ブラック企業から異世界転移した私、辺境伯様に拾われて「仕事は禁止、甘やかすのが俺の仕事だ」と言われて困っています

さら

文字の大きさ
3 / 8

17~22

しおりを挟む
第17話 星明かりの散歩
 夜の庭は、昼とは違う輪郭を持っていた。灯籠の柔らかな明かりが小道を点々と照らし、草花の影が揺れるたびに生き物のように形を変える。私は薄い羽織を肩に掛け、吐く息が白くならないことを確認するように空を仰いだ。星々は冷たいのに、どこか近い。見慣れない並びが、異世界の夜を確かに証明していた。

 アレクシスが隣に立ち、腕を組まずに歩幅を合わせてくる。彼の靴音は控えめで、それがかえって耳に残る。沈黙は不安ではなく、呼吸の仕方を教える楽譜みたいだ。私は砂利道を踏む音を聞きながら、胸の中で緩やかに拍子をとった。

「眠れなかったのか」
「……少し、考えすぎて」
「考えるのは悪くない。ただし、星の下では少し重くなる」
「重くなる、ですか」
「だから、二人で分ければいい」

 彼の声は夜気に溶け、温度を失わないまま私の耳に届く。私は思わず笑い、吐いた息が細く揺れた。足元の白い石が月明かりを反射し、道しるべのように並んでいる。

 庭の奥に小さな噴水があり、水音が夜の静けさにリズムを加えていた。私は縁に腰を下ろし、両手を膝に置く。アレクシスも隣に腰掛け、距離はあるのに同じ温度を分け合っているようだった。

「ここに来てから、時間の流れが違う気がします」
「違って当然だ。君がもう“あの世界”の歯車ではないのだから」
「……歯車」

 その言葉が胸に刺さり、やがて静かに溶けた。私は星を見上げ、名前を知らない光の点を指でなぞる。どれも似ているようで、ひとつひとつ違う。呼吸が深くなるたびに、心の奥で固いものが緩んでいく。

「星は裂けない。安心しろ」
「信じてもいいんですか」
「私が保証する」

 短い言葉が夜空に浮かび、私は小さく頷いた。噴水の水しぶきが一瞬光を捕らえ、また闇に戻る。夜はまだ深く、散歩の道は静かに続いていた。

第18話 告白にならない告白
 翌日の午後、書庫は木の香りに満ちていた。高い棚に並ぶ革装丁の本が、時を閉じ込めたように静かだ。私は窓辺の椅子に腰を下ろし、膝に開いた本を見つめながら、文字の列がうまく頭に入らないのを感じていた。視線は文字を追うのに、心は別のところをさまよっている。

 アレクシスが隣に座り、机に分厚い本を置いた。彼は開く前に、こちらをちらと見る。その視線は、私の心の中を静かに照らす灯りのようだった。

「何か心に引っかかっているな」
「……私、あなたに甘やかされてばかりで」
「それが私の仕事だ」
「でも、何も返せていない気がして」

 口にした瞬間、胸が少し軽くなる。アレクシスは驚きもせず、静かに頷いた。彼の指先が本の角をなぞり、その仕草が妙に穏やかだった。

「君がここにいることが、もう返礼だ。私にとっては」
「それ、本気で?」
「疑うなら、毎日証明しよう」

 言葉は軽やかに響くのに、瞳は揺らがない。その真剣さに、私は心臓を両手で掴まれたような感覚に襲われた。口の中が乾き、言葉が続かない。

「……私、あなたの隣にいていいんですか」
「それ以外の場所を、考えたことがない」

 その答えは告白に似ているのに、告白とは呼べない。私は視線を逸らし、本のページをめくるふりをした。だが文字は霞んで、何も頭に入らない。ただ胸の鼓動だけが、やけに鮮やかに耳に響いていた。

第19話 村人たちの歓迎
 晴れた午後、馬車で少し揺られると、小さな村が見えてきた。屋根に干された麦束が風に揺れ、石畳を駆ける子どもたちの声が空に響く。私は窓辺に寄り、胸の奥にじんわりと温かい感覚が広がるのを感じた。村の入り口には人々が集まり、花の冠を手にしていた。

