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第1話 深夜残業と星の裂け目
パソコンの冷たい光が目に刺さり、私は最後のメールを送り出すと、椅子の背にもたれた。胸の奥で小さく軋むような痛みがし、呼吸は浅く、二度三度と整え直す。壁の時計は終電の時刻を過ぎ、オフィスの床に漂う洗剤の匂いがやけに濃い。私はロッカーからコートを引き抜き、無人のフロアに一礼するみたいに小さく会釈した。自動ドアが開き、夜の湿気が肌に絡みついた。
駅へ向かう細い路地は、街灯のオレンジが雨上がりのアスファルトを鈍く照らしていた。ヒールの音が打楽器みたいに一定のリズムを刻み、私の頭の中では明日のタスクの箇条書きが勝手に並ぶ。「あの資料、直し」「部長への報告」「後輩のフォロー」――脳が止まらない。胸が早鐘を打つのを無視して、私は歩幅だけを淡々と合わせた。世界に置き去りにされたような静けさだった。
「……帰ったら、少しだけ寝よう」
ひとりごとが白くほどけ、ふと空を見上げた瞬間、星の並びがわずかに裂けたように見えた。風もないのに看板が鳴り、足元の水たまりが輪を描く。私は立ち止まり、手帳を抱き締めた。音が消え、輪郭だけが残った世界で、目の前の空間が薄い膜のように揺れる。指先を伸ばしたとき、視界は白に反転した。
草の匂いがした。体がふわりと沈み、柔らかな土が背中を受け止める。風は冷たく、葉の擦れる音が近い。私は慌てて起き上がろうとして、身体の芯が空洞みたいに軽くなるのを感じた。足がもつれて倒れ、吐息が湿った苔に吸い込まれていく。遠くで馬のいななきと、硬い靴音がこちらへ近づいてきた。
「――誰か、倒れているのか?」
低く、よく通る男の声が耳をかすめた。影が月を遮り、私は反射的に顔を背ける。外套の裾が揺れ、金具がかすかに触れ合う音がした。私は喉を震わせたが、言葉が砂のように崩れた。瞼の裏が熱を帯び、世界はふたたび白くほどけた。
「安心していい。もう大丈夫だ」
温かな手が、ふっと額に触れた。私はその短い確かさに縋り、深い眠りへ落ちた。
第2話 銀のひとと客間の朝
柔らかな布の重みと、湯気に混じるハーブの香りで目が覚めた。天蓋の薄布が朝の光をふるわせ、知らない天井の彫刻が静かに見下ろしている。私は布団の縁を掴み、呼吸を整えた。胸に残る鈍い痛みは薄れ、代わりに空腹がゆっくりと自己主張を始める。木の床は磨かれていて、窓の外では鳥が短い旋律を繰り返していた。
扉が控えめに叩かれ、小柄なメイドが顔を覗かせた。亜麻色の髪をリボンでまとめ、エプロンの白は朝の光に溶ける。彼女は銀のトレイを抱え、そっとベッド脇のテーブルに置いた。湯気の立つスープと焼きたてのパン、淡い琥珀色のお茶が並ぶ。私は言葉を探し、見つからないまま背筋を伸ばした。
「お目覚めになりましたか?」
「……ここは、どこですか」
「リンドベルク辺境伯様のお屋敷です。森で倒れておられたあなたを、旦那様が連れ帰られました」
メイドの声は鈴の音みたいに落ち着いていた。私は布団の端を指先で撫で、現実の手触りを確かめる。辺境伯――時代劇みたいな響きに、脳が追いつかない。彼女は熱を測り、満足げに頷いた。
「お名前をうかがっても?」
「……高瀬、美咲。タカセ、ミサキです」
「ミサキ様ですね。私はエマと申します。どうぞ、少し召し上がってください。旦那様はのちほどご挨拶にいらっしゃいます」
スープを一口含むと、優しい塩味が胃の奥まで温度を落としていく。ほどける野菜の甘さに、喉が勝手に次の一口を求めた。頬がほんのり熱を持ち、体の輪郭が戻ってくる感覚が心地よい。私はカップを両手で包み、曇った表面に自分の目元を見つけた。
ふたたび扉が叩かれ、今度は背の高い影が差し込んだ。銀の髪が光を受け、湖の面のように静かな碧眼がこちらを映す。男は軽く一礼し、扉際で立ち止まった。距離の取り方が、妙に安心させる。
「気分はどうだ、ミサキ」
「……あなたが、助けてくれた?」
「アレクシス・フォン・リンドベルク。この領の辺境伯だ。森で倒れていた君を見つけた。それだけだ」
アレクシス――名を口の中で転がすと、音が柔らかく喉を滑った。彼は視線を落として私の手元のカップを見、目じりをわずかに和らげる。
「ここでは、働く必要はない。まずは休むことだけを覚えてほしい」
「……休む、こと」
「そうだ。休むのは君の仕事だ。ほかは私が引き受ける」
