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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」
第23話「臨界」⑧
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紗良は、そんな蓮司を凝視していた。
一歩、無意識に後ずさる。
彼女の脳裏に、ある記憶が蘇っていた。
八坂高校での事件。
退学になった男子生徒の話。
『あいつ、先輩らを殴り倒して半殺しにしたらしいよ』
『何考えてるかわかんなくて怖いよね』
噂は聞いていた。
だが、目の前の現実は、噂以上の凄惨さだった。
(……コイツが、八雲蓮司)
知っている。
けれど、知らない人みたいだ。
怖い。
けれど、その恐怖は、なぜか嫌悪感とは結びつかなかった。
彼は、自分を助けるためにやってきた。
その脚力は、自分に向けられたものではない。
彼がその足で踏み砕いたのは、自分を脅かしていた悪意だ。
震える体を押さえながら、紗良は複雑な視線を蓮司に向けた。
助けてくれてありがとう、と言いたい。
でも、喉が張り付いて声が出ない。
それほどまでに、今の蓮司が纏っている空気は、
鋭利で、触れれば切れるほど張り詰めていた。
蓮司は、紗良の方を見なかった。
見ることができなかった。
彼女の視線を感じるだけで、肌が粟立つ。
自分の汚れを見透かされているような気がして、いたたまれなかった。
それに、今の自分は八雲侠佑という男の前で、ただの獣のように暴れていた。
何故か奇妙な羞恥と嫌悪が入り混じっていた。
(……帰ろう)
蓮司は踵を返そうとした。
これ以上ここにいてはダメだ。
自分が誰かを傷つける前に、誰もいない暗闇に戻らなければ。
「おっと、ちょい待ち」
侠佑の声が、蓮司を引き止めた。
蓮司がギロリと睨むと、侠佑はニカっと屈託のない笑みを向けた。
さっきの怒号が嘘のような、明るい関西人の顔。
「蓮司くん、怪我してるやんか。脇腹、血ぃ出てるで」
「……かすり傷だ」
「あかんあかん、ばい菌入ったらどないすんねん。
それに、そんな顔と体して街歩いてたら、職務質問されまくりやで」
侠佑は馴れ馴れしく蓮司の肩に手を置こうとした。
蓮司が反射的に身を引くが、侠佑は気にしない。
「お二人さん、とりあえず場所変えよか。
こんなドブ臭いとこで立ち話もなんやし」
「俺は帰る」
「まあまあ、そう言わんと。嫁の店、すぐそこなん知ってるやろ?
手当てくらいさせてや。それに……」
侠佑はチラリと紗良を見た。
そして、蓮司の耳元で、誰にも聞こえないような小声で囁いた。
「……紗良はまだ震えてるで。あのままにしてええんか?」
その言葉に、蓮司の足が止まった。
紗良を見る。
彼女は確かに、まだ恐怖の余韻から抜け出せず、
立ち尽くしている。
自分が去った後、また別の誰かが来たら?
あるいは、先ほどの連中が戻ってきたら?
蓮司は舌打ちをした。
逃げ道を塞がれた気分だった。
この男は、人の痛いところを突くのが上手すぎる。
「……勝手にしろ」
蓮司は吐き捨てるように言った。
それが了承の合図だと受け取った侠佑は、パンと手を叩いた。
「よし、決まりや! ほな行こか。美味しいコーヒー淹れたるわ!