 馬車を降りると、老婆のマルタが杖を突きながら近づき、私の手を取った。皺だらけの手は温かく、指先に力強さが宿っている。

「ようこそ、辺境の娘さん」
「わ、私は……」
「旦那様が連れてきたなら、もう娘同然だよ」

 村人たちが笑顔で囲み、花の冠を私の頭に乗せた。甘い香りが髪に広がり、胸の奥で固いものが溶けていく。私は思わず涙ぐみ、慌てて笑顔に変えた。

 リオネルと名乗る若者が、私に果実を差し出す。まだ青さの残る香りが鼻先をくすぐった。

「姉さん、これうちの畑で採れたやつです」
「ありがとう」
「元気そうでよかった」

 短いやりとりなのに、心が深く温まる。アレクシスは少し離れたところでその光景を見守り、目尻に柔らかな皺を寄せていた。彼が何も言わずとも、胸の中に「ここにいていい」という確信が芽生える。

 村人たちの笑い声が風に溶け、私は花冠を指で押さえた。軽い重みが、なぜかとても誇らしく感じられた。

第20話 市場の再訪
 再び訪れた市場は、前回よりも親しい空気をまとっていた。果物の香り、焼きたてのパンの匂い、賑やかな声――それらが前より柔らかく胸に届く。私は籠を片手に持ち、足取りも軽く店先を回った。

 エマが一緒に歩き、時々籠に余計な菓子を入れては笑う。私は軽く肩を突き、「ずるい」と呟いた。周囲の人々が親しげに声をかけ、「辺境伯のお連れさん」と呼ぶ。耳に残るその響きに、胸が温かくなる。

「おいしいパン、今日はここで買おう」
「はい、ミサキ様」

 店主の笑顔は太陽みたいにまぶしい。小さな丸パンを手に取り、私は指で押してふわりと戻る感触を確かめる。口に運ぶ前から、心が満たされる。

 アレクシスが近づき、私の籠を軽々と受け取った。
「また重いのを持つ」
「少しくらいは……」
「君の仕事は、笑うことだ」

 言葉は変わらないのに、今回はすんなり胸に落ちた。市場のざわめきに混じり、自分の笑い声が自然に響く。果物も、パンも、人々の声も、全部が「ここでの私」を形づくっている。私はその輪の中に、確かに立っていた。

第21話 再びの罪悪感
 夜、客間の蝋燭が静かに揺れていた。私は机に座り、手帳を開いて「今日やったこと」を書きかけた。けれど、ページは空白のまま止まる。働いていない一日が、重みを持たないように思えて、胸の奥で罪悪感がざわめいた。

 アレクシスが入ってきて、手帳を見やり、静かに椅子に腰を下ろす。
「また罪悪感が顔に出ている」
「……なにもしないって、怖いです」
「怖がるなら、私が隣にいる」

 彼の言葉は短いのに、胸に深く響く。私はペンを置き、両手で顔を覆った。涙が出るほどではないが、呼吸がうまく整わない。

 アレクシスは机の上の手帳を閉じ、私の手をそっと包んだ。温もりが、罪悪感の鋭さを少しずつ鈍らせていく。
「罪悪感は、君がまだ真面目でいられる証だ。それを責める理由にはならない」
「……そう思っていいんですか」
「思え。思うのも、私の命令だ」

 私はふっと笑い、肩の力が抜けた。罪悪感はまだある。けれど、それを持ったまま隣にいていいと初めて思えた。

第22話 花畑の午後
 屋敷の裏手の花畑は、風に揺れて色の海を作っていた。私は籠を片手に、花々を摘みながら歩く。エマが後ろで笑いながらついてきて、摘んだ花を私の髪に差し込む。くすぐったくて笑うと、彼女も声を立てて笑った。

 アレクシスが少し離れたところで腕を組み、静かに見守っている。視線が柔らかく、胸の奥が落ち着く。私は花を一輪彼に差し出した。

「似合わないかもしれませんけど」
「似合うか似合わないかではない。君からもらった時点で価値がある」

 言葉は真剣で、私は頬を赤くした。花を受け取った彼が、それを胸元に挿す。私は笑ってごまかしたが、胸の奥に甘い痛みが残った。風が吹き、花畑全体が波のように揺れた。私はその中で、確かにここにいる自分を感じていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました

めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。 白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。 その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。 それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。 やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり―― 白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。 身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。

