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第11話 暗闇に光る嫉妬の瞳
春の陽が昇り、城下の雪がすっかり溶けていた。レグナールの街には緑が芽吹き、石畳の通りには花売りの声が響く。だが、王城の壁の内側には、決して溶けない氷があった。
セレナは朝早くから王妃補佐としての任務に就いていた。文官たちとの打ち合わせ、城の慰問計画の整理、そして各国からの書簡の翻訳。休む間もない一日が続く。
それでも、彼女は淡々と仕事をこなしていた。ただ、時折廊下を歩くとき、何者かの視線を感じる。それは侍女や騎士の視線ではない。もっと冷たく、ねっとりとした何かだった。
――また、見られている。
背筋を這うような感覚が、日に日に強くなる。
だが振り返っても、そこには誰もいない。
昼下がり、セレナは文書の束を抱えて王太子の執務室を訪ねた。
「入れ。」
扉の向こうから聞こえるレオンの低い声。
セレナが入ると、彼は複数の補佐官を従えていた。机の上には地図が広がり、隣国の国境線に朱色の印がいくつも記されている。
「セレナ、そなたに一つ頼みがある。」
「何でしょうか?」
「近日行われる協議会に、補佐として出席してもらいたい。」
「外交会議に、わたくしが?」
「お前の母国――いや、以前の居国・セントラルから公式代表が来る。貴女の判断力と冷静さが必要だ。」
「……承知いたしました。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に一抹の不安がよぎる。
「ただし」
レオンが顔を上げる。「その場で何を言われても、表情を崩すな。相手はお前を挑発してくるだろう。」
「心得ております。」
補佐官たちはその様子を黙って見ていたが、そのうちの一人――若い将校が小さな咳払いをした。
「殿下……ですが、異国の女性を王族の会議に同席させるのは、国王陛下の許可が必要かと。」
「許可は私が取る。」レオンの声が低く響く。「この件に異論があるか。」
「……滅相もございません。」
将校はわずかに顔を曇らせ、黙り込んだ。
セレナは、その男の視線に奇妙な違和感を覚えた。嫉妬にも似た、濁った憎悪の色。
*
夕刻。王宮の中庭では、晩餐の準備が進められていた。
セレナはしばし屋内を離れ、人気のない花園へと足を向けた。
空気が柔らかく、薔薇のつぼみが夕陽に照らされている。
「ふう……平和ですね。」
小さく息を吐いた瞬間、背後に足音がした。
「珍しいな。こんな場所で一人とは。」
振り向くと、昼の会議にいた若い将校――ルーカス・ベルンハルトが立っていた。黒髪を整え、整った顔に皮肉な笑みを浮かべている。
「ルーカス殿。お仕事を終えられたのですか。」
「ええ、殿下の仕事を一部引き継いでおりまして。」
彼はゆっくり近づく。
「王太子殿下は、貴女を特別に扱っておられますね。」
「……そんなことはございません。」
「ありますよ。侍女たちが言っていました。異国の令嬢が王太子の心を溶かした、と。」
その言葉に、セレナの目が冷たく細まる。
「侍女の噂話など、聞くに値しません。」
「失礼、そうおっしゃるでしょうね。」
ルーカスの笑みが、ごくわずかに歪んだ。
「私はずっと殿下にお仕えしてきました。信頼もされている。……しかし最近、あなたが殿下の傍にいるせいで、すべてが少しずつ変わっている。」
「それが不都合なのですね。」
「当然だ。あなたは外の者だ。血筋も民も違う。なのに、なぜ王太子の隣に立っている?」
怒気を含んだ声。だが、底には焦りのようなものがあった。
セレナは一歩、彼に近づいた。
「もしそれが嫉妬であるなら、愚かなことです。わたくしは殿下の心を奪った覚えなどありません。」
「そう言い切れますか?」
「はい。」
即答する声が、庭の静けさに響く。
その瞳の揺らぎのなさに、ルーカスが動きを止めた。