言葉は甘いのに、どこか軍命のように揺るがない。私は返事の代わりに、カップを口へ運んだ。香りが肺に満ち、心臓の鼓動は二拍ほど遅れて落ち着いていく。彼はそれを確認するみたいに、静かに目を細めた。
第3話 温室に落ちる朝のしずく
案内された温室は、透明な屋根からこぼれる光で満ちていた。葉の上を滑る水滴が、雫の音で小さな太鼓を叩く。私は薄いショールを肩にかけ、深呼吸の仕方を思い出すみたいに胸を広げた。土と水と新芽の匂いが喉を潤し、眠っていた感覚が指先まで戻ってくる。ベンチには薄い膝掛けが置かれていて、誰かの心配りが見え隠れする。
アレクシスは手袋を外し、鉢植えの土を軽く指で崩した。彼は花の名を、一つずつゆっくりと教える。覚える必要はないのに、私はこっそり頭の中で反芻する。覚えることは私の癖で、安心の手順でもあった。息が合わないはずの沈黙が、なぜか心地よく続いていく。
「ここは、あなたの場所ですか」
「癒やしが必要になったとき、よく来る。戦も政もない、ただ息をするための場所だ」
「……息をするための、場所」
言葉をなぞると、胸の奥の固いものが少しだけ動く。彼はジョウロを傾け、さらさらと水音を落とした。金属の縁に光が集まり、彼の横顔を淡く縁取る。私はベンチに腰を下ろし、濡れた土のにおいにまぶたを細めた。
「私、働かないと落ち着かなくて」
「知っている。君の目がそう言っている」
「目、ですか」
不意に笑いがこぼれ、私は視線を逸らした。彼の視線は強すぎない。けれど逃げ道まで照らしてしまう明るさがある。私は両手を膝に置き、言い訳にもならない言葉を探した。
「ここにいる間くらい、上手に怠ける練習をしよう」
「上手に、怠ける」
「怠けることにも技術がいる。最初は私が手取り足取り教える」
冗談のように言う声は真剣で、私は唇の端を上げた。温室の空気が少し温かくなった気がして、私は膝掛けを整えた。雫が落ちる音は相変わらず一定で、私の中のメトロノームを静かに巻き直してくれる。
第4話 「仕事は禁止」の宣言
午前の光が客間のラグを柔らかく照らし、私は机の上に手帳を広げた。無意識に作ってしまった「今日のやることリスト」は、罫線の上で黒々と主張している。私はペン先を当て、ひとつ目の項目に小さなチェックを入れる想像をした。胸の奥が少しだけ軽くなり、同時に奇妙な罪悪感が膨らむ。
ノックののち、アレクシスが入ってきた。彼は机の上の手帳にちらりと目を落とし、無言で椅子を引く。沈黙は短く、けれど逃げ切れない。私はペンを置き、手帳をそっと閉じた。視線は自然と彼の指先に惹かれる。
「ミサキ。ここでは、その手帳は使わない」
「……記録しておかないと、落ち着かないので」
「なら、こう書くといい。『休む』『食べる』『眠る』『笑う』」
彼は手帳を指で押し戻し、いたずらっぽくも見える微笑を浮かべた。けれど声はやはり命令に近い揺るがなさを帯びている。私はペンを取り、迷いながら言葉を写した。文字が並ぶたび、胸の中の針がわずかに遅れて動く。
「約束してほしい。君が自分に課す“仕事”は、ここでは一つもない」
「本当に……一つも?」
「一つも、だ」
言い切られた音が部屋の空気に沈んで、私は思わず笑うしかなかった。笑うことに理由はいらない――そう習ったことはない。けれど今は、それを少し信じてみたくなる。私は小さく頷き、手帳の裏表紙を撫でた。
「では、今日の“仕事”は、午後の紅茶で私を喜ばせることだ」
「それは……“仕事”では?」
「違う。私の仕事だ。君は座って、味わうだけでいい」
彼の言い分は理不尽だ。けれど理不尽の形が、私に優しく合っている。私は立ち上がりかけた足を引っ込め、深く息を吸った。紅茶のカップに小さな波紋が生まれる予感がして、胸の奥が少し温かい。
第5話 メイド長の午後茶会
サンルームの丸卓に薄桃色のクロスがかかり、白い皿の上には焼きたてのスコーン、蜂蜜、ジャム、クリームが整然と並ぶ。窓辺の鉢植えが風を受けて揺れ、その影がテーブルに揺らぎを落とした。私は椅子に腰かけ、膝にナプキンを広げる。銀器は磨かれていて、そこに映る自分の顔は少しだけ柔らかかった。
メイド長のクラリスが、軽やかな手つきでポットから琥珀色の液体を注ぐ。香りはふくよかで、遠いところから果実の気配が混ざる。エマがこっそり親指を立て、私の皿に小ぶりのスコーンを追加した。私は苦笑し、湯気に顔を近づける。
「お口に合うと良いのですが」
「すごく、いい匂い。……こんなに丁寧にされるの、慣れてなくて」
「慣れていただきます。ここでは、それが当然でございますから」
