 
区別がつかない。
窓の外はまだ明けきらない。 
曇った空が街を覆い、光を押し留めていた。 
 灰色の朝。 
光が差しているのに、温かさはどこにもなかった。 
洗面所に向かい、水をすくう。 
冷たい水が頬を叩き、心臓の鼓動を無理やり戻す。 
鏡の中の顔が、知らない男のように見えた。 
目の奥に、まだ赤い残光が揺れている。 
 夢の中の色だ。 
現実には存在しないはずの色。 
喉の奥に、焦げた匂いが残っている。 
タバコの煙ではない。 
あの夜、押し付けられた火の匂い。 
皮膚の奥が疼く。 無意識に右手を見た。 
白く痕になった火傷跡が、朝の光の中でぼんやりと浮かび上がる。 

(あれから何年経った?) 

 数えようとしたが、無意味だった。 
時の感覚は、あの日で止まっている。 
身体は成長しても、魂だけが灰の中に閉じ込められたままだ。 
 手のひらをぎゅっと握る。 
拳の中に何もない。 
血も、温もりも。 
ただ、記憶の熱だけが残っている。 
それは罪の熱か、怒りの熱か、もはやわからなかった。

「……まだ、終わってねぇんだな」 

 呟いた声が、狭い部屋の壁に吸い込まれて消えた。 
答える者はいない。 
静寂の中で、心臓の鼓動だけがリズムを刻む。 
それが生きている証であり、同時に罰でもあった。 
カーテンの隙間から光が差し込み、部屋の埃が舞った。 
灰色の光の粒が、宙を漂っている。 
それがまるで、燃え残った灰のように見えた。
 蓮司はゆっくりと息を吐いた。 
吐き出すたびに、胸の中の熱が冷えていく。 
だが冷えた先には、何も残らない。 
焼け落ちた後の静けさだけが、確かにそこにあった。 
壁際の時計が、針を一つ進める音を立てた。 

 世界は動いている。 
それでも、蓮司の中だけは動かない。 
時間が流れても、あの日の匂いと音だけが生き続けている。 
指先に残る微かな震えを、蓮司は止めようとした。 
深呼吸をする。 肺の奥に冷たい空気を押し込み、胸を広げる。 
それでも、心臓の奥に沈んだ灰は動かない。 
そのまま、窓辺に立つ。 
街はまだ眠っている。 遠くで車の音。 
誰かの生活の気配。 
自分だけが、過去の時間に取り残されている気がした。 

(今日も……走るか) 

 蓮司は心で呟き、ゆっくりと背を伸ばした。 
筋肉が軋む。 
肩の奥で、古傷がかすかに痛んだ。 
それは生きている証でもあり、過去が消えない証でもある。 
着替えを済ませ、靴紐を締める。 
外の空気は、灰色の空の下で冷たく乾いていた。 
走り出せば、少しは忘れられる気がした。 

 だが、走るたびに胸の奥で燃える灰が、
再び熱を帯びるのを知っている。 
それでも――走るしかない。 
止まれば、過去に呑まれる。 
動くことでしか、呼吸は続かない。 
 蓮司は扉を開け、曇り空の下へ出た。 
吐く息が白く、すぐに風に消えた。 
それでも彼は走り出す。 
灰の上を、灰のような朝の中を。
終わらない夢の続きを、振り切るように。


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