「……なるほど。あなたは恐ろしい。」
「何とでもおっしゃいなさい。」
セレナは静かに踵を返した。だが、背後でルーカスの低い声が再び聞こえる。
「殿下を惑わせる女は、国を乱す。私は忠誠心ゆえに、あなたを見過ごすつもりはない。」
「脅しのつもりですか。」
「忠告です。」
その声音は静かで、しかし冷たく研ぎ澄まされていた。
*
夜、セレナは自室に戻ったが、胸の疼きが収まらなかった。
嫉妬――それは恐ろしいほど静かに人を狂わせる。
彼女が王都で味わった蔑みとは違う。今、彼女を囲むのは、計算された敵意だった。
机の上に置いた小さなランプの火が揺れる。
その明かりに照らされた手紙の束。その中の一通に、奇妙なものが紛れていた。
封筒には送り主の名がなく、ただ“警告”とだけ書かれた札が入っている。
――夜明けに血を見る前に、去れ。
セレナの指先が冷たくなった。
「これは……誰が……」
彼女はすぐにレオンのもとへ行こうと立ち上がったが、その直前、廊下を歩く足音が近づいてきた。
扉が叩かれる。
「セレナ、起きているか。」
「殿下!」
慌てて扉を開けると、そこにはひどく険しい表情のレオンが立っていた。
「この部屋に怪しい者が出入りしていないか。」
「え?」
「警備隊が不審な報告を受けた。誰かが城内に紛れ込んでいる。」
セレナは震える手で手紙を差し出した。
「これを、先ほど……」
レオンが受け取り、目を通す。その瞳に鋭い光が走った。
「やはり動いたな。これは脅迫状だ。」
「殿下、わたくしは……」
「大丈夫だ。」
そう言ってレオンはそっと彼女の腕を取った。
「今夜は私の執務室で過ごせ。護衛をつける。」
その声は低く優しく、同時に命令のように強い。
セレナは頷き、導かれるままに廊下を歩いた。
彼の手の温もりだけが、夜の冷気の中で確かな現実を感じさせてくれる。
だが――誰も気づかぬ黒い影が、遠くの角からその姿を見つめていた。
その瞳は闇の中でゆらめき、まるで炎のように嫉妬の色で光っていた。
(第11話 終)
セレナは朝早くから王妃補佐としての任務に就いていた。文官たちとの打ち合わせ、城の慰問計画の整理、そして各国からの書簡の翻訳。休む間もない一日が続く。
それでも、彼女は淡々と仕事をこなしていた。ただ、時折廊下を歩くとき、何者かの視線を感じる。それは侍女や騎士の視線ではない。もっと冷たく、ねっとりとした何かだった。
――また、見られている。
背筋を這うような感覚が、日に日に強くなる。
だが振り返っても、そこには誰もいない。
昼下がり、セレナは文書の束を抱えて王太子の執務室を訪ねた。
「入れ。」
扉の向こうから聞こえるレオンの低い声。
セレナが入ると、彼は複数の補佐官を従えていた。机の上には地図が広がり、隣国の国境線に朱色の印がいくつも記されている。
「セレナ、そなたに一つ頼みがある。」
「何でしょうか?」
「近日行われる協議会に、補佐として出席してもらいたい。」
「外交会議に、わたくしが?」
「お前の母国――いや、以前の居国・セントラルから公式代表が来る。貴女の判断力と冷静さが必要だ。」
「……承知いたしました。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に一抹の不安がよぎる。
「ただし」
レオンが顔を上げる。「その場で何を言われても、表情を崩すな。相手はお前を挑発してくるだろう。」
「心得ております。」
補佐官たちはその様子を黙って見ていたが、そのうちの一人――若い将校が小さな咳払いをした。
「殿下……ですが、異国の女性を王族の会議に同席させるのは、国王陛下の許可が必要かと。」
「許可は私が取る。」レオンの声が低く響く。「この件に異論があるか。」
「……滅相もございません。」
将校はわずかに顔を曇らせ、黙り込んだ。