クラリスの声は穏やかだが、逃げ道を塞ぐほど頼もしい。私はスコーンを割り、立ち上る湯気に目を細めた。外はさくりと、中はふわりと、バターの香りが舌の上でほどける。胸の奥で誰かがほっと息をついた気がした。
「ミサキ様、笑ってる」
「そんなに、変ですか」
「とても素敵でございます」
私は視線を落とし、蜂蜜を垂らした。粘る金色が光を抱き、皿の上でゆっくり形を変える。甘さは思っていたよりも柔らかく、喉の奥で静かにほどけていく。手の震えは、いつのまにかどこかへ消えていた。
「お願いがございます、ミサキ様」
「……なんでしょう」
「休むことを、私どもの“誇り”にさせてくださいませ」
その言葉は、私の中の固い鍵穴にぴたりと合った。私はほんの少しだけ、背もたれに体重を預ける。窓の外で雲がほどけ、陽光がクロスの皺ひとつひとつをやわらかくなぞった。
第6話 庭の小道と二つの足音
午後の庭は、日差しが丸く柔らかい。敷き詰められた砂利が靴底の下でさくさくと鳴り、私は歩くたびに音の形を確かめる。背の高い糸杉が並び、その間を縫うように小道が伸びていた。風に乗ってラベンダーの香りが流れ、肩にかかる空気が少しだけ軽くなる。私は手すり代わりに小さな柵へ指先を置いた。
隣で歩を合わせるアレクシスは、外套を片腕に掛けていた。彼の歩幅は大きいのに、私の速度に自然に合っている。言葉は多くないが、沈黙はささくれ立たない。遠くで噴水が音を刻み、鳥が三度だけ短く鳴いた。私は胸の奥の針が、庭のリズムに同期していくのを感じる。
「今日、何度か笑っただろう」
「……自分では、気づかなくて」
「気づかなくていい。私が数えておく」
冗談めいた一言に、私は唇を結んだまま笑う。頬が少し温かい。砂利がひときわ大きく音を立て、私は足を止めた。視線の先には小さな湖があり、水面は薄いガラスのように揺れている。
「ここに来る前、どんな日々だった?」
「朝、電車に乗って、席が空いていなくて、メールが十件、上書きされて、昼は立ったままドーナツ一つ……。帰り道、空を見上げたら、裂けたみたいに、星が」
「君はもう、裂け目の向こうだ」
短く言い切られて、私は肩の力を抜く。湖の端に白い花が咲いていて、風が撫でるたびに小さく頷いた。私の中の時計が、誰かの手で優しく巻き直される。
「ここでの約束をもう一つ」
「はい」
「困ったら、私を呼ぶこと。呼ばれなくても行くが、呼ばれて行くほうが嬉しい」
私は驚いて彼を見上げ、それから視線を湖に戻した。水面に映る二人分の影が、風に合わせて波紋になり、やがてまた寄り添う形に戻る。胸の奥を満たすものに名前はまだないが、呼吸は確かに楽になっていた。
第7話 市場の朝と籠いっぱいの色
朝の市場は、色と音でできていた。果物の山が朝露をはじき、焼きたてのパンが湯気を上げる。屋台の布が風でふくらみ、子どもたちの笑い声が石畳に跳ね返る。私は籠を胸に抱き、指先に伝わる重みを確かめた。これくらいの負荷なら、嬉しい。
アレクシスは帽子のつばを指で上げ、店主たちに軽く会釈していく。彼が歩くだけで道が自然に開き、けれど威圧の影はない。私は干し草の匂いと、甘い果実酒の香りに包まれ、目が忙しく動いた。色の洪水が眩しく、少しだけ泣きたくなる。
「この赤い実、すごく綺麗」
「ルビナの実だ。酸味が強いが、蜂蜜と合わせると絶品だ」
「蜂蜜……」
私は思わず笑った。サンルームの午後を思い出す。店主の女性が、私の表情を見て微笑み、紙袋にひと握り余分に落としてくれた。私は慌てて礼を言い、籠の中で果実が触れ合う音を聴く。
「重くないか」
「大丈夫。持っていたいです」
「なら、私は君の笑顔を持って帰る」
どこかで誰かが口笛を吹き、私はそれをごまかし笑いに変えた。パンの屋台から漂う香りに引き寄せられ、私は小さな丸パンを二つ選ぶ。焼き色の濃淡が美しく、指で押すとふわりと戻る。胸の奥に、小さな幸福がはじけた。
「働いていないのに、こんなに受け取っていいのかな」
「君がここにいることが、与えている。思っている以上にな」
「……そんな風に考えたこと、なかった」
石畳の隙間に小さな草が芽吹いている。私は足元を見て、背筋を伸ばした。風が通り抜け、籠の中の色たちが互いに反射し合う。帰り道のことを、少しだけ楽しみに思える朝だった。
第8話 雨音の部屋
午後、空は重く、雨粒が窓を叩いていた。客間の暖炉に火が入り、オレンジ色の揺らぎが壁紙の模様を踊らせる。私は厚手の毛布にくるまり、椅子の背にもたれた。雨の音は規則的で、心臓の鼓動とどこかで重なる。部屋の空気は温かく、外の世界は遠い。
