『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

文字の大きさ
50 / 61
第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

第14話「灰の光芒」⑤

しおりを挟む
 扉を押すと、軋む音が腹の底に響いた。
湿った鉄の匂いが鼻を刺す。
薄暗い室内に足を踏み入れると、空気の重さが一気に変わった。
埃が光をまとって、静かに舞っている。
かつてボクシングジムだったこの場所には、もう人の声も気配もない。
今は、もう何も残っていない。
息を吐く音だけが、この空間の主だった。

 蓮司は黙って靴を脱ぎ、フロアの中央に立つ。
冷たい木の板の感触が足裏から伝わる。
空気は動かず、少し湿っていた。
その静けさの中で、彼はいつものルーティンを始めた。

 最初はステップワーク。
ボクシングの基本だ。
軽く膝を曲げ、重心を落とす。
足の裏全体ではなく、つま先と母趾球(ぼしきゅう)だけで
床を捉え左右に滑らせる。
 前へ、後ろへ、右へ、左へ。
音を立てず、床を擦るように。
彼の動きは一定のリズムを刻んでいるようでいて、どこか無機質だった。
ステップを踏むたびに、埃が舞い上がる。
蛍光灯の白い光が、その中で小さく瞬く。
時間の流れが曖昧になる。
 蓮司の意識は、目の前の動きだけに沈んでいった。
呼吸は静かで、一定だ。
だが、心の奥は波立っていた。
 どれだけ体を動かしても、頭の中から“あの声”が消えない。
泣いている誰かの声。
助けを求めている誰かの手。
それが誰だったのか、もう思い出せない。
けれど確かに、その光景は体に刻まれていた。

 ステップワークを終えると、彼は壁際に吊るされたサンドバッグの前に立った。
裸の拳を握り、軽く息を吐く。
 ──ここからが、いつもの十二ラウンドだ。
サンドバッグを叩く音は、最初は乾いた。
ドン、ドン──皮の表面が拳を弾き返す。
3分を1ラウンドとして、12ラウンド。
合計36分。
 その間、彼は一言も発さず、ただ打ち込み続ける。
ボクシングの打撃は、ただ腕を振るうだけではない。
拳を打ち出す瞬間、肩、腰、足の順にねじりを連鎖させて力を伝える。
右ストレートなら左のつま先をわずかにひねり、
腰を切り、最後に拳を走らせる。
 蓮司の体はそれを覚えていた。
筋肉が、関節が、もう考えなくても動く。
最初の数ラウンドは、まるで儀式のようだった。
 右。左。ジャブ。ストレート。ワンツー。
打つたびに、皮が裂けるような音が部屋に響く。
拳の骨が鈍く痛む。
それでも止めなかった。
痛みだけが、まだ“生きている”ことを確かめさせてくれる。

 五ラウンドを過ぎるころには、汗が顎から滴っていた。
呼吸は荒れ、シャツは背中に貼りついている。
拳は赤く腫れ、皮が少し剥がれ始めていた。
 だが、蓮司は気に留めなかった。
八ラウンド目を過ぎると、呼吸と音の区別がつかなくなった。
拳を打つ音が、まるで誰かの心臓の鼓動のように感じられる。
 ドン、ドン、ドン──
それは、彼が過去に聞いた怒号のリズムにも似ていた。
 殴り続けた拳の感触の中に、蓮司は何度も過去の影を見る。
 泣いている少年。
 叩かれる音。
 燃える煙草。
 声にならない叫び。
 それらが混ざり合って、サンドバッグの向こうに浮かび上がる。
 ──もう、やめろ。
そう思っても、体は止まらない。
打つたびに、頭の中が白くなっていく。

 気づけば、十二ラウンドが終わっていた。
サンドバッグの表面には、無数の汗の跡と、赤黒い血の染みが広がっていた。
蓮司は拳をほどき、息を吐く。
指の間から、細い血の線が滲み出ている。
けれど、痛みは感じなかった。
痛みを感じないことに、もう慣れてしまっていた。

 壁際のパンチングボールに向かう。
小さな革球がゴムの紐で天井から吊るされている。
軽く拳を当てると、ボールが高速で往復する。
 タン、タン、タン…
その音は、まるで時計の秒針のようだった。
リズムを崩せば、ボールは軌道を外れる。
わずかな集中の乱れが、すぐに跳ね返ってくる。
だからこそ、すべての雑念を削ぎ落とす。
思考が消え、時間の感覚がなくなる。
それは彼にとって、無我の境地に思えた。

 パンチングボールを止め、息を整えると、ダンベルを手に取った。
片手に1kgずつ。
軽く見える重さだがこれで3分×12ラウンドのシャドーボクシングを行えば、
腕の筋肉は確実に悲鳴を上げる。
 彼は鏡の前に立ち、構えた。
曇った鏡には、自分の輪郭がぼんやりと映っている。
見ているのが“自分”なのか、“かつての誰か”なのか、もう分からなかった。

 ラウンドタイマーが鳴る。
蓮司は拳を振るった。
 ジャブ、ストレート、スリップ、ウィービング。
 ステップを刻み、身体をひねり、空を打つ。
風を切る音が、微かに耳を掠めた。
鏡の中の自分が、ぼろ布のように揺れて見えた。
途中、呼吸が乱れる。
視界が滲む。
それでも止めない。
それはもう鍛錬ではなく、“確認作業”だった。
 ──まだ動ける。まだ壊れていない。
そう確かめるための儀式。

 十一ラウンド目には、腕が痙攣し始めた。
握力が抜けかけ、ダンベルが指の間で滑る。
それでも構わず、動き続けた。
鏡の向こうで、自分が崩れていくように見えた。
まるで、灰になっていく人間の影のように。

 最後のラウンド。
タイマーが鳴る音が遠くに聞こえた。
拳を振り、腕を引き戻す。
もう何も見ていない。
何も感じていない。
ただ、動きを止めた瞬間に崩れ落ちそうになる体を、意地で支えていた。

 ラウンド終了のブザーが鳴る。
蓮司は肩を落とし、ダンベルを床に置いた。
汗が滴り落ち、床に小さな斑点を作る。
胸が大きく上下し、呼吸が掠れる。
耳の奥で、自分の鼓動が鳴っていた。
 ドクン、ドクン、ドクン──
それはサンドバッグを打っていた時の音と、まるで同じリズムだった。
彼は天井を見上げた。
ひび割れた蛍光灯の光が、ぼやけて揺れている。
その下で、自分の影がゆらゆらと形を変えていた。
 ――紗良、由佳。
どこにいる。
その名を口の中で転がすように呟いた。
 声にはならなかった。
空気に吸い込まれて、消えた。
ジムの中には、再び静寂が戻った。
風の音も、外の気配もない。
ただ、彼の荒れた呼吸だけが、確かにそこにあった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...