『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』

たーゆ。

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第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

第25話「臨界」⑩

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 蓮司は視線を落とした。  
自分の足元を見る。  
自分が良く履いているスニーカーは、赤黒い血と泥で汚れていた。  
それはもう、洗っても落ちない汚れのように見えた。

 「……紗良」

 侠佑が、娘の名前を呼んだ。  
その声は優しかった。  
だが、その優しさの裏に、
冷ややかな刃が隠されていることに、蓮司だけが気づいた。
 侠佑は紗良の肩に手を置き、彼女の視線を遮るように立った。  
そして、背中で蓮司を感じながら、
娘に語りかけるように、しかし明らかに蓮司に届く声量で言った。

 「怖かったな。……もう、見んでええ」
 侠佑の手が、紗良の震える背中をさする。
 「この子はな、まだ高校生や。綺麗なもんだけ見て生きていけたら、
それが一番幸せやった」
 侠佑の声が、静かに夜気に溶けていく。
 「せやけど……紗良はな、もう汚い大人の顔を見とる。
  暴力でしか何も解決できん、哀れで汚い獣の顔をな」

 ドクン。
 蓮司の心臓が、早鐘を打った。 
その言葉は、誰に向けられたものだ?  
さっきのチンピラたちのことか?  
いや、違う。  
「暴力でしか解決できない」人間は、
今ここに、もう一人いる。

 侠佑は蓮司の方を見なかった。  
あえて見なかった。  
それが、言葉の刃をより深く突き刺すための演出であることを、
彼は知っていたからだ。  
「汚い大人」。  
その言葉が、蓮司の全身を呪縛のように締め付ける。
 蓮司の脳裏に、忌まわしい記憶がフラッシュバックする。    

 ――『お前らみたいなゴミは、痛みでしか理解できないんだよ』  

 かつて彼が入所していた「精霊護院」。  
そこの男性職員が、嗜虐的な笑みを浮かべて暴力を振るっていた時の顔。  
正義や指導という言葉でコーティングされた、純粋な加害の表情。

 ――『悪いな、これも仕事なんでね』  
生きるために身を投じた、裏社会の用心棒時代。  
止まらなくなった「大人」たちが、弱者を踏みつける時に見せた、麻痺した瞳。
 そして――。

 ――『あいつ、やりすぎだろ……』  
八坂高校の廊下で、血まみれの先輩を見下ろしていた、あの日の自分。  
鏡に映った、虚ろで、冷酷で、どこか恍惚とした表情を浮かべていた自分。

 (……同じだ)

 蓮司は、自分の手が震えていることに気づいた。  
怒りではない。  
恐怖だった。  
あいつらと同じ顔を、今の俺はしていたのか。  
守りたかったはずの少女の前で。  
最も忌み嫌っていた、理不尽な暴力を振るう「汚い大人」の顔を。

 (俺は……守ったんじゃ、ない)

 蓮司は唇を噛み締めた。  
鉄の味が口の中に広がる。

 (ただ、壊したかっただけだ。自分の気に入らないものを。
  自分の過去を。自分の弱さを
  ……それを、正当化するために、彼女を利用しただけだ)

 自己嫌悪という名の泥沼が、蓮司の足元から這い上がってくる。  
吐き気がした。  
自分の存在そのものが、この世界を汚す汚物であるかのような感覚。  
先ほどまでの高揚感は消え失せ、残ったのは底なしの虚無感だけだった。
 紗良の怯えた視線が、改めて突き刺さる。  
それは「ありがとう」の代わりとしては、あまりにも残酷な報酬だった。  
けれど、それが相応しいのだと、蓮司は思った。  
獣には、獣の扱いがお似合いだ。

 「……行くで」

 侠佑の声に、蓮司は弾かれたように顔を上げた。  
侠佑はすでに歩き出していた。  
紗良の肩を抱き、ゆっくりと路地の出口へ向かっている。  
その背中は、何も語らなかった。  
慰めも、断罪も、もう十分だと言わんばかりの、大きな背中。
 蓮司は、動けなかった。  
足が重い。  
右足が、まるで他人のもののように言うことを聞かない。  
だが、ここに一人で残ることもできなかった。  
暗闇に取り残されれば、
自分の中の怪物が完全に自分を食い尽くしてしまうような気がした。

 ズリ……。
 靴底を引きずる音がした。  
蓮司は、重い足取りで二人の後を追った。  
傷ついた脇腹を手で押さえ、前屈みになりながら、惨めな獣のように。
 路地を抜けると、街の明かりが目に痛かった。  
木屋町の夜は、まだ始まったばかりだ。  
楽しげな笑い声、客引きの呼び込み、車のクラクション。  
それら日常の音が、蓮司を余計に孤独にさせた。  
自分だけが、別の世界
 ――「灰色の世界」の住人であると思い知らされる。

 前を行く侠佑と紗良の姿が、光の中に溶け込んでいく。  
蓮司は、その光に触れることを恐れるように、影の中を選んで歩いた。
    
 「蓮司くん」

 ふいに、前を行く侠佑が振り返らずに声をかけた。  
歩調は緩めない。  背中越しの言葉だ。

 「コーヒー、ブラックでええか?」

 日常的な、あまりにも日常的な問いかけ。  
その落差に、蓮司は一瞬、言葉を失った。  
さっきまで「汚い大人」と断罪し、
事務的な脅しをかけた男が、今は客の好みを尋ねている。

 「……ああ」

 蓮司は掠れた声で答えた。  
それ以上の言葉は出なかった。  
今はただ、その苦い液体が、
喉に張り付いた血の味を洗い流してくれることを願うしかなかった。
 三人の影が、アスファルトの上に長く伸びている。  
一つは大きく、包容力のある影。  
一つは小さく、震えている影。  
そしてもう一つは、歪で、今にも崩れそうな、孤独な影。
 重なり合いながら、混じり合いながら、彼らは「灰の路」を進んでいく。  
その先にあるのが、救いなのか、さらなる絶望なのかも分からぬまま。



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