アレクシスは湯気の立つカップを二つ運び、机に置いた。ハーブの香りは雨の匂いとよく混ざる。彼は窓辺に立ち、外の濡れた庭を短く眺めてから、私の向かいに腰を下ろした。火のはぜる音が、言葉の隙間を埋める。
「雨は、嫌いですか」
「むしろ、安心する。外が動かないから。自分が止まっても責められない日みたいで」
「いい比喩だ。では今日は、公式に止まる日としよう」
私は笑い、毛布から手を出してカップを持った。温度が指先に移り、肩の力がほどける。雨脚は強まり、窓の外は白い膜に包まれる。世界が少し縮んで、部屋がそのまま宇宙になった気がした。
「ここに来てから、よく眠れるようになりました」
「それは私の自慢だ」
「自慢、ですか」
彼の口元がわずかに上がる。私は不意に、泣きたいほど安堵した。理由のない涙は失礼かもしれない。けれど、胸の奥の奥で、小さな何かがやっと着地した音がした。
「眠くなったら、ここで眠ってもいい。私は雨の数を数える」
「数え切れませんよ」
「なら、眠りながら続きを数えてくれ」
私は毛布を引き寄せ、火のゆらめきを目で追った。瞼は自然に重くなり、外の雨は遠くへ引いていく。最後に耳へ届いたのは、彼の低い息遣いと、雨音のやさしい拍子だった。
第9話 小さな台所と失敗のビスケット
屋敷の奥、家庭用の小さな台所は、仕事場のため息とは正反対の匂いで満ちていた。小麦粉とバター、甘い香りが混ざり、手元のボウルには白い粉の山ができている。私はエプロンの紐を結び直し、レシピの行を指でなぞった。測る、混ぜる、まとめる――指示は簡単なのに、心は少し早足になる。
ミーナが手首の使い方を見せ、私に木べらを渡す。私はゆっくりと円を描き、粉とバターがそぼろ状に変わるのを待った。温度と力の入れ具合が難しく、焦るとすぐに固まりが偏る。私は舌を噛んで集中し、肩に力が入る。
「大丈夫、大丈夫。料理は失敗からおいしくなる」
「仕事は、失敗したら怒られてばかりでした」
「ここは台所。怒るのはオーブンだけ」
私はふっと笑い、冷水をすこしずつ加えた。まとまりかけた生地は生意気で、手のひらにくっついたり離れたりする。形の悪い丸を天板に並べ、オーブンの扉を閉める。熱の気配が部屋に広がり、緊張はじんわり汗に変わった。
焼き上がったビスケットは、いくつか焦げ、いくつかは平べったく広がっている。私は肩を落とし、ミーナが「初めてにしては上出来」と笑うのを信じたかった。そこへ、時間を測ったかのようにアレクシスが現れる。
「香りに釣られた」
「見ないでください。失敗作です」
「失敗作から食べる主義だ」
彼は一番いびつな一枚を手に取り、ためらいなく齧った。噛む音が小気味よく、表情がほどける。私は目を瞬かせ、胸の奥で小さく笑いが跳ねた。
「……悪くない。次は蜂蜜を少し」
「蜂蜜」
「君の得意分野だろう?」
私は頷き、焦げた縁を指で割った。ほろりと崩れる音が、妙に心地よかった。
第10話 花畑の告白未満
屋敷の裏手に広がる花畑は、今が最も色づいていた。風が走るたび、花の海にさざ波が立つ。私は籠に薄い布を敷き、摘んだ花をそっと重ねた。指先に残る香りは甘く、目を閉じると遠い日曜の朝を思い出す。そこにあったのが休息だったのか、ただの空白だったのか、今もよくわからない。
アレクシスは少し離れて立ち、花の名前を短く告げる。私は繰り返し、覚えた端から忘れていく。忘れても困らないとわかっているのに、どこかで悔しくて笑ってしまう。彼はその笑いを聞きつけて、肩の力を抜いた。
「ミサキ。君がここにいてくれて、嬉しい」
「……私、何もしてないのに」
「いてくれることが、私を休ませる」
言葉は静かで、風のように軽いのに、心の深いところまで届いた。私は視線を落とし、籠の中の花々を整えるふりをする。頬が熱い。風が髪を揺らし、花の影が影絵のように足元を渡っていく。
「王都から、近く使者が来る。形式的な挨拶だが、少しだけ賑やかになる」
「……私、ここにいていいのかな」
「もちろんだ。私が望む」
短い沈黙の先で、私は小さく息を吐いた。言葉にならない了承が胸の奥でほどける。遠くで蜂が低く唸り、空は高く、雲はゆっくり形を変える。
「いつか、ちゃんと言葉にする」
「え?」
「今はまだ、未熟だ。君の心が完全に休まるまで、言葉に重さを与えない」
私は頷いた。籠の中の花が、軽い音を立てて寄り添った。ここで終わる午後に、続きが自然に約束されている気がした。
