『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

第9話「灰に触れる手」④

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 店を出る直前、侠佑は蘭華に深く頭を下げる。
その動作には、単なる礼儀ではなく、胸の底から滲む切実さがあった。
「何か分かったら、すぐ連絡を入れるわ。
こっちもできる限りのことはやらせてもらうで」
 侠佑が言うと、蘭華は小さく笑った。
「ええ。あたしも、できることがあったら言って。
昔紗月さんにはお世話になったから」
 ――それは、木屋町で生きる者たちの“ささやかな連帯”だった。

 血や家族で繋がっていなくても、同じ痛みを抱えている人間同士の約束。
蓮司は小さく「助かる」とだけ言って店を後にした。
背後で、〈Avalon〉の扉が静かに閉まる音がした。
街の喧騒が、再び二人を包み込む。

「……いい人やな、あの姉ちゃん」
 侠佑がぼそりと呟いた。
「夜の仕事してる人って、もっと鬼なんかと思ってたけど」
 蓮司は無言で歩き出した。
蘭華の言葉、あの“自由になれる気がする”という紗月の笑顔――
それらが頭の奥で、どす黒い靄のように絡みついて離れない。

「なぁ、蓮司くん。君、八坂高校におったんやな。
紗良のことは知らんでも由佳ちゃんのことは知らんのか?」
「知らないな」
「そっかぁ…。せや、蓮司くん。せっかくやし、連絡先交換しとこか。
何か分かったらすぐ共有できるし」
「……必要ない」
 即答だった。
侠佑は肩をすくめる。

「まぁまぁ、そう言わんと。オレしつこいで。
職業柄、人と繋がっとくのは基本や」
「俺は、一人でやる方が楽なんだよ」
「でも、楽と正しいは違うやろ?」

 軽口のようで、芯を食っていた。
蓮司は眉をひそめたが、何も言わなかった。
ただ無言で歩を速める。

「なぁ、明日も探しに出るやろ?」
「……ああ」
「ほな、明日も一緒に回ろや」
「勝手にしろ」
「よっしゃ決まりやな!」

 侠佑は子どものように笑った。
その明るさが、妙に耳に残る。
蓮司はため息を吐いた。

「……本当に勝手な奴だ」
 鴨川沿いの道に出ると、風が少し冷たくなっていた。
月がぼんやりと川面を照らし、三条大橋の欄干が淡い光を返している。
通り過ぎる人々の笑い声が、遠くの世界の音のように感じられた。
「オレ、こっちやから」
橋のたもとで侠佑が足を止めた。
「また明日な、蓮司くん」
「……」
 蓮司は短く頷くだけで、何も返さなかった。

 侠佑はそれでも構わないというように、
ひらりと手を振り、雑踏に消えていった。
残された蓮司は、橋の上に立ち尽くした。
川の水音が、心臓の鼓動と重なる。
夜の冷たさが肌に染みる。
 ――どこかで、見たことがある。
 ふと、胸の奥にざらついた記憶が浮かんだ。
侠佑の声。笑い方。
視線の奥の、どうしようもなく優しい光。
記憶の底に沈んでいた何かが、ふと蠢いた。
けれど、それが何なのか思い出せない。
思い出そうとするたび、頭の奥がじんじんと痛む。
(……なんだ、これは)
 思い出すな。
頭の奥で、もう一人の自分が警告を鳴らす。
次の瞬間、胸の奥が締めつけられた。
吐き気とめまい。
視界がぼやけ、手が震える。
だが、記憶の扉はもう半分開いてしまっていた。

――聖霊護院。

 耳鳴りがした。
白い壁。塗り重ねられた消毒液の匂い。
無機質な蛍光灯の明かりが、誰も笑わない廊下を照らす。
夜明け前、遠くの部屋から小さな泣き声。
すぐあと、乾いた音。
職員の怒鳴り声と、鈍い衝撃音が重なる。
頬を打たれる音。
倒れた子どもに冷水が浴びせられ、濡れた床が冷たく光る。
それを見ていた自分も、声を出せなかった。
出したら、次は自分の番になるから。
 夜。
ベッドの上で息を殺していた。
薬の匂いと消毒液の混ざった空気が鼻を刺す。
壁の向こうで鉄のベッドが軋み、誰かが名前を呼ばれる。
『静かにしろ』
 ドアが閉まり、沈黙が落ちる。
そのあとに響く音を、耳が覚えていた。
布の擦れる音。
泣き声。
それがやがて、笑い声に変わる――笑っているのは職員だった。
 朝が来る。
何もなかったように朝食が配られ、温いミルクが置かれる。
目を合わせてはいけない。
喉の奥が焼けるように痛い。
体のあちこちが青く腫れていた。
誰も気づかないふりをする。
けれど、地獄は職員だけじゃなかった。

 同じ入所児童――彼らもまた、壊れていた。
支配される側から支配する側へ。
その役を順番に引き受けていく。
夜、毛布を剥がされる。
『お前、職員に媚び売ってんだろ』
 誰かが髪を掴む。
鈍い痛み。笑い声。
蹴られ、押され、押し殺した悲鳴。
助けに来る者はいない。
翌日、その傷を見せれば「自業自得」と言われる。
 そうしてまた一日が始まる。
壊れた世界。
大人も、子どもも、同じ顔をしていた。
何も感じないふりをしながら、誰かの痛みで呼吸していた。
そこに“守る人間”なんて、ひとりもいなかった。

――やめろ……思い出すな

 けれど、“あの事件”の断片が、黒いノイズ混じりに蘇る。
暗い部屋。
“あの人”の悲鳴と俺に助けを呼ぶ声。
血の跡。
白いシーツに広がる影。
 ……そして、自分の手。

 蓮司は、無意識に頭を押さえた。
痛みが脳の奥で爆ぜる。
世界が歪む。
街灯が滲み、通りの音が遠のく。

 その瞬間、蓮司は我に返った。
気づけば、古川町商店街のアーケードの下にいた。
すべてのシャッターが降り、ネオンも消えている。
人の気配はなく、ただ自販機の灯りだけが、夜の中で生きていた。
蓮司はシャッターの前で、膝をついていた
冷たいアスファルトの感触が掌に伝わっている。
 蓮司は壁にもたれ、ずるずると腰を落とした。
呼吸が荒い。
喉の奥が焼けるように痛む。
 ――久しぶりだな、ここまで酷いのは。
自嘲するように小さく笑った。
額に冷たい汗が伝う。
 遠くで犬の吠える声が聞こえた。
頭痛と吐き気が交互に波のように押し寄せる。
記憶の中で、誰かが泣いていた。
それが誰なのか、もう分からない。
ただ、“助けられなかった”という事実だけが、身体の奥に残っている。
 ――もう、誰も救えないのかもしれない。
そんな思いが一瞬、心をよぎった。
けれど、蓮司はゆっくりと顔を上げた。
息を吸う。
夜風の冷たさが、まだ現実にいることを教えてくれる。
(……帰るか)
 壁に手をつき、立ち上がる。
足元がふらつく。
商店街のアスファルトに、吐息の白が落ちた。
「……ったく、弱ぇな」
 自分に向かって呟くように言った。
声はかすれていたが、その奥には確かな“怒り”があった。
自分自身への怒り。
過去に縛られて立ち止まる弱さへの、嫌悪。
ふらふらと歩き出す。
 家までは、あとほんの少し。
街灯の光が遠くにぼんやりと見える。
 ――その灯りの向こうに、“灰の路”が続いている。
行くしかない。
どれほど痛みが残っていようと。
蓮司は、湿った夜気を胸いっぱいに吸い込み、
歩き出した。



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