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森と熊さんと少女と
しおりを挟む走り出してすぐ、失策に気づいた。
人間が熊相手にまっとうに追いかけっこして勝てる訳がない。
この異世界なら敏捷ステータス次第であり得るかもしれないが、
肝心の俺の敏捷はゼロである。
とっさにすぐ傍にあった木の陰に、身を投げ出すようにして飛び込む。
直後、すでに背後まで迫っていたらしい熊の前足の爪がその木を抉った。
「う、おおおッ! 」
木を蹴りつけて前転、その勢いで立ち上がってまた走り出す。
タイムラグなく立ち上がれたため、再び数メートルの距離が空いた。
「何とか……もっと距離をッ! 」
前転の際に掴んだ土を熊の顔面めがけて投げつける。
ほんの数秒だが、ひるませることに成功。
次の手を考えつつ足を前に進め、
そのまま踏み外し転落した。
「うあああッ!? 」
落下する俺。どうやら進む先に小さな崖のような段差があったらしい。
二メートルに満たない高さだが、落ちて体を打ち付けた衝撃ですぐには立てない。
熊は段差の前で一度は足を止めたものの、こちらを諦めた訳ではないようだ。
崖のようになっているのは俺の落ちた場所だけで、そこから回り込むような坂がこちらに続いている。
飛び降りてくるか回り込んでくるか……いずれにせよすぐにこちらへ来るだろう。
どうする……?
心の端から這い上ってくる絶望感を振り切るように、
何とか思考を回転させようとしたその時。
がさり、と茂みを揺らすような音が横から聞こえた。
「え……? 」
心情は近かったかもしれないが、呆然とした声は俺の物ではない。
俺と熊の中間位の距離、横の茂みから出てきたのは、
赤銅色の髪を三つ編みにした俺より少し年下位の少女だった。
驚愕、とは少し異なるかもしれない。
予想もしていなかった第三者の乱入に、思考が一度リセットされたように空白になる。
冷静というよりは何もなくなって無感情な頭の中に現在の状況が入力されていく。
「……逃げろッ!」
一瞬の間をおいて俺が取った行動は、茂みから出てきた少女に逃走を促すことだった。
「え? ……あ……」
その言葉を聞いた少女は逃げるでもなく、へたりとその場に座り込んでしまった。
青ざめた顔で、少し震えている。
腰が抜けたのか?
彼女がこの世界の一般人だったとして、突然目の前に興奮して襲い掛かってきそうな熊が現れれば、
あり得ない反応ではないかもしれない。
「グルルッ! 」
熊が唸る。俺を追っていた筈だが、今は突然現れた少女に対して身構えていた。
「ひ……」
少女は立ち上がれないようで、ぎゅっと身を縮めて怯えている。
そのことに舌打ちしたい思いと共に、ある考えが頭をよぎる。
このままあの子が襲われているうちに逃げられないか?
体の状態を確かめながらゆっくりと立ち上がる。
幸い足は無事であり、まだ走ることはできそうだ。
だが動けない少女の所へ行って一緒に逃げようとすれば、二人とも殺されるだろう。
熊に立ち向かって彼女を救うことなど、ステータスオールゼロの俺にできよう筈もない。
巻き込んでしまったことに罪悪感はあるが、それで見知らぬ少女のために自分の命までは捨てられない。
そこまで考えた時、熊が段差の脇にあった坂に向かって走り出した。
一気に駆け下り、そのままの勢いで飛びつくように座り込んだ少女に襲い掛かる。
逃げるなら、今しかない。生きるか死ぬかの瀬戸際に見知らぬ少女の命など。
「知ったことかッ! 」
叫んで、気が付けば熊の顔面を殴り飛ばしていた。
知ったことじゃない。見知らぬ人間の命など。
ただ、この場面で逃げ出す自分が気に食わなかった。
逃げだすことしかできなくて、それを理屈で正しいことだと考える自分に、どうしようもなく抗いたかった。
そして、いつも通りその感情に流されたのだ。
いつになく、力に溢れているような感覚。
殴り飛ばした熊の顔面が弾け飛び、頭の半分を失った熊の胴体が後方に倒れた。
「……あれ? 」
思わず自分の拳を見つめる。
いや、いくら力に溢れたような感覚があったからって、ここまでの結果は想定していなかった。
自分のステータスを見直しても、相変わらずのオールゼロ。
熊の死体を見つめて出てきた文字列を確認してみても、
『熊を破壊した』
の一文のみ。
「リンゴの時と同じ……原因はわからず、か。……あ」
ため息をついて思考を打ち切り、ふと思い出して先程の少女の方を見やる。
「ひッ……」
危機一髪命を救われた筈の少女はしかし、先程よりも追い詰められた表情で。
俺が何かいうよりも早く、短い悲鳴を上げて気を失った。
「ええー? ……ああ」
ちょっと困惑したが、自分の姿を見て理解した。
熊の頭をふっ飛ばした時、血やら脳漿やらが飛んできてべっとり付いている。
一般人には刺激の強い光景だったかもしれない。
「……起きるまで待つか」
その辺の草や葉を引き抜いて体を拭いつつ、気絶した少女を見てつぶやく。
差し迫った命の危機が去った今、気を失っている彼女を放っておく気にはなれないし、
彼女が目覚めれば人里に案内してもらえるかもしれない。
できればそこで体を洗いたいなと思いながら、俺は少女の目覚めを待った。
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