パソコンの冷たい光が目に刺さり、私は最後のメールを送り出すと、椅子の背にもたれた。胸の奥で小さく軋むような痛みがし、呼吸は浅く、二度三度と整え直す。壁の時計は終電の時刻を過ぎ、オフィスの床に漂う洗剤の匂いがやけに濃い。私はロッカーからコートを引き抜き、無人のフロアに一礼するみたいに小さく会釈した。自動ドアが開き、夜の湿気が肌に絡みついた。
駅へ向かう細い路地は、街灯のオレンジが雨上がりのアスファルトを鈍く照らしていた。ヒールの音が打楽器みたいに一定のリズムを刻み、私の頭の中では明日のタスクの箇条書きが勝手に並ぶ。「あの資料、直し」「部長への報告」「後輩のフォロー」――脳が止まらない。胸が早鐘を打つのを無視して、私は歩幅だけを淡々と合わせた。世界に置き去りにされたような静けさだった。
「……帰ったら、少しだけ寝よう」
ひとりごとが白くほどけ、ふと空を見上げた瞬間、星の並びがわずかに裂けたように見えた。風もないのに看板が鳴り、足元の水たまりが輪を描く。私は立ち止まり、手帳を抱き締めた。音が消え、輪郭だけが残った世界で、目の前の空間が薄い膜のように揺れる。指先を伸ばしたとき、視界は白に反転した。
草の匂いがした。体がふわりと沈み、柔らかな土が背中を受け止める。風は冷たく、葉の擦れる音が近い。私は慌てて起き上がろうとして、身体の芯が空洞みたいに軽くなるのを感じた。足がもつれて倒れ、吐息が湿った苔に吸い込まれていく。遠くで馬のいななきと、硬い靴音がこちらへ近づいてきた。
「――誰か、倒れているのか?」
低く、よく通る男の声が耳をかすめた。影が月を遮り、私は反射的に顔を背ける。外套の裾が揺れ、金具がかすかに触れ合う音がした。私は喉を震わせたが、言葉が砂のように崩れた。瞼の裏が熱を帯び、世界はふたたび白くほどけた。
「安心していい。もう大丈夫だ」
温かな手が、ふっと額に触れた。私はその短い確かさに縋り、深い眠りへ落ちた。
第2話 銀のひとと客間の朝
柔らかな布の重みと、湯気に混じるハーブの香りで目が覚めた。天蓋の薄布が朝の光をふるわせ、知らない天井の彫刻が静かに見下ろしている。私は布団の縁を掴み、呼吸を整えた。胸に残る鈍い痛みは薄れ、代わりに空腹がゆっくりと自己主張を始める。木の床は磨かれていて、窓の外では鳥が短い旋律を繰り返していた。
扉が控えめに叩かれ、小柄なメイドが顔を覗かせた。亜麻色の髪をリボンでまとめ、エプロンの白は朝の光に溶ける。彼女は銀のトレイを抱え、そっとベッド脇のテーブルに置いた。湯気の立つスープと焼きたてのパン、淡い琥珀色のお茶が並ぶ。私は言葉を探し、見つからないまま背筋を伸ばした。
「お目覚めになりましたか?」
「……ここは、どこですか」
「リンドベルク辺境伯様のお屋敷です。森で倒れておられたあなたを、旦那様が連れ帰られました」
メイドの声は鈴の音みたいに落ち着いていた。私は布団の端を指先で撫で、現実の手触りを確かめる。辺境伯――時代劇みたいな響きに、脳が追いつかない。彼女は熱を測り、満足げに頷いた。
「お名前をうかがっても?」
「……高瀬、美咲。タカセ、ミサキです」
「ミサキ様ですね。私はエマと申します。どうぞ、少し召し上がってください。旦那様はのちほどご挨拶にいらっしゃいます」
スープを一口含むと、優しい塩味が胃の奥まで温度を落としていく。ほどける野菜の甘さに、喉が勝手に次の一口を求めた。頬がほんのり熱を持ち、体の輪郭が戻ってくる感覚が心地よい。私はカップを両手で包み、曇った表面に自分の目元を見つけた。
ふたたび扉が叩かれ、今度は背の高い影が差し込んだ。銀の髪が光を受け、湖の面のように静かな碧眼がこちらを映す。男は軽く一礼し、扉際で立ち止まった。距離の取り方が、妙に安心させる。
「気分はどうだ、ミサキ」
「……あなたが、助けてくれた?」
「アレクシス・フォン・リンドベルク。この領の辺境伯だ。森で倒れていた君を見つけた。それだけだ」
アレクシス――名を口の中で転がすと、音が柔らかく喉を滑った。彼は視線を落として私の手元のカップを見、目じりをわずかに和らげる。
「ここでは、働く必要はない。まずは休むことだけを覚えてほしい」
「……休む、こと」
「そうだ。休むのは君の仕事だ。ほかは私が引き受ける」
言葉は甘いのに、どこか軍命のように揺るがない。私は返事の代わりに、カップを口へ運んだ。香りが肺に満ち、心臓の鼓動は二拍ほど遅れて落ち着いていく。彼はそれを確認するみたいに、静かに目を細めた。
