『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

第24話「臨界」⑨

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 チンピラたちの足音が路地の奥へと消え、あとには重苦しい沈黙だけが残された。  
遠くで鳴る都市の喧騒が、水底にいるかのように鈍く聞こえる。
蓮司は、荒い呼吸を整えようとしていた。  
 だが、肺が酸素を拒絶しているかのように、息苦しさは増すばかりだった。 
脇腹の刺し傷が、遅れて熱を持ち始めている。  
いや、痛みはそこだけではない。 
 
 右足だ。  
相手の顎を、肋骨を、太腿を蹴り砕いた右足が、
熱した鉄棒を埋め込まれたように疼いている。  
それは、暴力の代償としての痛みであり、
彼が「何か」を破壊した確かな感触の残響だった。

 (終わった……のか?)

 蓮司はぼんやりと、誰もいなくなった路地の暗がりを見つめた。  
終わらせたはずだ。  
害虫は駆除した。  
理不尽な暴力は、より強大な暴力によってねじ伏せられた。  
それが、蓮司の知る唯一の解決策だった。
 だが、その場の空気は決して「解決」などという清々しいものではなかった。  
漂うのは、吐瀉物と鉄錆、
そして微かな火薬のような焦げ臭い憎悪の残り香。

 「……ふぅ」

 その淀んだ空気を切り裂くように、八雲侠佑が大きく息を吐いた。  
彼はスマートフォンをジャケットの内ポケットにしまうと、
まるで事務仕事を一つ終えたあとのような手つきで、パンパンと衣服の埃を払った。

 「警察はな、時間かかるんや」

 唐突に、侠佑が口を開いた。  
その声は、先ほどの怒号とは打って変わって、平坦で、温度のないものだった。  
蓮司は虚ろな目で侠佑を見た。  
何を言っている?

 「被害届を出して、事情聴取して、
  現場検証して……正規の手順を踏めば、
  あいつらが逮捕されるまでには何日もかかる。
  その間に証拠隠滅もできるし、口裏合わせもできる。
  あいつらみたいな組織の末端は、そういう逃げ道だけは賢く学ぶもんや」

 侠佑は淡々と語る。  
それは説教でもなければ、武勇伝でもない。  
ただの事実の羅列。  
社会の裏側にある歯車の噛み合わせを説明する、整備士のような口調だった。

 「せやけど、動画(ブツ)があったら話は別や」
 侠佑はポケットの上からスマホをポンと叩いた。
 「現行犯に近い証拠能力がある。
  特に、今はどこの署もSNS炎上を極端に嫌がる。
  この映像がネットに流れて『警察は動かなかった』なんて叩かれるのが
  一番怖いからな。これを見せた瞬間、警察組織はメンツにかけて
  あいつらを全力で狩りに行く。事務的に、迅速に、容赦なくな」

 侠佑の言葉には、奇妙な説得力があった。  
彼は「正義」を語っていない。  
「システム」を語っているのだ。  
警察という巨大な官僚機構が、どのボタンを押せばどう動くか。  
学校や児童相談所が、どの情報を流せばどう反応するか。  
彼はその回路図を熟知していた。

「あいつらがビビって逃げたんは、俺の腕力やない。
俺が『事務処理』の手順を理解してる人間やと悟ったからや。殴
り合いなら勝てるかもしれんが、社会的な抹殺には勝てんとな」
 侠佑はそこで言葉を切り、蓮司をじっと見据えた。  
その視線は、鋭利なメスのように蓮司の内面を切り開いていく。
「……そんでな、蓮司くん。その『迅速な警察』の動きは、
あんたにとっても致命的やで」
 蓮司の眉がピクリと動いた。
「あんたがやったことは、過剰防衛どころか、明らかな傷害や。
相手がナイフ持ってたとはいえ、すでに戦意喪失した人間を執拗に蹴り続けた。
その痕跡は、現場検証すりゃ一発でバレる」

 侠佑は路地のアスファルトを指差した。  
そこには、チンピラたちが這いずり回った血の跡と、
蓮司が踏み砕いたであろう何か(おそらくは落としたスマホか、あるいは歯か)の
破片が散らばっていた。

「警察が来たら、あんたもパクられる。未成年やろうが関係ない。
……せやから、俺はあいつらを『逃がした』んや。警察を呼ばんとな」

 蓮司は息を呑んだ。  
この男は、チンピラたちを逃がしたのではない。  
俺を、逃がしたのか。  
警察という「正義」が到着する前に、この凄惨な現場を解散させるために。

 (……何なんだ、この大人は)

 蓮司の中で、侠佑という人間の輪郭が歪んでいく。  
ただのスクールソーシャルワーカーではない。  
かといって、裏社会の人間のような威圧感だけを持つ男でもない。  
表と裏、清濁の境界線上に立ち、どちらのルールも使いこなして
状況をコントロールする。  
その冷徹なまでの「大人の流儀」が、蓮司の熱り立った頭を急速に冷やしていった。
 蓮司の握りしめていた拳から、力が抜けていく。  
行き場を失った殺意が、体の中で澱みとなって沈殿していく。  
自分は、ただ感情に任せて暴れただけだ。  
だが、この男は、感情を殺して結果だけを掠め取った。  
その圧倒的な「格」の差に、蓮司は言いようのない敗北感を味わっていた。

 ふと、視線を感じた。  
紗良だ。
 蓮司は、恐る恐る彼女の方を見た。 
助けたはずだ。  
守ったはずだ。  
だから、安堵の表情か、あるいは感謝の言葉があってもいいはずだった。  
だが、そこに立っていた紗良の表情は、蓮司の期待を粉々に砕くものだった。
 彼女は、震えていた。  
顔面は蒼白で、唇は紫色になり、小刻みに痙攣している。  
その瞳は、蓮司を捉えていなかった。  
蓮司という「人間」を見ているのではない。  
彼女が見ているのは、血に濡れた黒いパーカー。  
凶器と化した右足。  
そして、獲物を屠った直後の、獣の瞳。

 『……ッ』

 蓮司と目が合った瞬間、紗良は小さく悲鳴を上げ、
ビクリと体を仰け反らせた。  
その反応は、チンピラたちに向けられたものと同じだった。  
いや、それ以上に深い、生理的な拒絶と恐怖。
 (ああ……)
 蓮司の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。  
知っている。  
この目は、知っている。  
八坂高校の生徒たちが、俺に向けた目だ。  

『あいつはヤバい』 
『関わったら壊される』  
『人間じゃない』

 彼女もまた、知っているのだ。  
蓮司が何者であるかを。  
かつて高校で何をしでかしたかを。  
そして今、目の前で繰り広げられた暴力が、その噂を証明してしまったことを。


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