セレナは、その男の視線に奇妙な違和感を覚えた。嫉妬にも似た、濁った憎悪の色。
*
夕刻。王宮の中庭では、晩餐の準備が進められていた。
セレナはしばし屋内を離れ、人気のない花園へと足を向けた。
空気が柔らかく、薔薇のつぼみが夕陽に照らされている。
「ふう……平和ですね。」
小さく息を吐いた瞬間、背後に足音がした。
「珍しいな。こんな場所で一人とは。」
振り向くと、昼の会議にいた若い将校――ルーカス・ベルンハルトが立っていた。黒髪を整え、整った顔に皮肉な笑みを浮かべている。
「ルーカス殿。お仕事を終えられたのですか。」
「ええ、殿下の仕事を一部引き継いでおりまして。」
彼はゆっくり近づく。
「王太子殿下は、貴女を特別に扱っておられますね。」
「……そんなことはございません。」
「ありますよ。侍女たちが言っていました。異国の令嬢が王太子の心を溶かした、と。」
その言葉に、セレナの目が冷たく細まる。
「侍女の噂話など、聞くに値しません。」
「失礼、そうおっしゃるでしょうね。」
ルーカスの笑みが、ごくわずかに歪んだ。
「私はずっと殿下にお仕えしてきました。信頼もされている。……しかし最近、あなたが殿下の傍にいるせいで、すべてが少しずつ変わっている。」
「それが不都合なのですね。」
「当然だ。あなたは外の者だ。血筋も民も違う。なのに、なぜ王太子の隣に立っている?」
怒気を含んだ声。だが、底には焦りのようなものがあった。
セレナは一歩、彼に近づいた。
「もしそれが嫉妬であるなら、愚かなことです。わたくしは殿下の心を奪った覚えなどありません。」
「そう言い切れますか?」
「はい。」
即答する声が、庭の静けさに響く。
その瞳の揺らぎのなさに、ルーカスが動きを止めた。
「……なるほど。あなたは恐ろしい。」
「何とでもおっしゃいなさい。」
セレナは静かに踵を返した。だが、背後でルーカスの低い声が再び聞こえる。
「殿下を惑わせる女は、国を乱す。私は忠誠心ゆえに、あなたを見過ごすつもりはない。」
「脅しのつもりですか。」
「忠告です。」
その声音は静かで、しかし冷たく研ぎ澄まされていた。
*
夜、セレナは自室に戻ったが、胸の疼きが収まらなかった。
嫉妬――それは恐ろしいほど静かに人を狂わせる。
彼女が王都で味わった蔑みとは違う。今、彼女を囲むのは、計算された敵意だった。
机の上に置いた小さなランプの火が揺れる。
その明かりに照らされた手紙の束。その中の一通に、奇妙なものが紛れていた。
封筒には送り主の名がなく、ただ“警告”とだけ書かれた札が入っている。
――夜明けに血を見る前に、去れ。
セレナの指先が冷たくなった。
「これは……誰が……」
彼女はすぐにレオンのもとへ行こうと立ち上がったが、その直前、廊下を歩く足音が近づいてきた。
扉が叩かれる。
「セレナ、起きているか。」
「殿下!」
慌てて扉を開けると、そこにはひどく険しい表情のレオンが立っていた。
「この部屋に怪しい者が出入りしていないか。」
「え?」
「警備隊が不審な報告を受けた。誰かが城内に紛れ込んでいる。」
セレナは震える手で手紙を差し出した。
「これを、先ほど……」
レオンが受け取り、目を通す。その瞳に鋭い光が走った。
「やはり動いたな。これは脅迫状だ。」
「殿下、わたくしは……」
「大丈夫だ。」
そう言ってレオンはそっと彼女の腕を取った。
「今夜は私の執務室で過ごせ。護衛をつける。」
その声は低く優しく、同時に命令のように強い。
セレナは頷き、導かれるままに廊下を歩いた。
彼の手の温もりだけが、夜の冷気の中で確かな現実を感じさせてくれる。
だが――誰も気づかぬ黒い影が、遠くの角からその姿を見つめていた。
その瞳は闇の中でゆらめき、まるで炎のように嫉妬の色で光っていた。
(第11話 終)
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