第3話 温室に落ちる朝のしずく
案内された温室は、透明な屋根からこぼれる光で満ちていた。葉の上を滑る水滴が、雫の音で小さな太鼓を叩く。私は薄いショールを肩にかけ、深呼吸の仕方を思い出すみたいに胸を広げた。土と水と新芽の匂いが喉を潤し、眠っていた感覚が指先まで戻ってくる。ベンチには薄い膝掛けが置かれていて、誰かの心配りが見え隠れする。
アレクシスは手袋を外し、鉢植えの土を軽く指で崩した。彼は花の名を、一つずつゆっくりと教える。覚える必要はないのに、私はこっそり頭の中で反芻する。覚えることは私の癖で、安心の手順でもあった。息が合わないはずの沈黙が、なぜか心地よく続いていく。
「ここは、あなたの場所ですか」
「癒やしが必要になったとき、よく来る。戦も政もない、ただ息をするための場所だ」
「……息をするための、場所」
言葉をなぞると、胸の奥の固いものが少しだけ動く。彼はジョウロを傾け、さらさらと水音を落とした。金属の縁に光が集まり、彼の横顔を淡く縁取る。私はベンチに腰を下ろし、濡れた土のにおいにまぶたを細めた。
「私、働かないと落ち着かなくて」
「知っている。君の目がそう言っている」
「目、ですか」
不意に笑いがこぼれ、私は視線を逸らした。彼の視線は強すぎない。けれど逃げ道まで照らしてしまう明るさがある。私は両手を膝に置き、言い訳にもならない言葉を探した。
「ここにいる間くらい、上手に怠ける練習をしよう」
「上手に、怠ける」
「怠けることにも技術がいる。最初は私が手取り足取り教える」
冗談のように言う声は真剣で、私は唇の端を上げた。温室の空気が少し温かくなった気がして、私は膝掛けを整えた。雫が落ちる音は相変わらず一定で、私の中のメトロノームを静かに巻き直してくれる。
第4話 「仕事は禁止」の宣言
午前の光が客間のラグを柔らかく照らし、私は机の上に手帳を広げた。無意識に作ってしまった「今日のやることリスト」は、罫線の上で黒々と主張している。私はペン先を当て、ひとつ目の項目に小さなチェックを入れる想像をした。胸の奥が少しだけ軽くなり、同時に奇妙な罪悪感が膨らむ。
ノックののち、アレクシスが入ってきた。彼は机の上の手帳にちらりと目を落とし、無言で椅子を引く。沈黙は短く、けれど逃げ切れない。私はペンを置き、手帳をそっと閉じた。視線は自然と彼の指先に惹かれる。
「ミサキ。ここでは、その手帳は使わない」
「……記録しておかないと、落ち着かないので」
「なら、こう書くといい。『休む』『食べる』『眠る』『笑う』」
彼は手帳を指で押し戻し、いたずらっぽくも見える微笑を浮かべた。けれど声はやはり命令に近い揺るがなさを帯びている。私はペンを取り、迷いながら言葉を写した。文字が並ぶたび、胸の中の針がわずかに遅れて動く。
「約束してほしい。君が自分に課す“仕事”は、ここでは一つもない」
「本当に……一つも?」
「一つも、だ」
言い切られた音が部屋の空気に沈んで、私は思わず笑うしかなかった。笑うことに理由はいらない――そう習ったことはない。けれど今は、それを少し信じてみたくなる。私は小さく頷き、手帳の裏表紙を撫でた。
「では、今日の“仕事”は、午後の紅茶で私を喜ばせることだ」
「それは……“仕事”では?」
「違う。私の仕事だ。君は座って、味わうだけでいい」
彼の言い分は理不尽だ。けれど理不尽の形が、私に優しく合っている。私は立ち上がりかけた足を引っ込め、深く息を吸った。紅茶のカップに小さな波紋が生まれる予感がして、胸の奥が少し温かい。
第5話 メイド長の午後茶会
サンルームの丸卓に薄桃色のクロスがかかり、白い皿の上には焼きたてのスコーン、蜂蜜、ジャム、クリームが整然と並ぶ。窓辺の鉢植えが風を受けて揺れ、その影がテーブルに揺らぎを落とした。私は椅子に腰かけ、膝にナプキンを広げる。銀器は磨かれていて、そこに映る自分の顔は少しだけ柔らかかった。
メイド長のクラリスが、軽やかな手つきでポットから琥珀色の液体を注ぐ。香りはふくよかで、遠いところから果実の気配が混ざる。エマがこっそり親指を立て、私の皿に小ぶりのスコーンを追加した。私は苦笑し、湯気に顔を近づける。
「お口に合うと良いのですが」
「すごく、いい匂い。……こんなに丁寧にされるの、慣れてなくて」
「慣れていただきます。ここでは、それが当然でございますから」
クラリスの声は穏やかだが、逃げ道を塞ぐほど頼もしい。私はスコーンを割り、立ち上る湯気に目を細めた。外はさくりと、中はふわりと、バターの香りが舌の上でほどける。胸の奥で誰かがほっと息をついた気がした。
