ブラック企業から異世界転移した私、辺境伯様に拾われて「仕事は禁止、甘やかすのが俺の仕事だ」と言われて困っています

さら

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第11話 夜会の支度
 午後の陽が傾き、客間には柔らかな影が伸びていた。テーブルには招待状と筆記具、色見本の布が扇のように広がる。私は椅子に浅く腰を掛け、指先で紙の縁をなぞった。胸の奥がゆっくりと脈打ち、知らない社交の規則が名前も知らない鎖のように感じられる。窓の外で、鳩が一度だけ羽音を立てた。

 クラリスが静かに入ってきて、姿勢を正した。彼女は一礼し、私の前に布見本をそっと置く。淡い青、柔らかな藤色、月光のような銀。色の群れが、遠い渚のさざ波みたいに目をすべっていく。私は喉を潤そうとして、言葉より先に小さく息を飲んだ。

「夜会は、領内の顔合わせでございます」
「……上手に、立っていればいいですか」
「上手に立つ必要はありません。気持ちよく呼吸してくだされば、それで十分でございます」

 私は笑い、でも笑いは少しぎこちない。クラリスは気づかないふりで、素早くメジャーを取り出し、私の肩幅や袖丈を測った。肌に触れる布の冷たさが、緊張の輪郭を細くなぞる。数字の羅列が、仕事の時とは違う優しさで胸に沈んだ。

「アレクシス様にお伝えします。ミサキ様が、夜会の星でいらっしゃると」
「……星は、裂けるから怖いんです」
「では、灯で。周りをあたためる灯でいてくださいませ」

 その言葉が胸の奥に灯りをひとつ点す。私は小さく頷き、布見本の中から、夜の湖を思わせる青を選んだ。窓から差し込む光が布に宿り、部屋の空気がひとつ深く息を吸ったように感じられる。クラリスは満足げに微笑み、音もなく下がった。

第12話 夜会の灯
 大広間は光で満ちていた。天井のシャンデリアが星座のように輝き、楽団の弦が薄い絹を撫でるように鳴る。私は入口に立ち、胸の前で指を重ね、呼吸の数を心の中で数えた。纏った青が、胸の鼓動に合わせてかすかに揺れる。周囲の視線が花粉みたいにふわりとかかって、痒くはないけれどむずむずする。

 アレクシスが隣に立ち、手を差し出した。彼の外套は黒に近い深緑で、銀の髪が音もなく光を弾く。指先が触れるだけで、足元の石が少し硬度を増す。私はその手を取って、初めてこの場の上に立てた気がした。唇は乾いているが、声は落ち着いて出そうだった。

「怖くないか」
「少し。でも、あなたがいれば」
「いる」

 短い返事が、過剰に甘やかさない優しさで喉を温める。私たちが一歩踏み出すと、小さな道が開いた。人々の視線が集まり、噂は絹糸のように細く長く伸びる。私は視線を落としすぎないように気をつけて、楽団の弓の動きを目で追った。

「辺境伯、あの方が……」
「森で拾った奇跡、だそうよ」
「働かせないらしいわよ、徹底して」

 花の香りと囁きが混ざり合って、夜会は静かな潮の満ち引きみたいに動く。アレクシスは軽く顎を引き、私の耳元へ近づいた。彼の息は落ち着いていて、心臓の鼓動に合わせて一定の拍を刻む。

「飲み物はどうする」
「……甘くないものがいいです」
「わかった。戻るまで、ここに」

 彼が離れると、私は一人で立つことになる。足の指で靴の中の感触を確かめ、床の模様が規則的に続くのを視線でなぞった。ほどなくして戻ってきた彼が差し出したグラスは、柑橘の香りが微かにする冷たい水だった。グラスの縁に触れて、私の中の緊張がひとつ音を立てて溶ける。

第13話 衣装部屋の鏡
 夜会の翌朝、衣装部屋は布と糸の香りで満ちていた。高い窓から入る光が、吊るされたドレスやリボンに柔らかく反射する。大きな姿見の前に立つと、私の姿が一体なのに他人のように感じられた。肩の丸み、首筋の線、目の下の淡い影。鏡は責めないけれど、正直だ。

 クラリスが肩に布を当て、ピンで仮留めしていく。針山の赤い頭が次々と消えては現れ、静かなリズムで配置される。私は息を止めないように気をつけ、指先で生地の縁を撫でた。光沢の移り変わりが、波打ち際のようにささやかで綺麗だ。

「夜会、よく立っておられました」
「足の裏に、石畳の模様が移った気がします」
「それは誇らしい痛みでございます」

 私は微笑み、鏡の中の自分が同じ速度で微笑み返すのを見た。そこへノックがあり、アレクシスが入ってくる。彼は一歩手前で止まり、ちらりと鏡越しに私を見る。視線が布の落ちる角度を測るみたいに静かで、私の肩から余計な力が抜けた。