……嫁が」
侠佑は紗良の背中を優しく押した。
「紗良も、ほら。怖かったな。もう大丈夫やで」
「……うん」
紗良は小さく頷き、蓮司の背中を追いかけた。
三つの影が、夕闇の路地を歩き出す。
先頭を行く、傷ついた獣のような少年。
その後ろを歩く、複雑な眼差しの少女。
そして最後尾で、二人の背中を見守るように歩く、底知れない中年男。
彼らの向かう先は、高瀬川沿いに静かに佇む喫茶店――《とうどう》。
そこが、彼らの運命が交錯する、
束の間の休息地となることを、まだ誰も知らなかった。
一歩、無意識に後ずさる。
彼女の脳裏に、ある記憶が蘇っていた。
八坂高校での事件。
退学になった男子生徒の話。
『あいつ、先輩らを殴り倒して半殺しにしたらしいよ』
『何考えてるかわかんなくて怖いよね』
噂は聞いていた。
だが、目の前の現実は、噂以上の凄惨さだった。
(……コイツが、八雲蓮司)
知っている。
けれど、知らない人みたいだ。
怖い。
けれど、その恐怖は、なぜか嫌悪感とは結びつかなかった。
彼は、自分を助けるためにやってきた。
その脚力は、自分に向けられたものではない。
彼がその足で踏み砕いたのは、自分を脅かしていた悪意だ。
震える体を押さえながら、紗良は複雑な視線を蓮司に向けた。
助けてくれてありがとう、と言いたい。
でも、喉が張り付いて声が出ない。
それほどまでに、今の蓮司が纏っている空気は、
鋭利で、触れれば切れるほど張り詰めていた。
蓮司は、紗良の方を見なかった。
見ることができなかった。
彼女の視線を感じるだけで、肌が粟立つ。
自分の汚れを見透かされているような気がして、いたたまれなかった。
それに、今の自分は八雲侠佑という男の前で、ただの獣のように暴れていた。
何故か奇妙な羞恥と嫌悪が入り混じっていた。
(……帰ろう)
蓮司は踵を返そうとした。
これ以上ここにいてはダメだ。
自分が誰かを傷つける前に、誰もいない暗闇に戻らなければ。
「おっと、ちょい待ち」
侠佑の声が、蓮司を引き止めた。
蓮司がギロリと睨むと、侠佑はニカっと屈託のない笑みを向けた。
さっきの怒号が嘘のような、明るい関西人の顔。
「蓮司くん、怪我してるやんか。脇腹、血ぃ出てるで」
「……かすり傷だ」
「あかんあかん、ばい菌入ったらどないすんねん。
それに、そんな顔と体して街歩いてたら、職務質問されまくりやで」
侠佑は馴れ馴れしく蓮司の肩に手を置こうとした。
蓮司が反射的に身を引くが、侠佑は気にしない。
「お二人さん、とりあえず場所変えよか。
こんなドブ臭いとこで立ち話もなんやし」
「俺は帰る」
「まあまあ、そう言わんと。嫁の店、すぐそこなん知ってるやろ?
手当てくらいさせてや。それに……」
侠佑はチラリと紗良を見た。
そして、蓮司の耳元で、誰にも聞こえないような小声で囁いた。
「……紗良はまだ震えてるで。あのままにしてええんか?」
その言葉に、蓮司の足が止まった。
紗良を見る。
彼女は確かに、まだ恐怖の余韻から抜け出せず、
立ち尽くしている。
自分が去った後、また別の誰かが来たら?
あるいは、先ほどの連中が戻ってきたら?
蓮司は舌打ちをした。
逃げ道を塞がれた気分だった。
この男は、人の痛いところを突くのが上手すぎる。
「……勝手にしろ」
蓮司は吐き捨てるように言った。
それが了承の合図だと受け取った侠佑は、パンと手を叩いた。
「よし、決まりや! ほな行こか。美味しいコーヒー淹れたるわ!
……嫁が」
侠佑は紗良の背中を優しく押した。
「紗良も、ほら。怖かったな。もう大丈夫やで」
「……うん」
紗良は小さく頷き、蓮司の背中を追いかけた。
三つの影が、夕闇の路地を歩き出す。
先頭を行く、傷ついた獣のような少年。
その後ろを歩く、複雑な眼差しの少女。
そして最後尾で、二人の背中を見守るように歩く、底知れない中年男。
彼らの向かう先は、高瀬川沿いに静かに佇む喫茶店――《とうどう》。
そこが、彼らの運命が交錯する、
束の間の休息地となることを、まだ誰も知らなかった。
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