「ミサキ様、笑ってる」
「そんなに、変ですか」
「とても素敵でございます」
私は視線を落とし、蜂蜜を垂らした。粘る金色が光を抱き、皿の上でゆっくり形を変える。甘さは思っていたよりも柔らかく、喉の奥で静かにほどけていく。手の震えは、いつのまにかどこかへ消えていた。
「お願いがございます、ミサキ様」
「……なんでしょう」
「休むことを、私どもの“誇り”にさせてくださいませ」
その言葉は、私の中の固い鍵穴にぴたりと合った。私はほんの少しだけ、背もたれに体重を預ける。窓の外で雲がほどけ、陽光がクロスの皺ひとつひとつをやわらかくなぞった。
第6話 庭の小道と二つの足音
午後の庭は、日差しが丸く柔らかい。敷き詰められた砂利が靴底の下でさくさくと鳴り、私は歩くたびに音の形を確かめる。背の高い糸杉が並び、その間を縫うように小道が伸びていた。風に乗ってラベンダーの香りが流れ、肩にかかる空気が少しだけ軽くなる。私は手すり代わりに小さな柵へ指先を置いた。
隣で歩を合わせるアレクシスは、外套を片腕に掛けていた。彼の歩幅は大きいのに、私の速度に自然に合っている。言葉は多くないが、沈黙はささくれ立たない。遠くで噴水が音を刻み、鳥が三度だけ短く鳴いた。私は胸の奥の針が、庭のリズムに同期していくのを感じる。
「今日、何度か笑っただろう」
「……自分では、気づかなくて」
「気づかなくていい。私が数えておく」
冗談めいた一言に、私は唇を結んだまま笑う。頬が少し温かい。砂利がひときわ大きく音を立て、私は足を止めた。視線の先には小さな湖があり、水面は薄いガラスのように揺れている。
「ここに来る前、どんな日々だった?」
「朝、電車に乗って、席が空いていなくて、メールが十件、上書きされて、昼は立ったままドーナツ一つ……。帰り道、空を見上げたら、裂けたみたいに、星が」
「君はもう、裂け目の向こうだ」
短く言い切られて、私は肩の力を抜く。湖の端に白い花が咲いていて、風が撫でるたびに小さく頷いた。私の中の時計が、誰かの手で優しく巻き直される。
「ここでの約束をもう一つ」
「はい」
「困ったら、私を呼ぶこと。呼ばれなくても行くが、呼ばれて行くほうが嬉しい」
私は驚いて彼を見上げ、それから視線を湖に戻した。水面に映る二人分の影が、風に合わせて波紋になり、やがてまた寄り添う形に戻る。胸の奥を満たすものに名前はまだないが、呼吸は確かに楽になっていた。
第7話 市場の朝と籠いっぱいの色
朝の市場は、色と音でできていた。果物の山が朝露をはじき、焼きたてのパンが湯気を上げる。屋台の布が風でふくらみ、子どもたちの笑い声が石畳に跳ね返る。私は籠を胸に抱き、指先に伝わる重みを確かめた。これくらいの負荷なら、嬉しい。
アレクシスは帽子のつばを指で上げ、店主たちに軽く会釈していく。彼が歩くだけで道が自然に開き、けれど威圧の影はない。私は干し草の匂いと、甘い果実酒の香りに包まれ、目が忙しく動いた。色の洪水が眩しく、少しだけ泣きたくなる。
「この赤い実、すごく綺麗」
「ルビナの実だ。酸味が強いが、蜂蜜と合わせると絶品だ」
「蜂蜜……」
私は思わず笑った。サンルームの午後を思い出す。店主の女性が、私の表情を見て微笑み、紙袋にひと握り余分に落としてくれた。私は慌てて礼を言い、籠の中で果実が触れ合う音を聴く。
「重くないか」
「大丈夫。持っていたいです」
「なら、私は君の笑顔を持って帰る」
どこかで誰かが口笛を吹き、私はそれをごまかし笑いに変えた。パンの屋台から漂う香りに引き寄せられ、私は小さな丸パンを二つ選ぶ。焼き色の濃淡が美しく、指で押すとふわりと戻る。胸の奥に、小さな幸福がはじけた。
「働いていないのに、こんなに受け取っていいのかな」
「君がここにいることが、与えている。思っている以上にな」
「……そんな風に考えたこと、なかった」
石畳の隙間に小さな草が芽吹いている。私は足元を見て、背筋を伸ばした。風が通り抜け、籠の中の色たちが互いに反射し合う。帰り道のことを、少しだけ楽しみに思える朝だった。
第8話 雨音の部屋
午後、空は重く、雨粒が窓を叩いていた。客間の暖炉に火が入り、オレンジ色の揺らぎが壁紙の模様を踊らせる。私は厚手の毛布にくるまり、椅子の背にもたれた。雨の音は規則的で、心臓の鼓動とどこかで重なる。部屋の空気は温かく、外の世界は遠い。