【完結】悪役令嬢の身代わりで処刑されかけた侍女、悪人面強面騎士にさらわれる。

雨宮羽那
恋愛
 侍女リーリエは、処刑される予定の主・エリーゼと容姿がそっくりだったせいで、身代わりとして処刑台へ立たされていた。  (私はエリーゼ様じゃないわ!)と心の中で叫んだ瞬間、前世の記憶がよみがえり、ここが読みかけだった悪役令嬢ものの小説の世界だと気づく。  しかも小説ではエリーゼが処刑されるはずなのに、リーリエが処刑されかけているという最悪の展開。  絶体絶命の瞬間、リーリエの前に現れたのは強面で悪人面の騎士ガウェイン。  彼はなぜかリーリエを抱えあげ連れ去ってしまい――? ◇◇◇◇ ※全5話 ※AI不使用です。 ※「小説家になろう」「エブリスタ」様にも掲載しております。

完結·異世界転生したらアザラシ? でした〜白いモフモフでイケメン騎士たちに拾われましたが、前世の知識で医療チートしています〜

恋愛
ネットでアザラシを見ることが癒しだった主人公。 だが、気が付くと知らない場所で、自分がアザラシになっていた。 自分が誰か分からず、記憶が曖昧な中、個性的なイケメン騎士たちに拾われる。 しかし、騎士たちは冬の女神の愛おし子を探している最中で…… ※小説家になろう、Nolaノベルにも投稿しています ※完結まで毎日投稿します

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

女性が少ない世界に転生した控えめ伯爵令嬢、なぜか五人の婚約候補に選ばれて少しずつ恋を知っていきます

ノッポ
恋愛
女性が極端に少ない異世界に転生した私は、気づけば伯爵令嬢になっていた。 前世は日本で普通に生きていたせいか、貴族令嬢らしい強気な振る舞いがどうしても苦手。 社交界デビューを迎えても、「どうして私が選ばれるの?」と戸惑うばかりだった。 けれど今年デビューする高位令嬢はわずか三人。 家同士の思惑も重なり、騎士団長家の息子、宰相子息、魔術師団長の息子、幼なじみの侯爵子息、そして英雄騎士―― 五人の若きエリートとのお見合いが次々と始まってしまう。 遠慮がちで控えめな性格は、この世界では珍しく、気づけば少しずつ距離を縮めていく彼ら。 異世界での恋愛に戸惑う日々。けれど出会いを重ねるたびに、私は少しずつ変わっていく――。 女性希少世界で、自分の幸せを選べるようになるまでの逆ハーレム恋愛ファンタジー。

【完結】氷の王太子に嫁いだら、毎晩甘やかされすぎて困っています

22時完結
恋愛
王国一の冷血漢と噂される王太子レオナード殿下。 誰に対しても冷たく、感情を見せることがないことから、「氷の王太子」と恐れられている。 そんな彼との政略結婚が決まったのは、公爵家の地味な令嬢リリア。 (殿下は私に興味なんてないはず……) 結婚前はそう思っていたのに―― 「リリア、寒くないか?」 「……え?」 「もっとこっちに寄れ。俺の腕の中なら、温かいだろう?」 冷酷なはずの殿下が、新婚初夜から優しすぎる!? それどころか、毎晩のように甘やかされ、気づけば離してもらえなくなっていた。 「お前の笑顔は俺だけのものだ。他の男に見せるな」 「こんなに可愛いお前を、冷たく扱うわけがないだろう?」 (ちょ、待ってください! 殿下、本当に氷のように冷たい人なんですよね!?) 結婚してみたら、噂とは真逆で、私にだけ甘すぎる旦那様だったようです――!?

余命僅かな大富豪を看取って、円満に未亡人になるはずでした

ぜんだ 夕里
恋愛
傾きかけた家を救うため、私が結んだのはあまりにも不謹慎な契約――余命いくばくもない大富豪の辺境伯様と結婚し、彼の最期を穏やかに看取ることで莫大な遺産を相続する、というものだった。 しかし、人の死を利用して富を得るなど不正義! そう考えた私が立てたのは、前代未聞の計画。 「そうだ、遺産が残らないくらい贅沢の限りを尽くしてもらえば、すべて丸く収まるじゃない!」

転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?

朱音ゆうひ@『桜の嫁入り』発売中です
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!  「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」 王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。 不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。 もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた? 他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)

処理中です...