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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」
第15話「灰の光芒」⑥
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廃ジムの扉を押し開けると、鉄が軋む音が夕風に溶けていった。
曇天は相変わらずだが、空の端にだけわずかに橙の色が滲んでいる。
日が落ちる寸前の光は冷たく、ビルの壁に反射して鈍い銀色の線を描いた。
蓮司は額の汗を手の甲で拭い、深く息を吐いた。
全身の筋肉が軋んでいる。
腕は張り、肩は重く、脚には鉛のような疲労がまとわりついている。
だがその痛みは、むしろ安心に近かった。
身体がきしむ感覚だけが、まだ“生きている”ことを確かめてくれる。
ジムを出てからも、胸の奥に残るのは、虚ろな静けさだった。
夕方の街は、昼のざわめきを残したまま沈んでいく。
商店街を抜ける風が、紙くずを転がしていく。
閉まっているBarの前で、マスターがシャッターを上げながら空を見上げていた。
蓮司は歩道に出ようと一歩踏み出した。
その時――
「うるせぇんだよ、女のくせに!」
男の怒鳴り声が、すぐ近くから響いた。
足が止まる。
声は立誠自治会館の方角、ジムの裏手の細い路地から聞こえてきた。
次に、女のヒステリックな叫び声。
「やめて、放してよッ!!」
胸の奥が、わずかに反応した。
誰の声かは知らない。
だが、耳の奥に刺さるようなその響きが、なぜか心を掴んで離さなかった。
蓮司は無意識に足を動かしていた。
廃ジムの前の細道を抜け、自治会館の脇の路地へ入る。
夕暮れの光はそこまで届かず、狭い通りは湿った暗さに包まれている。
壁には古びたポスターが貼られ、
足元のアスファルトには、雨の名残が黒い染みをつくっていた。
空気が重い。どこか遠くでカラスが鳴いた。
声が近づく。
「おい、こっちはまだ話が終わってねぇんだよ!」
「やめてってばッ! どいてよッ!」
蓮司は呼吸を整えながら、角をひとつ曲がった。
そこは自治会館の裏にある空き地。
錆びたフェンスに囲まれた、車二台分ほどのスペース。
地面は新しいアスファルトで、ただの1つの罅割れのない漆黒に覆われていた。
夕光の残滓の中、三人の男と一人の女がいた。
男たちは、三日前にAvalonで暴れていたチンピラたちだった。
一人は短髪で顎に傷があり、もう一人は金髪に近い茶髪を逆立てている。
残る一人は無精髭の、肩幅の広い男だ。
そしてその中心に、女がいた。
白いパーカーの裾が汚れ、髪が乱れている。
手首を男の一人に掴まれ、必死に振りほどこうとしていた。
その動きに、砂埃が立つ。
夕陽がその埃を透かして、薄い金色の幕をつくっていた。
蓮司は足を止めた。
夕暮れの風が頬をなでる。
冷たさよりも、心の奥の熱が勝っていた。
誰かの悲鳴や怒鳴り声には、もう何度も出くわしてきた。
それでも、このときだけは、なぜか視線を逸らせなかった。
脳裏のどこかで警鐘が鳴っていた。
身体が自然と構える。
疲れ切った筋肉が、再び熱を帯びるように。
まだ何も起こっていないのに、胸の奥で鼓動が早まっていた。
夕風の中で、フェンスがきしむ。
男たちの笑い声と、女の短い悲鳴が混ざり合う。
その音が、どこまでも遠くの世界のことのように、ゆっくりと蓮司の耳に届いた。
――気づけば、足が動いていた。
ジムを出て五分も経たない。
身体は疲労しているはずなのに、
心だけが、どこか鋭く研ぎ澄まされていく。
彼はただ、空き地の入口まで歩いた。
そして、沈みかけた光の中で立ち止まり、視線をその場に向けた。
短髪の男が、女の肩を押さえつけている。
その横で茶髪の男が何かを怒鳴り、もう一人の無精髭が口の端を歪めて笑っていた。
笑い声の奥に、酒と煙草の匂いが混じっている。
風が、彼らの間をすり抜けていく。
その瞬間、女の方が顔を上げた。
目が合った――ような気がした。
光が乏しい。
彼女の顔は陰に沈み、表情までは見えない。
ただ、震える肩と、唇が何かを言おうとしているのだけは分かった。
何かが、胸の奥で音を立てて崩れた。
蓮司は、そこから一歩も動けなかった。
怒りでも恐怖でもない。
ただ、深いところで何かがざらりと動く。
それが何なのか、自分でもわからないまま、夕風の中に立ち尽くしていた。
空は、もうすぐ夜に飲み込まれようとしていた。
曇天の向こうで太陽が沈みきり、街の明かりがぽつり、ぽつりと灯る。
風が冷えてきた。シャツの袖が揺れる。
そのとき、遠くで誰かが笑い声を上げた。
蓮司はゆっくりと息を吸い、吐いた。
何をするべきか、まだ決めていなかった。
だ、この光景だけは、目を離すことができなかった。
フェンスの向こう、声を荒げる男たちと、震える女。
その光景が、どこか遠い過去の記憶と重なっていくような気がした。
見知らぬ誰か。けれど、どうしてか、放っておけない。