アレクシスは湯気の立つカップを二つ運び、机に置いた。ハーブの香りは雨の匂いとよく混ざる。彼は窓辺に立ち、外の濡れた庭を短く眺めてから、私の向かいに腰を下ろした。火のはぜる音が、言葉の隙間を埋める。
「雨は、嫌いですか」
「むしろ、安心する。外が動かないから。自分が止まっても責められない日みたいで」
「いい比喩だ。では今日は、公式に止まる日としよう」
私は笑い、毛布から手を出してカップを持った。温度が指先に移り、肩の力がほどける。雨脚は強まり、窓の外は白い膜に包まれる。世界が少し縮んで、部屋がそのまま宇宙になった気がした。
「ここに来てから、よく眠れるようになりました」
「それは私の自慢だ」
「自慢、ですか」
彼の口元がわずかに上がる。私は不意に、泣きたいほど安堵した。理由のない涙は失礼かもしれない。けれど、胸の奥の奥で、小さな何かがやっと着地した音がした。
「眠くなったら、ここで眠ってもいい。私は雨の数を数える」
「数え切れませんよ」
「なら、眠りながら続きを数えてくれ」
私は毛布を引き寄せ、火のゆらめきを目で追った。瞼は自然に重くなり、外の雨は遠くへ引いていく。最後に耳へ届いたのは、彼の低い息遣いと、雨音のやさしい拍子だった。
第9話 小さな台所と失敗のビスケット
屋敷の奥、家庭用の小さな台所は、仕事場のため息とは正反対の匂いで満ちていた。小麦粉とバター、甘い香りが混ざり、手元のボウルには白い粉の山ができている。私はエプロンの紐を結び直し、レシピの行を指でなぞった。測る、混ぜる、まとめる――指示は簡単なのに、心は少し早足になる。
ミーナが手首の使い方を見せ、私に木べらを渡す。私はゆっくりと円を描き、粉とバターがそぼろ状に変わるのを待った。温度と力の入れ具合が難しく、焦るとすぐに固まりが偏る。私は舌を噛んで集中し、肩に力が入る。
「大丈夫、大丈夫。料理は失敗からおいしくなる」
「仕事は、失敗したら怒られてばかりでした」
「ここは台所。怒るのはオーブンだけ」
私はふっと笑い、冷水をすこしずつ加えた。まとまりかけた生地は生意気で、手のひらにくっついたり離れたりする。形の悪い丸を天板に並べ、オーブンの扉を閉める。熱の気配が部屋に広がり、緊張はじんわり汗に変わった。
焼き上がったビスケットは、いくつか焦げ、いくつかは平べったく広がっている。私は肩を落とし、ミーナが「初めてにしては上出来」と笑うのを信じたかった。そこへ、時間を測ったかのようにアレクシスが現れる。
「香りに釣られた」
「見ないでください。失敗作です」
「失敗作から食べる主義だ」
彼は一番いびつな一枚を手に取り、ためらいなく齧った。噛む音が小気味よく、表情がほどける。私は目を瞬かせ、胸の奥で小さく笑いが跳ねた。
「……悪くない。次は蜂蜜を少し」
「蜂蜜」
「君の得意分野だろう?」
私は頷き、焦げた縁を指で割った。ほろりと崩れる音が、妙に心地よかった。
第10話 花畑の告白未満
屋敷の裏手に広がる花畑は、今が最も色づいていた。風が走るたび、花の海にさざ波が立つ。私は籠に薄い布を敷き、摘んだ花をそっと重ねた。指先に残る香りは甘く、目を閉じると遠い日曜の朝を思い出す。そこにあったのが休息だったのか、ただの空白だったのか、今もよくわからない。
アレクシスは少し離れて立ち、花の名前を短く告げる。私は繰り返し、覚えた端から忘れていく。忘れても困らないとわかっているのに、どこかで悔しくて笑ってしまう。彼はその笑いを聞きつけて、肩の力を抜いた。
「ミサキ。君がここにいてくれて、嬉しい」
「……私、何もしてないのに」
「いてくれることが、私を休ませる」
言葉は静かで、風のように軽いのに、心の深いところまで届いた。私は視線を落とし、籠の中の花々を整えるふりをする。頬が熱い。風が髪を揺らし、花の影が影絵のように足元を渡っていく。
「王都から、近く使者が来る。形式的な挨拶だが、少しだけ賑やかになる」
「……私、ここにいていいのかな」
「もちろんだ。私が望む」
短い沈黙の先で、私は小さく息を吐いた。言葉にならない了承が胸の奥でほどける。遠くで蜂が低く唸り、空は高く、雲はゆっくり形を変える。
「いつか、ちゃんと言葉にする」
「え?」
「今はまだ、未熟だ。君の心が完全に休まるまで、言葉に重さを与えない」
私は頷いた。籠の中の花が、軽い音を立てて寄り添った。ここで終わる午後に、続きが自然に約束されている気がした。
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