『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

第8話「灰に触れる手」③

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 《Avalon》の看板は、以前よりも明るく見えた。
ネオンの黒と白が交じり合い、夜気に溶けるように瞬いている。
二日前――あの騒動のあった夜が、嘘のようだった。
 蓮司は入口の前で立ち止まり、無意識に深呼吸をした。
ドアの向こうからは、低いベース音とグラスの触れ合う軽い音。
混じり合った笑い声が、夜の湿った空気に滲んでいる。
あの夜、怒号と酒の臭いに満たされていた店内とはまるで違う。
今夜の《Avalon》は“日常”を完璧に取り戻しているように見えた。
 ――少なくとも、表面上は。

「……繁盛してるな。さすが人気店やでぇ」

 隣で侠佑が低くつぶやく。
目だけで看板を見上げ、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
だが、その笑みの奥にあるのは感心ではなく、警戒だと蓮司は感じた。

 「行こう」

 蓮司が短く言うと、鉄の扉を押した。
中に入ると、光と香りの層が押し寄せた。
ピンクと紫の中間色の照明、カシスオレンジやブラックニッカの甘い匂い、
そしてバニー衣装のキャストたちの笑顔。
そのどれもが、ほんの少しだけ無理をしているように見える。
笑顔の奥に、“まだ終わっていない何か”が潜んでいる――そんな気配。

「いらっしゃいませ」

 ホールの奥から蘭華が姿を現した。
あの夜と変わらず黒いバニースーツ。
けれど、その瞳の色だけは少し柔らかくなっていた。
血の気を失った夜の光ではなく、覚悟のあとに残る静けさの光。

「……来たのね、レン」
 蘭華の声は穏やかだった。
蓮司は軽く頭を下げ、侠佑を手で示した。
「紹介したい人がいる。名前は八雲侠佑。紗月の旦那、だそうだ」
 蘭華の眉がわずかに跳ねた。
その表情は驚きと、言葉にできない複雑さが入り混じっていた。
「……あの紗月さんに、旦那さん……?
 あの人から夫の話なんて一度も聞いたことなかった」
 空気が少し張り詰める。
「まぁ、俺は別居中のろくでもない旦那で父親やし。
お情けで籍は残してもらってるけどな」
 ひょうひょうとした侠佑の言葉に、
蘭華は一瞬だけ視線を落とし、呼吸を整えるように小さく息を吐いた。
それから顔を上げ、柔らかく微笑む。
「奥で話しましょう。ここじゃ落ち着かないでしょ」

 案内されたのは、店の一番奥のボックス席。
深紅のソファと、黒いテーブル。
その上には、まだ誰かが飲んでいたグラスの水滴が残っていた。
蓮司はそれを見つめながら、静かに腰を下ろした。
侠佑は周囲を見渡してから、低い声で切り出した。

「この娘を知らんか?」
 そう言って、侠佑はスマホの写真を見せた。
そこには侠佑と一緒に写っている
快活な表情を浮かべている黒髪ロングの少女がいた。
「この子は?」
と蘭華は怪訝そうな顔をして尋ねた。
「この子の名前は紗良。
俺と紗月との間にできた娘や。
年は17歳。八坂高校の2年生や。
最後に目撃されたのが昨日の夜に木屋町にいたことだけや。
もし少しでもなんか知ってたら教えて欲しい、頼む」
「八坂高校…?それも2年生?
ねぇ、レン。あなた通ってたの八坂高校よね?
紗良ちゃんのことは知ってるの?」
「いや、同学年だったらしいが面識はない。
それより蘭華は何か知らないか?」

 蘭華は頬にかかる髪を耳にかけ、首筋に指を当てた。
細い指先が、思考をたどるようにゆっくり動く。
蓮司は、その仕草に見覚えがあった。
彼女が何かを思い出す前、必ずそうしていた。

「紗良ちゃんのことに関係あるか分からないけど。
……ねぇ、レン。一昨日のこと覚えてる?」
 蘭華の声が、空気を変えた。
「一昨日っていうと、3人組のチンピラが暴れてた日のことか?」
思い返すように蓮司が反応した。
「そう、その3人組のチンピラがね、
あなたが来る前に
 “ボスが馬鹿な女子高生を騙した”
 ――そう言って笑ってた。
それが、妙に引っかかってね」
 侠佑の眉間に深い皺が寄る。
「女子高生……?」
「ええ。彼らの口ぶりだと、“ボス”っていうのは彼らの上にいる誰か。
酔ってる様子だったけど、“写真がどうとか”“金になった”とか、
そんな言葉も出てた」
 空気が一気に重くなる。
蓮司は無意識に拳を握った。
「……それ、本当か?」
「聞き間違いじゃないと思う。あの夜、あの人たちは……
 何かを“壊す”ことを楽しんでる顔をしてた。
昨日も、その延長にしか見えなかったわ」
侠佑が深く息を吐き、手を額に当てる。
その手がわずかに震えていた。

「まさか、紗良が……関係あるってことなんか?」
 蘭華は答えなかった。
けれど、沈黙こそが肯定のように響いた。
店内の喧騒が、遠くでぼやけていく。
笑い声も、音楽も、まるで別世界の出来事のようだった。
その中で蓮司は口を開いた。

「恐らくその“騙された女子高生”というのが紗良の友達の由佳のことだろう」
「レン、どういうこと?」
「紗月から聞いた話では、紗良は友達の由佳を探している。
それでその由佳はSNSで知り合った悪い男に騙されてるみたいで、
最近、家にも帰ってない」
「じゃあ、紗良ちゃんは由佳ちゃんを探して?」
「ああ、そうだ。それであってたよな?八雲さん」
「あ、ああ、せやな」
 沈黙が流れた。
グラスの氷が音を立てて溶ける。
遠くで誰かが笑う声がしたが、それがひどく薄っぺらく感じられた。

「……蘭華」
 蓮司が低い声で呼んだ。
「その“ボス”って言葉、誰か思い当たる人はいないか?」
 蘭華は少しだけ考え、静かに首を振った。
「分からない、最近はヤクザよりも半グレっぽい人の方が多く見るし」
 侠佑の拳が、テーブルの下で小さく震える。
唇をかみ、息を吐き出すように言った。
「……紗良と紗良の友達が、そんなもんに巻き込まれてたっちゅうんか」
 蓮司は彼を見たが、何も言えなかった。
“あり得ない”と言うには、あまりにも現実的な話だった。
「……蘭華はん。
もしそのチンピラたちがまた来たら、すぐ連絡くれへんやろうか?
そいつらの“ボス”を追うには、断片だけでも必要やで」
 侠佑が強い口調で言う。
「分かったわ。
けど、もうあいつらが来ることはないんじゃないかしら
 ――ねぇ、レン?」
「む、むう」
 蓮司は押し黙った。
張り詰めていた空気が解けたような気がした。

「……大丈夫だ。今度は必ず守ってみせる」
 蓮司はそう呟いた。
「ああ、せやな」
 侠佑は頷いた。
その瞳の奥に、かすかな決意の光が宿っていた。
彼もまた、“戦う”ことを選んだのだろう。


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