足の裏が、湿ったアスファルトを踏みしめた。
夜の始まりを告げる風が吹き抜ける。
蓮司は、夕闇の中に立ち尽くしたまま、その場から一歩も動かずにいた。
曇天は相変わらずだが、空の端にだけわずかに橙の色が滲んでいる。
日が落ちる寸前の光は冷たく、ビルの壁に反射して鈍い銀色の線を描いた。
蓮司は額の汗を手の甲で拭い、深く息を吐いた。
全身の筋肉が軋んでいる。
腕は張り、肩は重く、脚には鉛のような疲労がまとわりついている。
だがその痛みは、むしろ安心に近かった。
身体がきしむ感覚だけが、まだ“生きている”ことを確かめてくれる。
ジムを出てからも、胸の奥に残るのは、虚ろな静けさだった。
夕方の街は、昼のざわめきを残したまま沈んでいく。
商店街を抜ける風が、紙くずを転がしていく。
閉まっているBarの前で、マスターがシャッターを上げながら空を見上げていた。
蓮司は歩道に出ようと一歩踏み出した。
その時――
「うるせぇんだよ、女のくせに!」
男の怒鳴り声が、すぐ近くから響いた。
足が止まる。
声は立誠自治会館の方角、ジムの裏手の細い路地から聞こえてきた。
次に、女のヒステリックな叫び声。
「やめて、放してよッ!!」
胸の奥が、わずかに反応した。
誰の声かは知らない。
だが、耳の奥に刺さるようなその響きが、なぜか心を掴んで離さなかった。
蓮司は無意識に足を動かしていた。
廃ジムの前の細道を抜け、自治会館の脇の路地へ入る。
夕暮れの光はそこまで届かず、狭い通りは湿った暗さに包まれている。
壁には古びたポスターが貼られ、
足元のアスファルトには、雨の名残が黒い染みをつくっていた。
空気が重い。どこか遠くでカラスが鳴いた。
声が近づく。
「おい、こっちはまだ話が終わってねぇんだよ!」
「やめてってばッ! どいてよッ!」
蓮司は呼吸を整えながら、角をひとつ曲がった。
そこは自治会館の裏にある空き地。
錆びたフェンスに囲まれた、車二台分ほどのスペース。
地面は新しいアスファルトで、ただの1つの罅割れのない漆黒に覆われていた。
夕光の残滓の中、三人の男と一人の女がいた。
男たちは、三日前にAvalonで暴れていたチンピラたちだった。
一人は短髪で顎に傷があり、もう一人は金髪に近い茶髪を逆立てている。
残る一人は無精髭の、肩幅の広い男だ。
そしてその中心に、女がいた。
白いパーカーの裾が汚れ、髪が乱れている。
手首を男の一人に掴まれ、必死に振りほどこうとしていた。
その動きに、砂埃が立つ。
夕陽がその埃を透かして、薄い金色の幕をつくっていた。
蓮司は足を止めた。
夕暮れの風が頬をなでる。
冷たさよりも、心の奥の熱が勝っていた。
誰かの悲鳴や怒鳴り声には、もう何度も出くわしてきた。
それでも、このときだけは、なぜか視線を逸らせなかった。
脳裏のどこかで警鐘が鳴っていた。
身体が自然と構える。
疲れ切った筋肉が、再び熱を帯びるように。
まだ何も起こっていないのに、胸の奥で鼓動が早まっていた。
夕風の中で、フェンスがきしむ。
男たちの笑い声と、女の短い悲鳴が混ざり合う。
その音が、どこまでも遠くの世界のことのように、ゆっくりと蓮司の耳に届いた。
――気づけば、足が動いていた。
ジムを出て五分も経たない。
身体は疲労しているはずなのに、
心だけが、どこか鋭く研ぎ澄まされていく。
彼はただ、空き地の入口まで歩いた。
そして、沈みかけた光の中で立ち止まり、視線をその場に向けた。
短髪の男が、女の肩を押さえつけている。
その横で茶髪の男が何かを怒鳴り、もう一人の無精髭が口の端を歪めて笑っていた。
笑い声の奥に、酒と煙草の匂いが混じっている。
風が、彼らの間をすり抜けていく。
その瞬間、女の方が顔を上げた。
目が合った――ような気がした。
光が乏しい。
彼女の顔は陰に沈み、表情までは見えない。
ただ、震える肩と、唇が何かを言おうとしているのだけは分かった。
何かが、胸の奥で音を立てて崩れた。
蓮司は、そこから一歩も動けなかった。
怒りでも恐怖でもない。
ただ、深いところで何かがざらりと動く。
それが何なのか、自分でもわからないまま、夕風の中に立ち尽くしていた。
空は、もうすぐ夜に飲み込まれようとしていた。
曇天の向こうで太陽が沈みきり、街の明かりがぽつり、ぽつりと灯る。
風が冷えてきた。シャツの袖が揺れる。
そのとき、遠くで誰かが笑い声を上げた。
蓮司はゆっくりと息を吸い、吐いた。
何をするべきか、まだ決めていなかった。
だ、この光景だけは、目を離すことができなかった。
フェンスの向こう、声を荒げる男たちと、震える女。
その光景が、どこか遠い過去の記憶と重なっていくような気がした。
見知らぬ誰か。けれど、どうしてか、放っておけない。
足の裏が、湿ったアスファルトを踏みしめた。
夜の始まりを告げる風が吹き抜ける。
蓮司は、夕闇の中に立ち尽くしたまま、その場から一歩も動かずにいた。
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