「よく似合う」
「まだ、仮留めなのに」
「仮の言葉でも、真実は言える」

 彼の短い言葉は、針よりも確実に布を留める。私は頬に熱を感じ、目を逸らすふりで襟元を整えた。鏡面に光が走り、窓辺の埃が小さく踊る。

「……働かないことに、まだ少し罪悪感があります」
「罪悪感は、体が回復している証拠だ。感じられるほど余白ができた」
「余白」

 私はその言葉を口の中で転がし、鏡の前でひとつ呼吸を深くした。姿見の中の私が、ほんのわずかに姿勢を正す。布の重みは変わらないのに、肩が軽くなった。

第14話 砂糖菓子の午後
 小さな菓子工房に、湯煎の湯気が静かに立ちのぼる。銅鍋の中で砂糖が溶け、泡が細かく弾ける。ミーナが温度計を覗き込み、私に合図をした。私は木べらでゆっくり混ぜ、泡の音が少し低くなるのを耳で追う。甘い匂いは、子どもの頃に遠足の前日に嗅いだ新しいビニールの匂いみたいに、胸をそわそわさせた。

「ここで焦ると、全部が台無しになる」
「焦らない、焦らない……」
「そう。お砂糖は、落ち着いた人についていく」

 鍋から細く糸を引く瞬間、私は息を止めるほど見入った。透明な糸が光を掴み、空気の中で一瞬だけ形を持つ。私は台に並べておいた紙の上へ、糸をゆるい円に落とした。うまくいったもの、形が崩れたもの、成功と失敗が混ざり合って並ぶ。

「これは、失敗」
「形が違うだけで、味は同じだ」
「……それ、救われます」

 そこへアレクシスが顔を出し、鼻先で甘い匂いを追った。ミーナが悪戯っぽく目を細め、崩れた砂糖の輪を差し出す。彼はためらわずに口へ運び、静かに噛んだ。

「壊れた形は、舌の上で先に溶ける」
「擁護が上手ですね」
「事実を報告しているだけだ」

 私は笑い、台に並んだ不揃いの輪をひとつ舌先で割った。軽い甘さが唾液にふっと消え、胸の中に短い休符が落ちる。鍋の泡は静かに萎み、窓の外に小雨が降り出していた。

第15話 湖畔の約束未満
 夕方、湖は薄い銀箔のように光っていた。風が止むと、水面の皺がほどけ、空の色をそのまま引き受ける。私は石畳の縁に腰を下ろし、裾を整えた。靴の先で小石を押すと、かすかな音がして、胸の中の糸が同じ音でふるえた。

 アレクシスが隣に座り、距離を保ったまま空を見た。沈黙は冷たくない。彼は膝の上で指を組み、たまに親指同士が触れ合う。私はその小さな動きに気づいて、理由もなく安心する。

「王都から、使者が来る日程が決まった」
「いつ、ですか」
「十日後だ。賑やかになる」

 数字を聞くと、胸の奥で仕事のカレンダーが反射的に開きかける。私はそっと閉じ、湖へ視線を戻した。白い鳥が一羽、低く滑っていき、水面に一本の線を引いて消える。線はすぐに溶け、何もなかったようになる。

「私、うまく笑えますか」
「今のままでいい。作った笑顔は、ここでは不要だ」
「不要、か」

 言葉は静かに沈み、底で澄んだ音を立てた。彼がわずかに身を寄せる気配がして、私は呼吸のペースを整える。匂いが近い。焚き火の記憶と、朝のハーブの記憶が交じる。

「約束を、まだ言葉にしないと決めたのは、ずるいか」
「ずるくない。私も、今は頷く準備だけしていたい」
「では、その準備を一緒に進めよう」

 私は頷いた。波が一度だけ岸を撫で、空の色が少し濃くなる。遠くで鐘が鳴り、湖面に広がった音の輪が、私たちの沈黙をそっと抱きしめた。

第16話 罪悪感の正体
 書き物机の前に、白紙の紙を一枚置いた。ペン先を手に、私は何も書かないまま三度だけ深呼吸をする。窓から入る風が紙の端を持ち上げ、かすかな音で元に戻した。胸の奥に残る罪悪感は、形を持たないのに影だけ濃い。私はその影に輪郭を与えたくて、静かに目を閉じた。

 ノックがあり、アレクシスが入ってくる。彼は机の対面に腰を下ろし、何も問わずに待った。その沈黙は、急かさないが、こちらを見失わない。私はペンを置き、両手を重ねた。皮膚の下で脈が確かに動く。

「……働かないと、置いていかれる気がするんです」
「誰に」
「世界に。昔の会社に。昨日の私に」

 自分で言って、少し可笑しくなった。アレクシスは目を細め、微かな笑いを目尻だけで受け止める。彼は机上の白紙を指で軽く叩いた。音はほとんどしないのに、合図として十分だった。

「ここでは、世界は君を待つ。紙も、椅子も、私も」
「待たれるの、苦手です」
「慣れれば、贅沢だ」

 私は喉の奥で笑い、肩の力がほどけるのを感じた。彼が立ち上がり、窓の掛け金をゆっくり外すと、風が部屋に深く入ってきた。ハーブの庭の匂いが流れ込み、白紙の紙に影が柔らかく落ちる。

「今日の課題を一つ」
「はい」
「罪悪感を、十数える。数えたら、窓から逃がす」

 私は頷き、声に出さず心で数え始めた。ひとつ、ふたつ。数が進むほど、影は薄くなる。十に達した瞬間、風が紙の端をひらりと持ち上げ、すぐにそっと置いた。私は小さく息を吐き、ペンを持ち直した。書くことはない。でも、書かなくていいと、初めて自然に思えた。
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