『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

第16話「臨界」①

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 夕闇は街を灰色に染めていた。
アスファルトに打ち込まれた工事用バリケードの黒と黄色が、
沈む陽の赤に滲むように見えた。  
 一歩。
蓮司がパイロンバーをまたいだだけで、空気が震えた。
足裏と新しい舗装面が擦れる音が、やけに大きく響く。 

「……誰だテメェ」  

 空き地の奥、缶ビールをぶら下げた男が振り向く。
続いて二人。
その輪の中心に――紗良がいた。  
胸の奥で、何かが軋んだ。
 吐き気。耳鳴り。血の味。
だが、不思議と視界は澄んでいく。
世界が細く絞られ、標的だけが残る。

 蓮司は立ち止まらなかった。 
止まる理由がなかった。  
肺の奥からせり上がってくる胃液の熱さを、
冷え切った唾液で無理やり飲み下す。  
 喉が焼けるように痛い。
その痛みが、かろうじて今の自分が立っている場所を
教えてくれる唯一の座標だった。

 頭蓋の裏側で、不快な羽音のような耳鳴りが続いている。  
キーン、という高い金属音ではない。
もっと低く、湿った、何かが泥の中を這い回るようなノイズ。  
それは三十分前に終えたばかりの、限界を超えたトレーニングの残響なのか、
それとも、脳の奥底から剥がれ落ちてきた過去の灰の音なのか分からなかった。

 視界が悪い。  
夕暮れの薄暗さのせいだけではない。  
世界が水槽の底のように揺らぎ、色彩が滲んで混ざり合っている。  
 立誠自治会館の古びたコンクリート壁。  
錆びたフェンスに絡みつく枯れた蔦。 
地面に転がる吸い殻と、潰れた空き缶。  
 それらすべての輪郭が、油絵の具を指でこすったように歪んでいた。
その歪んだ風景の中で、三つの影と、
一つの白い影だけが、異様なほど鮮明に浮き上がって見えた。

 男たちの顔には見覚えがあった。  
三日前、《Avalon》で床に這わせた連中だ。  
短髪の男、金髪の男、無精髭の大男。  
彼らがそこにいる理由は知らない。知る必要もない。  
ただ、彼らが囲んでいる「白い影」
――その少女の存在だけが、
蓮司の意識を現実に繋ぎ止める楔(くさび)となっていた。

 藤堂紗良。 
写真で見た顔と同じだ。  
黒髪のショートカット。小柄な体躯。  
だが、写真の中で快活に笑っていた表情はそこにはない。  
白いパーカーの肩を掴まれ、
怯えと強張りが混じった顔で、必死に足を踏ん張っている。
 蓮司は彼女の名前を呼ばなかった。  
呼べなかった。  
口を開けば、肺の中に溜まったどす黒い何かが、
言葉ではなく嘔吐物として溢れ出しそうだったからだ。  
 それに、名前を呼んでしまえば
 ――彼女を「守るべき人間」として認識してしまえば
 ――自分の中の均衡が音を立てて崩れ去る予感があった。
だから、ただ見た。  
虚ろな、しかし底光りする瞳で、射抜くように確認した。

(……いるな)

 それだけの確認。  
感情を挟まない、事実の認定。  
そうすることでしか、今の蓮司は立っていられなかった。
 男たちの一人、短髪の男が、不愉快そうに眉をひそめて蓮司を睨みつけた。  
彼はまだ気づいていない。  
逆光と夕闇が、蓮司の顔を影に沈めているせいだ。  
ただの通りすがりが、場の空気を読まずに入ってきた――そう判断したのだろう。

「おいコラ、何ガンつけてんだ。見世物じゃねぇぞ」 
「あっち行けや。怪我したくなかったらな」

 金髪の男が追従して嘲笑う。  
彼らの手には飲みかけの酒があり、足元には吸い殻が散乱している。  
その弛緩した空気。
暴力へのハードルが著しく下がった、安っぽい全能感。  
その匂いが、蓮司の鼻腔を刺激した。  
甘ったるいアルコールと、ニコチンの焦げた臭い。  
そして、恐怖を与えることを楽しむ、人間特有の腐臭。
 その臭いを嗅いだ瞬間、蓮司の中にあるスイッチが、軋みながら回った。  
カチリ、ではない。  
錆びた鉄扉を無理やり抉じ開けるような、不快な音を立てて。

 蓮司は足を止めなかった。  
一歩、また一歩。  
新しいアスファルトを踏む靴音が、静寂な路地裏にリズムを刻む。  
その歩調はあまりにも一定で、機械的だった。  
迷いも、恐れも、あるいは怒りさえも見えない。  
ただ「そこを通る」という事実だけが迫ってくる。

 距離が縮まる。  
十メートル。八メートル。五メートル。
男たちの表情が変わった。  
嘲笑が消え、怪訝な色が混じる。  
無視されていることへの苛立ちと、得体の知れない圧迫感への困惑。  
そして、蓮司が街灯の薄明かりの下に踏み込んだ瞬間――。

「あ……?」

 無精髭の男が、息を呑んだ。  
彼の脳裏に、三日前の記憶がフラッシュバックしたのだろう。  
ネオンの海。割れたボトル。  
そして、自分たちをゴミのように床へ沈めた、黒いパーカーの男。

「お、おい……こいつ……」 
「まさか、あの時の……」

 空気が凍りついた。  
男たちの全身から、先ほどまでの弛緩した空気が蒸発し、
代わりに冷たい緊張が張り詰める。  
後ずさりしようとする足音。  
握りつぶされた空き缶の音。  
それらの音が、蓮司の耳にはひどく遠く、
水槽の外の出来事のように聞こえた。

 蓮司の視線は、男たちを通り越して、紗良に向いていた。  
彼女もまた、蓮司を見ていた。  
最初は、助けが来たことへの安堵のような色が浮かんでいた。  
だが、蓮司の顔が光に晒された瞬間、彼女の表情は凍りついた。
 彼女は、蓮司を知っていた。  
直接会ったことはないはずだ。  
だが、その瞳孔が開く反応は、明らかに「恐怖」のそれだった。  
八坂高校での一件を生徒や教師から聞かされていたのか、
それとも夜の街の噂で「黒いパーカーの男」の姿を知っていたのか。  
 いや、そんな理屈ではないかもしれない。  
彼女は、本能で感じ取ったのだ。  
目の前に現れたこの男が、自分を助けに来た騎士などではなく、
もっと禍々しい、壊れた何かを抱えた「怪物」であるということを。

 紗良の肩が小さく震えた。  
その唇が、言葉にならない悲鳴を形作る。  
けれど、次の瞬間、彼女は唇をきつく噛み締めた。  
震えを無理やり押し殺し、睨みつけるような強い眼差しを蓮司に向ける。  
恐怖を怒りで塗りつぶそうとする、脆く、危うい強がり。  
その表情が、蓮司の記憶の底にある「誰か」と重なった。



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